59


「帰りな」

再び顔を上げ扉へと手を伸ばす晴太に扉の向こう側から、かけられた言葉は静かで冷たいものだった。

「ここにアンタの求めるものなんてありゃしないよ。帰りな」

それでも晴太にとっては初めてかけられた母親からの声。その内容よりも、手の届きそうな距離にいることに気持ちが急き投げ捨てるように閂の板を外して扉を開こうとする。

「かっ…母ちゃん!!母ちゃんなのか!!」

だが内からも戸を閉ざしていて叩いても引いても、扉は開くことがなかった。

「開けてくれよ!!オイラだよ分かってんだろ、アンタの息子の晴太だよ!!」
「私に息子なんていやしないよ。あんたみたいな汚いガキ、知りゃしない」

汚いガキ。その響きに晴太の手は止まった。
月詠の言っていた言葉が本物だったのだとその言葉で深く理解していく。

「なんで汚いガキって知ってるんだよ。見てたんだろ、オイラが、いっつも下からアンタを見てた時アンタも…オイラのこと見てたんだろ。何度叫んでも答えてくれなかったけど、ホントはオイラを巻き込むまいと、必死に声が出そうになるのを我慢してたんだろう!!」

晴太は言葉を重ねる度に、深い日輪の愛情を再確認した。
自分のことを守ってくれている日輪がいるのに、そうして守られていることすら知らず不幸だと、自分を捨てた母親のせいにしていたことを酷く悔やんだ。

「オイラ…なんにも知らなかった。なんにもわかっちゃいなかった。母ちゃんがずっとオイラのこと守ってくれてたなんて。だから今度はオイラの番だ」

少し扉から離れると床を蹴り体全体で頑として開くことの無い扉に体当たりをした。離れてはぶつかって。離れてはぶつかって。まるで頑なな日輪の心に強く強く触れるかのように。

「今度はオイラが母ちゃんを吉原ココから救い出す!、今度は、オイラが母ちゃんを護る!!もうこんな所に絶対に置いていったりしない。今度こそ一緒に吉原ココから出るんだ!!母子で一緒に地上うえに行くんだ!!だから母ちゃん…ここを開けてくれ!!お願いだ母ちゃん!!母ちゃん!!」
「やめとくれ!!」
「…かっ、母ちゃん」

強い静止の声に思わず晴太の足が止まった。

「アンタの母ちゃんなんて…ここにはいない。そう言ってるだろ…」

日輪の絞り出すかのような声音は苦渋に満ちている。

「そんな事はあるまい。そんなに会いたくば会わせてやろう。このわしが」

晴太の必死な姿にここがどんな場所だったのか、認識が甘くなっていた。振り返れば大きな体に再び着物を纏った夜王鳳仙の姿があった。

「ほっ…鳳仙!!」
「あっちゃー見つかっちった」

鳳仙は晴太の足元に何かを投げて寄こした。

「連れていくなら連れていけ。童、それがお前の母親だ」

それは髪紐で纏めたものを切り落とした髪の束だった。遺髪かもれないそれはポトリと軽い音を立てて少し転がると晴太の足元で止まる。

「お前の母親は日輪ではない。とうの昔に死んでこの世におらんわ」

誰のものとも分からないそれに晴太は目を見張る。

「………何を…言ってるんだ」
「吉原の花形たる花魁が誰にも露見することなく子を産むなど出来るわけがあるまい」

8年前子を孕んだ花魁がいた。だが、子を孕めば腹の子ごと始末される。それを匿い人知れず密かにその腹の子を取り上げた。
それが晴太だと、鳳仙はいった。
お腹の中で育みこの世に晴太の命を産み落としたのは日輪では無い。

「残念ながらそこにいるのは、お前の母親などでは無い。母に憧れながらしかし母になることも叶わない、母親ごっこに興ずるただの哀れな遊女だ」

鳳仙が敷いた吉原の掟は何ひとつ***は知らないし、理解をしたくはないと思っていたが、言っていることは的を得ているのだろうか。先程までの苦しみに満ちた日輪の声は落ち着いていた。

「…どうして、どうしてこんな所に来ちまったんだィ。なんで…こんな所に…ほっときゃ良かったんだ私の事なんて。私たちの分まで地上うえで元気でいてくれりゃそれで良かったんだ。アンタが命張って守る程のモンじゃないんだよ私ゃ」

日輪の声はどこか諦めたように***の耳に届いた。本当の母親ではなかったから、晴太を落胆させたと思ったのか。

「お前の母親などこの世のどこにもおらんわ。分かったらその形見だけ持って消えろ。それとも冥土で母親に会いたいというのなら別の話だが」

晴太が落胆したのか不安になってその顔を見るが、真っ直ぐに晴太の無事を案じている言葉と、日輪の自分を卑下したような言葉に対する不満からなのか、目はしっかり開かれていた。

「母親ならいる。ここに、、オイラの母ちゃんならいる。ここに」

床に転がる遺髪を拾うこともせず、向こうに日輪がいる扉を再び叩き始める。

「常世の闇からオイラを地上に産み落としてくれた!!命を張ってオイラを産んでくれた!!血なんか繋がってなくても関係ない!!オイラの母ちゃんはこの人だァァ!!」

何度も何度も扉を開けようと真っ直ぐに日輪へと、扉へぶつかっていく晴太の姿に眩い光を感じた。
私はこんなふうに真っ直ぐにぶつかることは出来ない。でも必死に扉を叩く手を、その向こうへ届けたいと思った。

「諦めの悪い童だ。仕方あるまい」

晴太へと近づこうとする鳳仙の前に立つ。こうして真正面から見ると、まるで巨木と対峙しているかのように押しても引いても全くびくともしなさそうな圧迫感を感じる。
きっと私なんかが適う相手じゃない。それでも何もせずに突っ立っていることなんて出来なくて、震えそうになる手で刀を握った。
刀を構えると手が酷く汗ばんだ。しっかりしろと念じ、鳳仙を見据える。

「邪魔だ、小娘。どかなければ童同様、冥土に送ることになるがよいのか」

上げた拳を見せつけるように握り込む鳳仙に、覚悟を決めて声を上げた。

「いい年したオジサンが子供に嫉妬するなんて醜いんじゃない。親に会いに来たくらいで殺そうなんて以ての外。黙って見てて」

ああ、なんでもっと賢いことが言えないんだろう。なんて思いながら鳳仙の顔が険しくなっていくのを見ていた。

「……小娘が」

まばたきをする間に巨体が迫っていた。
手にした刀を振るう間もなく床を滑るように身を屈め回避する。すぐさま反撃しようと貫級刀を手に振り返れば、さっきまで自分の立っていた床に大きな穴が空いていて一瞬足が止まる。
夜兎、化け物じみた強さだ。
気を取られていれば、続けざまに放たれた拳が刀を弾き飛ばした。

「くっ…!!」

頭の中まで響く鈍痛と突き刺すような痺れに体が思うように動かない。辛うじで動かせる左手で貫級刀を握り身体の前に翳す。今度は確実に仕留めようと迫る剛腕をそのまま受けた。
避けられないならそれを攻撃にするしかなかった。体を押し潰すんじゃないかという力が襲いかかる。その力を利用して貫級刀を拳に突き刺した。
意識すら持っていきそうな力に呆気なく吹っ飛ぶ***の体を、鳳仙が追う。拳に刺さった物を気にすることも無く腕を掴まれ軽々と投げられる。

「――ッ!!」

強かに打ち付けた背中と後頭部に強烈な痛みが走り、ぐらりと視界がブレる。いけないと、鳳仙の姿を捜せば貫級刀を抜き捨て再び拳を握り飛びかかってくるのが目に入った。
──殺される。
咄嗟に足で地を蹴りその場から転がるように逃げる。その際、懐刀を抜き去り一刀入れようとするも、拳を握った手とは逆の鳳仙の腕が***の体を薙払うように叩きつけた。
床を滑った身体は至るところが痛みに軋む。特に真正面から拳を受けた左手は動かすのも困難なほどに。

「あらら、鳳仙の旦那、殺さないでよ。この人には俺のために強い子、産んでもらう予定だからさ」

その場に似合わない楽しそうな声音に歪む視界を開けば眼前には足。上まで辿れば柔和に笑う桃色の髪をした男、神威がいた。

「勝手なこと言わないで」

なんとか起き上がろうと体に力を入れるも思うように動かない。そもそも力が入っているのか怪しいくらいに全身が震えていた。
勝てないだとか、死ぬかもしれないとかいう気持ちからじゃない。鳳仙の放つ一撃が尋常でないくらいに重く、それをまともに受けた体がついてきていなかった。

「息さえしておれば十分であろう」

信じられない言葉が耳に突き刺さった。

「死なない程度で頼みますよ。地球人って思ってた以上に脆いんで」

初めて天人が怖いと思った瞬間だった。
今まで***が間近で見て触れてきたのは、界隈ですれ違うチンピラの様な輩、神楽のように友好関係を持てる者達だけだった。
だか今直接***に向けられた純粋な暴力と、天人がこの国にいる者に向ける不等な悪意に悪寒が走った。

「…力で人を支配できるなんて、思い違いもいいところ。私たちは箱庭に入れたれた人形なんかじゃ、あんたたち天人の玩具なんかじゃない」

体は動かない。口だけでも動かしていないと怒りと恐怖でどうかなりそうだった。

「貴様ら弱者は強者に全てを明け渡さねばならない。弱者の貴様らには意見する権利すらないわ。恨むなら敗者である同種の雄を恨め」

顎を掴み上げられ強い力で引き上げられ、体は足が地に着かず宙に浮く。鳳仙の***の顔以上に大きな手は喉元に食い込み首を締め上げた。

「――は、っ…う…」

気管が潰され喉が鳴る。酸素が回らず苦しくて視界が霞む。何も手が出ず力のない自分が惨めで、霞む視界に映る鳳仙が笑うのが見えれば悔しくて仕方がなかった。
確かに鳳仙の言う通り私は弱い。弱者だ。
力の入らない手を悔しくて握れば、ずきりと痛む左手。これは骨に異常があるかもな、なんて思っていれば右手には硬い感触。懐刀だ。
しっかりと握ると一気に振り上げ喉を掴む腕に突き刺した。虚を突かれた鳳仙は手を離し***の体は重力に従い床に崩れ落ちる。流れ込む空気に咳き込み、必死に鳳仙を睨みつけた。

「…っ、弱者に牙がないってだれが言ったの?…弱者にだって噛みつく牙くらい生えてるのよ。馬鹿にしないで」

大したものではないが確実に鳳仙の腕の皮を断ち、肉にまで到達している傷は赤い血を滴らせた。

「貴様ァァ!」
「***さんッ!!」

怒号と共に振り上げられる拳。晴太の叫ぶ声と重なり何とか体を動かそうとするも、酸欠と痛みに悲鳴を上げて思うようには動いてくれない。迫る痛みに体が強ばり震えるも、目だけはしっかり開いて鳳仙を射抜いていた。
負けたくなかった、こんな力で言いなりにさせようなんて考えの輩に。せめて心だけは屈したくなかった。

「ダメでしょう」

柔らかい声が聞こえたと思ったら視界が塞がれ体がふわりと浮く。

「あんなに刺激しちゃ殺してくれって言ってるようなもんだよ、お姉さん」

顔を押し付けられていたのは真っ黒色の服。顔を上げれば肩にかかる桃色の三つ編み。神威に抱えあげられていた。

「それに鳳仙の旦那、殺さないで下さいって言いましたよね」

助かったというほっとする思いと、酷いことを平然と口にする神威に助けられたという相反する屈辱感が胸中を渦巻く。

「はなして…!」
「いいの?離しても。満足に立てないくせに」

意地悪く放たれた言葉と一緒に脱力した***の体を支えていた両手をぱっと離す。支えを失った体は床に落ち強かに全身を打ち付けた。

「───ッ!!」

痛い。体も、弱いと思い知らされた心も。そんな心中を見透かすように神威は笑う。

「嘆く必要はないよ。地球人のそれも女の身でこれだけ鳳仙の旦那と渡り合えたら上出来。普通だったら一発でお終いだからさ」
「神威」
「旦那、そうカリカリしないで下さいよ。殺しちゃいそうだったじゃないですか」
「とっととその小娘を連れて行け、邪魔だ」
「はいはい、」

***と神威の傍らを通り抜け、晴太へとゆっくりとした足取りで迫る鳳仙。

「まって、」

体を無理矢理にでも動かし晴太の元へと駆けつけたいのに、体が思うように動かない。

「晴太くん、逃げて!」

必死に床を這いずって鳳仙の足を掴んだ。
振り返った鳳仙と目が合うと、反対の足が大きく上げられる。
だめだ、護れない。私じゃ護れない──。

その時だった。鳳仙が晴太と***から距離を取る。と何かが一直線に空を斬り、日輪を幽閉する扉へと突き刺さった。
衝撃で扉の向こう側から掛けられていた板にヒビが入り音を立てて扉が開く。薄暗い部屋に入る光が、その奥に座す振り返った日輪の顔を照らした。



♭23/08/11(金)

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