08
「念のためにこれを預けておく。使い方は分かるな」
「ん?」
長い廊下を小走りで駆けながら鬼道が差し出した物に、名前の瞳が少し見開かれる。
黒光りする、無機質な物体。それは人の命を奪う為だけに存在するもの――鬼道が愛用する拳銃だ。
「どうした?」
中々受け取らない名前に、鬼道が片眉を上げる。名前はふいと気まずそうに顔を逸らした。
「いらない。必要ない」
「勘違いするな、貸すだけだ。後で必ず返してもらう」
「こっちの方が慣れてるし」
「錆びた鉄パイプより、よっぽど役に立つと思うぞ」
「しつこいな。いらねェって言ってんだろうが」
名前が鬼道の手を突っぱねる。あまりにも強情な名前の態度を疑問に思いつつ、鬼道は素直に銃をホスルターへと戻した。
マフィアと戦うのに、鉄パイプでは心許ないだろう。そう考えた鬼道なりの親切であったが、余計なことだったらしい。思い返してみれば、人質を取り返しに名前が鬼道達のアジトに乗り込んできた時も、彼女は今と同じ武器を手にしていた。鬼道から見れば何の変哲もない鉄パイプであるが、名前にとっては愛着のあるものらしかった。愛用の武器は、いわば自分を象徴するもの。「Flimine」という取るに足らないチンピラ集団に身を置く彼女らしいシンボルだ。
名前は一介のチンピラに過ぎないが、彼女は彼女なりにチーム「Flimine」の一員であることにプライドを持っているに違いない。彼女が鉄パイプという簡素な武器に拘るのは、おそらくそれが理由だろう。
名前にとって「Flimine」というチームは、きっと何よりも大切なもの。自分の身の危険を省みず、人質の為に単身で乗り込んできた彼女らしいと、鬼道はわずかに口元を緩ませる。
「あ? 鬼道お前なに笑ってんだよ」
名前がめざとく見つける。鬼道は小さく首を横に振った。
「いや、なんでもない」
鬼道にも大切な仲間がいる。佐久間、源田、不動――皆、鬼道を信じてついて来てくれた、心から信用できる仲間達だ。
彼らを守る為にも、鬼道はこのクーデターを必ず成功させなければならない。鬼道は顔を引き締めると、小走りだった足を少し速めた。
「行くぞ!」
二階は制圧した。残すは三階と、そして、「Impero」にとって絶対的な存在――ミスターKだ。越えなければならない壁はとても大きい。でも逃げ出すわけにはいかない。
三階の奥の部屋――ミスターKのいる場所を目指して、鬼道と名前は狭い廊下を真っ直ぐに突き進んだ。
「いたぞ!」
「! なんだこの煙は?!」
「うわあっ!」
名前の放った煙幕が、三階の廊下を白く濁らす。その煙が晴れる頃、階段上にて鬼道達の到着を待ちかまえていた男達は、ひとり残らず地に伏せていた。
「すごいな······」
鬼道が思わず感嘆の声を漏らす。煙幕によって誰もが視界を奪われる中、名前は的確に相手の急所を捉えていた。
「前にお前が人質を奪還しに来た時にも思ったが······どうしてお前は何も見えない状況で正確に動けるんだ?」
顎に手を当て悩むような仕草をした鬼道に、名前は悪戯っぽく片目を瞑る。
「煙の流れを読むんだよ。人が動くと煙が割れる。だから誰がどこにいるかすぐ分かる」
「······名字、お前は相当目が良いんだな」
「みたいだな。仲間達にもよくそう言われる」
雑談を交わしながら、名前と鬼道はまっすぐに廊下を突き進む。
「この突き当たりがボスの部屋だ」
緊張に顔をひきつらせた鬼道に、名前も釣られたように顔を引き締める。
思った以上に早く目的地まで到着することができた。自分一人ではここまで簡単にたどり着けなかっただろうと、鬼道は小さく苦笑する。計画とは大きく異なってしまったが、名前の乱入は鬼道にとって大いに役立った。
小さな街の半グレ集団、「Flimine」というチーム。どこにでもいるような不良の集まり。取るに足りない存在だと、鬼道は思っていた。けど、その考えは改める必要があるのかもしれない。
彼らはとても情け深く、そして勇気がある。自分の仲間の為ならば、マフィアにも立ち向かっていけるような勇気を、彼らは持っている。社会から見れば、彼らは人間のゴミ同然なのかもしれない。けれども大切なものを決して見失うことのない彼らは、なんと誇り高き存在なのだろう。
ひとつの考えが、鬼道の頭の中に思い浮かぶ。――もし、彼らと共存することが可能ならば、それは俺たちにとって大きな力と成りうるのではないか、と。
街に根付いて生きる彼らは、街のあらゆる情報に精通している。例えば警察に追われるようなことになった時、彼らに手助けを申し出れば上手く逃げきれるかもしれない。敵対するマフィアと乱闘になった時、彼らに助けを求めれば力になってくれるかもしれない。
もちろん、それ相応の対価は必要になってくるだろう。「Impero」が善良な市民に手出しするようなことがあれば、きっと彼らは許さない。しかしそれは「Impero」が秩序を守りさえすればいいだけのこと。有事の際は味方になってくれることを条件に、「Impero」は「Flimine」の安全な生活を保障する。それならば、互いに不利益はないはずだ。
「なあ、名字」
「ん?」
「······いや、なんでもない」
鬼道は言いかけた言葉を飲み込む。先ほどの夢物語は、今口にすべきものではないと考えたからだ。
「Flimine」に提携を申し込む前に、鬼道にはやるべきことがある。一般市民に薬を売ることで資金調達を行おうとする現体制の「Impero」を変えること。それにはまず、ボスを倒さなければならない。
鬼道は再度覚悟を決めて、愛用の銃を握りしめた。その瞬間、
「······ッ、鬼道!」
銃声が響くと同時に、身体に衝撃が走る。名前に押し倒されるように、鬼道は床へと背中を打ち付けた。混乱する頭のまま、咄嗟に銃声の方向へ視線を向ける。先ほど名前によって頭を殴られ、昏倒していたはずの男が地面に伏せて頭だけ上げた状態で銃口をこちらへと向けていた。
反射的に鬼道は銃を握る。流れるような速さで、男へと銃口を向け引き金を引く。額の真ん中を打ち抜かれた男は、雷に打たれたように身体をビクリと痙攣させた後、永遠の眠りへとついた。
硝煙の匂いが立ちこめる。鬼道は安心したように、ほうと息をついた。
「危なかったな······。名字、大丈夫か。お前のおかげで助か······」
鬼道の言葉が途切れる。鬼道に多い被さったまま、名前はピクリとも動かない。
大理石の床に、ドロリと流れる赤黒い、血。
「名字······!」
血は、名前の細い身体から溢れていた。
「名字! おい名字! 返事をしろ!」
真っ青な顔のまま、ピクリとも動かない名前を鬼道が揺り動かす。しばらくして、名前の瞳がわずかに開く。
「······うっせーなあ。あんま耳元で、喚くなっつの······」
「どこだ! どこを撃たれた!?」
「う······どこだろ。なんか身体中が痛くて······ッ!」
名前が右肩を押さえながら呻く。鬼道は傷口に触らないよう、そっと名前の身体を仰向けにさせた。
「肩か······掠っただけだが出血が酷いな······」
「これくらい、大したことねーって······」
「馬鹿! 無理に動くな!」
身体を起こそうとする名前を、鬼道が慌てて支える。名前の肩からは、どくどくと鼓動に合わせて止めどなく血が溢れてくる。鬼道は自分のネクタイに手をかけると、スルリと解いた。
「少し痛むだろうが我慢しろ」
「いっ······」
鬼道が名前の肩にネクタイを巻き付けキツく縛る。名前は痛みから少し顔をしかめる。
「止血はしたが······すぐに病院に行ったほうがいいな。名字、立てるか」
焦ったような表情で鬼道が名前に手を差し出す。名前は不可解そうに眉を潜めた。
「なんだよ、その手」
「急げ、早く病院に行かないと致命傷になる」
「なに言ってんだ、馬鹿。親玉がすぐ目の前にいるってんのに、ここで逃げてどうすんだよ」
「しかし······!」
「アタシのことはいいから。これくらいの怪我、ケンカで慣れてんだよ。大したことねーって」
名前が自力で立ち上がろうとする。口では強がっているが、足下が僅かにふらついていた。咄嗟に鬼道が名前の身体を支えようとするが、名前は鬼道の手をはねのけるように突っぱねる。
「早く、早く行け」
鬼道は思わず気圧された。名前の頬は血の気が引いたように真っ白なのに、鬼道を見据える瞳はギラリと強く光っていたからだ。
「お前はお前の自由を、自分の手で掴むんだよ」
名前の瞳からギラつく眼光は、まるで暗闇に差した一筋の光のように眩しい。鬼道は光の正体を知っている。
人はそれを――希望と呼ぶ。
ずっと、ずっと鬼道は暗い箱の中にいた。
両親が亡くなり、決して居心地が良いとはいえない孤児院で暮らす日々の中、ある日突然、ミスターKによって鬼道はマフィアになる道を提示された。鬼道は幼かったが、それでもマフィアになるということがどれだけ暴力的で、後ろめたい生き方であるかということは理解していた。理解した上で、鬼道はミスターKの手を取った。何よりも、自分の幸せよりも、妹の幸せを願ったからだ。だから鬼道は、自ら暗い箱の中に閉じこめられる道を選んだ。妹が幸せであれば、自分の行く末はどうでもいい。投げやりな感情のまま、ミスターKの望むように生きてきた。
けれども、同じように両親がおらず、アンダーグラウンドの世界で生きているにも関わらず、目の前にいる少女の瞳は、どうしてこんなにも眩しいのだろう。肩を撃たれ、息も絶え絶えの状態でいる名前が、どうしてこんなにも生命力に満ち溢れているように感じるのだろう。
その答えはきっと、黒い箱をぶち破った外側に、ある。
「······ッ!」
目眩を起こしたように、名前の身体が傾く。鬼道は今度こそ、しっかりと名前の身体を支えた。名前の左肩を自分の肩に乗せると、ぐっと力を込めて強く名前の腰を引き寄せる。
「鬼道······?」
眉を寄せながら名前が鬼道を見上げる。鬼道はまっすぐ前を向いたまま、不敵に笑ってみせた。
「一緒に来るんだ。俺がミスターKを倒した後、もしお前がここでくたばっていたら、さすがに後味が悪い」
名前が驚いたように目を見開く。鬼道の瞳からは、もう迷いは感じられない。
「けしかけた責任は取ってもらわねばならないからな。一緒に来て、最後まで見届けろ」
名前は僅かに目を伏せると、観念したように小さく笑った。
「······しょうがねーからつき合ってやるよ」
名前の身体を支えながら、鬼道は廊下の突き当たり、一番奥にある部屋のドアを、力を込めた押した。
夕方前だというのに、部屋の中は妙に薄暗かった。床も壁も白い大理石によって囲まれた部屋。ミスターKの意向によって、余計な家具や置物は一切排除され、だだっ広い空間の中央に革張りの椅子が一脚置かれているだけの、極めて無機質で冷たく寂しい空間。
ミスターKは、その部屋の中にいた。逃げも隠れもせず、椅子に深く腰掛け足を組み、いつも通り悠々とした状態で座っている。窓から差す光が逆光になり、ミスターKの表情はハッキリとは確認できない。しかし、下で内乱が起こっているにも関わらず、彼は恐ろしいくらいに落ち着いていた。
「鬼道、この騒ぎはなんだ。説明しろ」
厳かな声が部屋に反響する。有無を言わせない響きに、鬼道は思わず足が竦むのを感じた。しかし鬼道は強く拳を握ると、ミスターKを真っ直ぐに見つめ返す。もう後には引けない。
「······見ての通りです。俺を筆頭とする一部のメンバーでクーデターを起こしています。皆「Impero」の現体制に不満を持つ者ばかりです。ミスターK、あなたの時代は終わりだ! これからは俺がこの組織の上に立つ!」
「下克上というわけか······拾ってやった恩も忘れて」
「あなたのやり方は度が過ぎている。金を稼げれば何をしてもいいというわけではない。現に反発する者も多くいる。弱き者から金を搾取することだけを考えていれば、いずれこの組織は内側から瓦解する!」
「偉そうなことを。口だけは達者だな、鬼道」
静かに、ミスターKが腕を上げる。鬼道は思わず利き手をホルスターへと伸ばした。
しかしミスターKは、鬼道を指差しただけであった。ミスターKの長い指が、すいと動き、鬼道から僅かに逸れる。
「そのゴミはなんだ」
ミスターKが指し示したのは、鬼道の肩を借りて、どうにか立っている状態の名前だった。
名前は額に脂汗を滲ませながら、荒い呼吸を繰り返している。鬼道は名前の身体を支える手に、僅かに力を込めた。
「······チーム「Flimine」のメンバーひとりです」
「「Flimine」? ······ああ、ヴェローナで私達の周りを嗅ぎ回っていた野良犬か。鬼道、なぜお前が野良犬と、しかも死にかけた犬と一緒にいるんだ。そいつの命を引き替えに、今回の暴騰への許しを私に求めるつもりか?」
「違います」
鬼道は首を横に振り否定する。
「俺は······コイツに、いや、彼女達に自由を教わりました」
「自由?」
ミスターKが不可解そうな声で鬼道に尋ね返す。鬼道は正面を向いたまま、きっぱりと答えた。
「そうです。貴方に拾われてからというもの、俺はずっと貴方の言われるがままに生きてきました。自分の感情を殺して、貴方の望む通りに」
「当たり前だ。それが幼いお前と交わした契約だったはずだ」
「······だから俺は、自分には自由など無いのだと、自由に生きる権利など無いのだと、ずっと思ってきました。でも、それは違った」
鬼道は自分の顔にかかるゴーグルへと手を伸ばす。幼い頃、ミスターKに引き取られる際、彼から貰ったものだ。「Impero」の上に立つ者として、見るべき所をより深く見るために、このゴーグルを常に付けているようにとミスターKは鬼道に言った。ミスターKから貰ったゴーグルは、マフィアとして、ミスターKの忠実な僕として生きる鬼道にとっての象徴であった。
鬼道は自分の顔から、ゆっくりとゴーグルを外す。ゴーグルは大理石の床へと放り投げられた。
「自由とは与えられるものではない。自分の手でつかみ取るものだ!」
晒された素顔。ルビーのように深紅に燃える双眸が、ミスターKを捉える。
「······それを教えてくれたのは、今俺の隣にいるコイツです。彼女はゴミなんかでも、野良犬なんかでもありません。彼女達は誰よりも気高い、ヴェローナの番犬だ!」
「社会のゴミに感化されるとは、情けないな鬼道」
強い瞳で見つめる鬼道を、ミスターKが小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「ゴミがどれだけ善行を働こうと、ただのゴミには変わりはない。鬼道、お前はそのゴミ共と同等の存在に落ちるつもりか」
「何度も言いますが、俺は名字達をゴミだとは思っていない。······人間のゴミは貴方だ、ミスターK」
「······それがお前の答えなのだな」
心底失望したように、ミスターKは深いため息を落とした。組んでいた足を正し、椅子に深く腰掛け直す。身体の正面で腕を組み、鬼道を真正面から見据える。サングラスの奥の瞳は、未だ正体を表さない。
「ここまでだな。必要とするのは逆らわぬ忠実な僕。まことに残念だよ鬼道――私の最高傑作よ」
ミスターKが自分の懐へと手を入れる。銃を抜かれることを警戒して、鬼道は咄嗟に身構える。しかし鬼道の予想に反して、ミスターKが取り出したものはリモコンのような小さな機械だった。
「······! しまった!」
鬼道が名前を抱えなおして走り出そうとした時には、もう遅かった。
ミスターKの長い指が、リモコン上のボタンへと沈む。天井から爆発音が轟き、鬼道達をめがけて、崩落した天井が崩れ落ちた。
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