*禍福は糾える縄の如し 『戦場で女は負ければ道具みてェに扱われる。この意味、分かるだろ』 嫌な言葉とは十年前、高杉に言い放たれたものだった。 今の状況がまるまるあの時の言葉に一致する。このまま従っていれば碌な目にしか遭わない。それなら死ぬ可能性が高くても、逃げる事の方が重要だ。 袖に仕込んであった貫級刀を探り掴むと、気がつかれないよう腕に隠れ体に密着した側の縄に押し当てる。よく研がれた刃は、少しずつではあるが縄を切っていく。 後少し、もう少しで全て切れる。そう思った時だ。また子が鏡を閉じこちらを見た。そしてその瞳は床にいき、驚愕の色に見開かれる。 なんだ?と思い同じ場所を見れば、切った縄がバサバサと落下していて。 「あ…、いやこれはあれです、ほらアレ」 アレってなに!? 自分で言ってて無責任だけど自分が一番なにか分からない!! 「おまえ何やってるっ!!?逃げようなんざ許さないっスよ!!」 「うわっ!!」 また子は今まで開けようとしなかった扉を足で蹴り開けると、***を部屋へと押し入れた。 腹這いに倒れ、床で痛むお腹をしたたかに打ち付け派手に滑る。露出した肌が擦れて至る所が痛んだ。 視界に入るのは頬に押し付けた畳と、胡座をかいて座る部屋の主の腰までで、かなり派手な蝶柄の着流しを着ている。しかし覗く足は明らかに男。それでもまだ負けるわけにはいかない。最後の縄を切り、貫級刀を手に目の前の男に振りかぶった。 「晋助さまあああッ!!!」 また子の叫んだ名前に驚き、振り返れば銃を構える彼女がいて。避けられない、と思えば伸びてきた手が頭を、貫級刀を握った手首を押さえ込んでくる。男の強襲に対処できずに、そのまま強かに身体を伏せる形で畳に押し付けられた。 「……っ…かは!!」 強い衝撃にくらりと目の前が揺れる。同時に似蔵に蹴られたお腹も痛み、ぐっと息が詰まった。 「し、晋助さまあっ!ケガは、」 また子はバタバタと駆け寄ってくると、晋助と呼ぶ男の体をぺたぺたと触り無事を確認すると、伏せた***に罵声を浴びせた。 「晋助さまに襲いかかろうなんて良い度胸だな!!二度と日の目なんか拝ませないっスよ幕府の犬が!!」 聞き間違いなんかじゃない。また子はこの数秒の間に、三度も名前を呼んだ。“晋助”と。 顔を見たわけじゃないから本当に高杉晋助かなんて分からない。でも、幹部の来島また子が様付けで呼ぶ相手なんて限られる。 「クッ、幕府の犬か。女の身で忠義を誓うたァ物好きな奴だな」 貫級刀を握った腕がギリギリと締められ、握り潰されるんじゃないかという強烈な痛みが走る。 「ぅああぁ…!!…し、しん…け、待って……私、***」 痛みで力の入らない手から貫級刀がすり抜けていった。 「また子、出ていけ」 男の言葉にまた子は固まる。 真選組の隊士と2人きりになんて何をされるか分かったもんじゃない。しかも浪士3人をあっさり気絶させた上、捕まりながらも平静を保ち逃げようとするほどに肝が据わっている。 「この女と2人だなんて、絶対にできないっス。浪士3人気絶させたんですよ。それより拷問にかけましょう。この場所を知られているとなると、アレのことも知られている可能性があります。持ってる情報全て吐かせて直ぐに対処するべきです」 「あぁ、だから俺が直々にかけてやる。喋りたくてたまらなくなる方法でな…」 恐ろしい言葉に抵抗しようと身じろぎすれば首もとに、落ちた***の貫級刀がひたりとあてがわれた。 「大人しくしていろ」 突きつけられた冷たい刃と声に身じろぎひとつ出来ず、また後ろ手に縛り上げられた。 2人きりになった部屋に、高杉の吸う煙草の煙りがゆらゆらと揺蕩う。***はうつ伏せのまま芋虫状態の背に足を乗せられていた。 「何してやがる」 暫くその状態だったが、カツンと煙管に溜まった灰を捨て***に声をかけた。 「似蔵に会わせて」 「何してやがるか聞いてんだ、答えろ」 「辻斬りの似蔵を捕まえに来たの」 「そこじゃあねェよ。……ンで真選組なんぞにいるのか聞いてんだ、俺ァ」 また子が投げ捨てていった警察手帳と***の刀を手に、高杉は新たに火を点けた煙管で煙を燻らせる。中には丁寧に***の顔写真と役職名まで書かれていて、言い逃れなんか出来ない。 真選組にいる理由。成り行き上と言うのが一番大きかったが、それだけではない。 「真選組にいるのが、一番利点が多かったから」 「利点だァ?」 そもそも真選組との出会いは最悪なものだった。ふらふらと当てもなく旅を続けかぶき町に着いたその日に、護身用にと持っていた刀を巡察中の真選組隊士に見咎められ攘夷浪士と間違われ連行されたのがきっかけだった。 このご時世、廃刀令が敷かれていても天人の少ない田舎を歩き回る分には見咎められるなんてことは余り無かったせいもあり、かぶき町が将軍のお膝元で警備の厳しいターミナルのある場所だとすっかり忘れていた。 刀を取り上げられ何日にも渡る取り調べをされ、慣れない環境下で肉体的、精神的にも参っていた。そんな時だった。真選組局長、近藤勲と対面したのは。 身元を洗われ幼い頃は幕臣だったこと。両親が幕軍として攘夷戦争に参加し死んだこと。先代将軍、定々に屋敷も何もかも取り上げられ身ひとつで寒空に放り捨てられたこと。全てを知り自分の事のように、バカみたいに泣く初対面の男に肝を抜かれたのを今でも覚えている。 * * * 今日もまた取り調べか、とため息をついて***は簡素なパイプ椅子に座った。 今日は誰だろうか。鬼の副長土方か、沖田か、はたまた別の人物か。なんて思っていれば、全く顔を合わせたこと無い男が取り調べ室に入ってきた。その後に、土方と沖田も続く。男は局長、近藤勲と名乗り目の前に対面する形で机を挟んで座った。 真選組のトップ3人が揃って罪人に会いに来るなんて、送検の準備が終わったのか。これから自分の身がどうなるのか、たった刀一本で偉い目にあったが、せめて攘夷浪士なんて肩書きで罪が重くならないように、しっかり話をつけなければと畏まった時だ。 顔をマジっと見られたと思えば、たばーっと滝のように涙を流す近藤。 「両親を戦争で亡くし、その上仕えるべき将軍に…!!幕府を憎む気持ちもわかる!だがな、だからって女の子がこんな…、」 強面の大男が恥ずかし気もなく涙を流す姿にびっくりして局長の両サイドに立つ2人に視線を送れば、やれやれとばかりに呆れかえる沖田と、眉間にシワを寄せて仕方ないとばかりに溜め息を吐く土方がいた。 「女の子なのに攘夷浪士なんてなったら本末転倒でしょう!!」 「すいませんけど、女の子って歳じゃないです。だいたい攘夷浪士でもありません。ずっと言ってますけどひとり旅してて護身のために持ってるんです」 「え゛…?報告じゃあ攘夷浪士って…え、トシどういう事だ」 やっと話の通じる人がきたと弁明をしようと口を開けば、土方が徐に手を伸ばしてきた。着物の裾を掴むと躊躇いもなく捲られ、右腿に懐刀、左腿に貫級刀をベルトで巻きつけ潜ませていたのが露わになる。 「護身の為だ言ってる女が、こんな物騒なもん股にぶら下げてるかよ」 「セクハラッ!!訴えますよ!!」 咄嗟に裾を掴んで取り戻す。 捕まってそろそろ一週間が経つ。てっきり気がついていないものと思っていたのに、予想外だった。 「訴えるだァ、こんなとこに潜ませてるからって俺たちが手ェ出せないと思ってたら大間違いだぞ。こちとら不正してるヤツがいりゃァ女だろうがそれ罰するのが仕事なんだよ」 「だったら口で言ってくれれば良いじゃないですか」 女性の着物をこうもあっさり捲るのは如何なものか。 「捲くられたくなきゃ自分で差し出すんだったな」 こっちだって人生掛かってるんだ。罪が重くなるようなこと、自分から言うわけがない。 「わーほんとほんと、罪人に諭されるなんざ警察としても人としても土方さんってサイテーだな」 互いに睨み合っていれば反対側から茶化すかのような声。 「訴えるなら俺に言ってくだせェ。社会復帰できないくらいまで突き落として地べたに這い蹲らせてやりまさァ」 「おい総悟ォ!!お前警察だろう、なんで俺を突き落とすの!?」 「土方コノヤロー、お前今何したか分かってるんですかィ?女の太腿、邪な目で見ただろうが」 「見てねェよっ!!コイツが武器を未だ隠し持ってたからそれをだなッ!!」 「ここに俺と近藤さん、歴とした証人が2人もいるんですぜ。言い逃れなんていい年した大人があーヤダヤダ」 「……ッ総悟!!お前なあ」 「まあまあふたりとも落ち着け」 「ほんとでさァ、土方さんてば女の太腿見たくれェでエラく興奮しやがって。恥ずかしくねェんですかィ」 柄に手をかけ今にも刀を抜きかねない土方を近藤が宥めるも、そんなのお構い無しに沖田はさらに油を注ぐ。 「興奮してすらねェよ!!こんな武器隠し持った物騒な女にそんな気起きるかバカヤロー!」 「ふふっ、」 言い争いをする姿に思わず笑いが零れた。 話の内容が内容だが、まるで晋助とヅラ、銀ちゃんの言い争いを見てる気分で懐かしさに胸が温かくなる。 「何笑ってやがる」 「『人斬り集団』そう呼ばれるわりに普通に血の通った人達の集まりなんだなって」 「お前な、状況分かってるか」 戦場で鬼兵隊総督、狂乱の貴公子、白夜叉なんて呼ばれていても、あの3人もちゃんと人の感情を持った血の通ったあったかい人間だった。 「ああ、いいこと思いつきました」 「聞いてる!?オメー俺の話聞いてます!!?」 ろくなことじゃないとばかりに顔を歪めた土方を後目に、目の前に座る見た目じゃ分からない情の深い男を見つめる。 「局長さん。私を真選組に入れてください」 「はあ!?」 横で素っ頓狂な声を上げた土方を無視し言葉を重ねる。 「かぶき町にきたばかりで仕事探さなきゃと思ってたんです」 ひとつの賭みたいなものだった。真選組にいれば、未だ攘夷志士として世間に悪名を馳せる高杉晋助、桂小太郎と接触できる可能性が増える。何より武装警察となれば帯刀も認められ、みんなに近付きたいと握った刀を手放さなくて済む。 それに、見たのだ。この十年ずっと捜して止まなかった銀髪の男を、此処かぶき町で。 「お前は今から懲役という仕事期間に入るんだよ」 面白味のないツッコミを無視し、身を乗り出す勢いで目の前の近藤に訴える。 「剣以外にも一応傷の手当てとかも出来ますんで、真選組に置いて頂けませんか」 「オーイ無視すんじゃねェよ」 「うーん、だがこんな男所帯に女性を置くわけにはいかんし」 「うーんじゃねェよ、近藤さん!!幕府に恨み持ってるような女、入隊させるわけいかねェだろうがっ!!将軍さま危険だよ!!わかってる!?」 「副長さん、私いまさら幕府とかどーでもいいんです。恨むだけ時間の無駄」 「今から真選組に入ろうって気構えした奴のセリフじゃねーだろうがッ!!」 「ホントですねィ。土方を納得させてェってんならそんな態度じゃ駄目ですぜ。先ずは供物にマヨネーズをですね…」 ごにょごにょと耳打ちしてくる沖田に、耳を傾ければ2人揃ってぱこんと平手で頭を叩かれた。 「なに胡麻擂り戦法教えてんだ。俺じゃなくて幕府に対する害意が問題だっつってんだよ。それにそもそも女が、刀なんか握るもんじゃねェ」 「女ね。ねえ副長さん、なんで女は刀を握ってはいけないんですかね。昔別の男性から似たようなこと言われたんですが、そんなに握っちゃいけないものなの?女も、守りたいもののために戦うのは間違ってるんですか」 あのときの光景が思い出される。 “お前は所詮女なんだ” 罠まで仕掛けて人を斬る覚悟のない私を引き留めさせた銀ちゃん。 でも、一緒に戦いたい、守りたい気持ちだけは負ける気はなかった。だから違うことで力になりたい。死地から帰ってきたみんなを、日常を忘れさせないためにとびきりの笑顔で迎えたい。帰る場所が、日常があることを、待っている私がいることを忘れないで欲しい。そう思って、戦うみんなの元に通い詰めた。 でもそれでも足りなかった。 だから、誰も帰ってこない。 なんて目しやがる。 土方が***に向けられた目は、悲しげでいて虚しさを湛えていた。 ――十四郎さん。あなたの傍にいたいの。 彼方の記憶に封じ込めていた、男とは違う強さを秘めた女性を思い起こさせた。 「間違いとか、そういう意味じゃねェよ。ただ、女は男と違って腹ん中で命を育む生きもんだろ。だから人斬る道具持って欲しくねェし、まして人斬り集団になんか入るべきじゃねェんだよ」 だから諦めろなんて目が語ってくる。 「ぶっ…!あはははっ副長さんてばマジメ!」 「うるっせェ!お前が聞いたんだろうが。だいたい真選組に入隊したい理由はなんだ」 「だから仕事が」 「仕事だって言うなら世話してくれるヤツ紹介してやる。ここ江戸じゃ真選組でなくたって働ける場所は沢山あんだよ」 「銃刀法違反の前科持ち、雇ってくれるとこもあるんですかね」 皮肉って言えば舌打ちが返ってきた。 「そうだな、今時不逞浪士に関わるのは嫌がる風潮があるしな。だが、流石に女性を入隊させるのは俺達では判断しかねる」 「だぁーかぁーらぁー近藤さん!!なんで良いみたいな雰囲気醸し出してんだ!攘夷浪士かもしれねェ女だぞ」 「土方ァいい加減にしろよーザキの調べじゃほぼ白だったじゃねェですか」 「ほぼで完全じゃねェだろうが。んな不確かなもんで不祥事起こしてみろっ!!この女だけじゃねェ、近藤さんの首も飛ぶんだぞ!!」 「そいつは困りましたねィ。オイ、クソ女ァ」 突然飛び出した白宣言に目を輝かせていれば、がしりと頭を鷲掴みにされた。 「洗いざらい企ててること吐きなせェ。今なら四分の三殺しで済ましてやらァ」 逆の手にはいつ抜刀したのか抜き身の刃。首元にひたひたとあてがわれる。 ちょっとまて!! 「半分以上死んでる!!それほぼ死んでるから!!しかもそんな企てなんかしてません!ただ真選組だと利点があるってだけ…ぁ」 いやああああ!! 口が滑ったッ!! 目の前の沖田を見れば警察というよりは極悪人と言った方が似合う表情。 「あぁン?何ですかィその利点てのは。開く口がねェってんなら、かっ捌いてやりますがどーします」 首から頬へと峰部分を肌に押し付けられて刃先が移動する。手首を捻られれば刺さりかねなくて身動きもできなかった。 「総悟ぉおお!!?」 「まてまてまてまて!総悟くぅんン?何してんの?止めてお願い、それかっ捌いたらいけないよ。捌いたらテメェの腹ァ自分で捌かせるよ!?」 「うるせェですぜ土方ァ。知りたくねェんですか、理由。俺は知りたいですぜ。女の身でありながら刀を握り強くなろうと思った理由」 男であってもこのご時世、刀を握るのは難しい。女となればもっと大変だったはずだ。それに先ほど垣間見せた感情。 “女も守りたいもののために戦うのは間違ってるんですか” 浮かべた表情は否定しないでと願っているようにすら総悟は感じた。そんな表情をさせる別の男性と***が言った男も気になったが、それだけの意志を持って守りたいものとは何なのか。 「なあ、***さんでしたか。洗いざらい吐くのと攘夷浪士として処断されるのどっちがいいですかィ。俺たちの匙加減ひとつで正義の警察にも犯罪者にもしてあげられますぜ」 「疑わしきは罰せずって言葉知らない!?ほぼ白なんでしょ!」 「俺の辞書にはそんな言葉ありやせん。あるのは近藤さんに仇なすヤツは排除あるのみ、でさァ。どうしやすか」 警察にあるまじき不正の発言にげんなりすれば、畳みかけられたまるで極道の右腕みたいな発言。暖簾に腕押し状態。 「わかった、わかりました!言えばいいんでしょう!真選組に入りたいのは刀、手放したくないからです」 刀を握ったのは攘夷戦争に置いて行かれたからだけじゃない。戦争に出て暫く経つと何も言わずにみんなが姿を消したから。いつ死ぬか分からない。なのに何ひとつ別れの挨拶もなしに離れ離れになった。 もっと自分が強かったら一緒にいられたのに。弱い自分が憎たらしくて、一緒に隣を歩けない自分が大嫌いで、強くなりたくて刀を握った。 「刀は、私が私であるための大切なものなんです」 それを自ら手放すと言うことは近づきたいとひたすらに踏ん張ってきたこの十年の全てを、自分で放り投げ否定することのような気がして手放すなんてとてもじゃないができなかった。 「真選組に入れてくださるなら何だってします。お願いします」 私が私で在るために。 そしてこの十年、安否すら分からなかった彼を捕まえるために。 ***は真っ直ぐに近藤を見つめると腿に差していた懐刀を外し差し出す。生まれた時に守り刀として両親が拵えてくれた、片時だって離した事のない心の拠り所。いきなり生家を追い出された***にとって唯一の形見と言っていい代物だった。 「局長さんにお預け致します」 「え、いや、預けるって言われても」 いきなりの申し出に近藤は戸惑う。 鞘には家紋が入っており武家の娘が持つものとなれば、親がどんな思いで拵えたものなのか分からない近藤ではなかった。さらに未婚の女が男に守り刀を渡す行為は求婚の証で、受け取ることは如何がなものかとより留まらせる。 「そういう意味じゃないですよ。私これでも好きな人いますし。預けるのは私の命です」 刀を持つ前はこの懐刀が自身を守るたったひとつの刃だった。それを手放すのだから***にとっては命を預けることと同等の意味を持つ。 「命ねェ…ますますもって怪しむ要素盛り沢山じゃねェですか。初対面の人間に命預けるたァ良からぬ事画策した輩が油断誘うために口にする常套句ですぜ。勘ぐられても仕方ねェですよ」 「総悟の言うとおりだ。命預けるなんざ初対面の相手にすることじゃねェだろ」 先を察っしろバカがとばかりに溜め息を土方は吐く。 「それ相応のことを私は局長さんにしていただきましたから」 「え゛?俺そんな大層なことしてないよ」 「もう忘れたんですか?見知らぬ私なんかの為に涙を流してくれたじゃないですか」 誰だって辛いことのひとつやふたつ過去にもっている。それを見知らぬ女、しかも初対面で敵対する攘夷浪士かもしれない***の為に、近藤は惜しげもなく涙を流した。 「いやいや、そんな事で?」 「嬉しかったんです」 父も母もなく、大切な人達は十年も帰ってこない。長い間ひとりでこの国をさ迷って来たが、近藤のように暖かい人に巡り会えることは指を折って数えられるほどだった。 だから、ここにいてみたい。刀も持てる上、この人なら信じてみてもいいと思えた。 「局長さん、お願いします」 ***の言葉を聞いていた総悟は頭から手を離すと刀を鞘に収めた。 「近藤さん、いいんじゃねェんですか」 「オイイイ!!総悟までっ何考えてんだオメー等は!」 「攘夷浪士かもしれねェ女、このまま釈放するより手元で監視出来るんですぜ。少しでも怪しい素振りを見せた時にバッサリ斬ってやりゃァ良いんですよ。命預けるとまで言ったんですから。なあ***さん」 攘夷浪士なら飛んで火に入る夏の虫ですぜィ。思う存分こき使って利用してボロ雑巾にしてやりまさァ。 ニタァと極悪人面で総悟は笑うと刀を少し抜いてギラリと光る刀身を見せつけてくる。思わず顔が引きつった。 「たっくよ…分かったよ。掛け合えば良いんだろとっつあんに」 「トシ!お前なら分かってくれると思ったよ」 「分かっても納得はしてねェからな!それから女、これは自分で持ってろ」 くるりと近藤から***に目線を合わせた土方は、机の上に置かれた懐刀を突き返してきた。 「え、でも」 「でもじゃねェよ。テメーの身を守るもんが減って真選組でやっていけるか。ただでさえ非力な女なんだ、持ってろ」 手を掴まれると押し付けるように手渡される。 「それはそうですけど…でも、私に信頼が持てるまで預かっていただきたいんです」 無理を頼み込んだのは理解している。だったらそれ相応に応えなければと***も引き下がれなかった。 「却下だ。端から上司の言うことに従えねェならこの話はナシだ。いいのか」 意地の悪い返しに***は口を噤むしかなかった。ぐっと言葉を飲み込む***を前に土方は溜め息を吐くと、取り調べ室を出て行こうとドアに手をかけた。 「副長さん」 ***の声にぴたりと立ち止まると振り返る。 「なんだ。こっちはお前の事でやんなきゃなんねェ事が増えたんだ。早くしろ」 「ありがとうございます」 「礼なら近藤さんに言うんだな。それにまだ早ェよ」 「そのことだけじゃありません。これです」 握った懐刀を小さく振る。***の言葉の意味を理解すれば、眉間に寄ったシワが深くなった。 真選組にとって敵対する攘夷浪士かもしれない、幕府に遺恨を持つかもしれない女を受け入れ、剰え武器を返すなんて普通ならばしないこと。***にとってみれば土方の行為は信頼の証に他ならなかった。 誰が鬼副長なんてつけたんだろう。鬼の仮面被ったただの不器用な優しさの塊じゃないか。 「鬼が笑ってますよ、副長さん」 「うるせぇよ」 土方は舌打ちをひとつ零すとドアの向こうに消えていった。 選んだ道のその先に ♭16/07/10(日) (7/20) ← |