09


「······う」

先に目を覚ましたのは名前だった。薄く目を開けると、周りは砂埃で霞んでいる。呼吸と共に細かい塵を吸い込み、名前は思わずせき込んだ。
撃たれた箇所が未だに痛む。さらには頭や背中、脚など、先ほどまで何ともなかった部分までも、ズキズキと痛い。身体が変に重い。――なぜ、自分は地面に寝ているのだろうか。目の前に広がる瓦礫の山は、一体何なのだろうか。
ぼんやりとした状態のまま、名前は手の感覚を頼りに周りを探る。そして、ふと、温かいものに手が触れた。人だ。
名前の身体に被さるように、誰かが倒れている。身体が重く感じたのは、コイツのせいか。朧気なまま、名前は自分に重なる人間へと手を伸ばす。ぬるりと、嫌な感触が手に触れた。
血だ。気づくと同時に、だんだんと名前の視界が開けてくる。目の前に広がるのは、黒々とした赤。自分の血だろうか。いや、違う。じゃあ一体誰の? 名前の意識が、覚醒し始める。そうだ、自分は鬼道とミスターKを倒すため「Impero」のアジトへと忍び込んだんだ。途中、肩を撃たれたが、無事ミスターKの元へは辿り着くことができた。鬼道とミスターKがなにやら言い合っていたような覚えがある。そして、いきなり天井で爆発音が聞こえて――。

「き、どう」

名前が掠れた声で呟く。名前の身体の上で、頭から血を流して倒れているのは鬼道だった。彼は名前に覆い被さっていた。まるで、名前を守るように。

「ッ、鬼道!」

痛む身体も気にせず、名前は無理矢理身体を起こす。鬼道の身体を強く揺さぶるが、鬼道は目を閉じたままピクリとも動かない。

「おい、鬼道お前なに寝てんだよ······! おい!」
「私に逆らわなければ死なずにすんだものを」

低く響く音に、名前はハッとして顔を上げる。大理石の床をコツコツと鳴らしながら、ミスターKが名前達の元へと近づいてくる。彼の手には、銃が握られている。ミスターKはゆっくりとした動作で銃を持ち上げると、名前へ向かって狙いを定めた。
名前は反射的に、鬼道のホルスターから銃を抜き、ミスターKへと向けた。

「お前に私が殺せるのか?」

試すような言葉に、名前は思わず肩をビクリと跳ねさせる。痛む腕を懸命に上げ、両手で銃を持つ。スライドを引き、安全装置を外す。的確に行われる操作とは裏腹に、名前の額には脂汗が滲んでいた。
今まで大きなケンカや修羅場を、いくつも経験してきた。けれども名前は、人の命を奪ったことはない。それが「Flimine」のルールであり、そして名前なりの矜持であったからだ。
けれども、今は状況が違う。ここでミスターKを殺さなければ、確実に自分は死ぬ。そして――鬼道も。

「情けない話だ。こんなゴミみたいな人間に感化されて、道を踏み外すとは」

ミスターKが失望を隠さず、乾いたため息をこぼす。

「私に付き従ってさえいれば、輝かしい未来が約束されていたはずなのに」

名前はハッとして、おそるおそる視線を下げた。頭から血を流し、気を失っている鬼道。「Impero」の時期総帥として、幸せな未来が約束されていた少年。鬼道の白い頬を見ている内に、ひとつの疑念が名前の中で頭を持ち上げる。――自分と出会わなければ、鬼道はこんな目に遭わずに済んだのではないか。
自由がなんだと偉そうな口を叩き、つまらない生き方だと鬼道の人生を揶揄した。けれどもそもそも、名前と鬼道では生きている世界が違う。普通に生きていれば、二人は決して交わらない者同士だったはずだ。
――自分が、鬼道を巻き込んだ。銃を握る名前の手が細かく震える。自分の信じてきた道が本当に正しかったのか、自信が持てない。手が震えるせいで、狙いが大きくブレる。銃口の先、ミスターKの指が引き金にかかるのが見えた。

「名字」

突然、名前の手が温かな何かに包まれる。名前は目を大きく見開いた。身体を起こした鬼道が、名前の手をしっかりと支えていた。

「お前は何も間違ってはいない。俺は······お前と出会えて良かったと思っているよ」

燃えるように赤い、けれども優しい瞳が名前に語りかける。瞬間、濃い霧が晴れたように名前の視界が開けた。名前の心に、一筋の光が射す。暗い箱の中に射す、明るくて優しい光。それはまるで、あの夜の月明かりのよう。
名前の手の震えが、ピタリと止んだ。

「これ以上······鬼道を苦しめるな!!!」

名前の指が確かに引き金にかかる。名前は力を込めて、それを引いた。
大理石に囲まれた部屋に、高い銃声が鳴り響く。ミスターKが着ていた白いジャケットに、じわりと鮮血が滲む。

「う······」

左胸を押さえながら、ミスターKの身体は静かに倒れた。

「······ありがとう、名字」

鬼道が名前の手ごと、銃を下げさせる。名前は肩を上下させ、荒い息で呼吸する。
大きく見開かれた両目からは、ポロポロと透明な滴がこぼれ落ちていた。


***


「痛い。身体のあちこちが痛い」
「文句を言うな、俺も同じだ」

互いの肩を借り合わなければ歩けような状態。命に別状がないとはいえ、お互い怪我だらけだ。まさに満身創痍という言葉がぴったりの姿で、名前と鬼道は「Impero」のアジトを後にしていた。名前の口から飛び出る文句に対して、鬼道も文句で返す。身体が痛いせいで、どちらも機嫌が悪い。
先ほどまで内乱があったとは思えないほど、アジト内はひっそりとしていた。おそらくミスターKの部屋で爆発があったせいだろう。鬼道はメンバー達に自分の命を最優先にするように伝えていた。全員が避難を終えていることに心の中で安堵する。
それよりも、問題は――。

「······結局見つからなかったな。ミスターKの遺体」

名前がこぼした言葉に、鬼道は唇を引き結ぶ。ミスターKが倒れた直後、再び屋根の崩落が起こった。寸でのところで逃げおおせた二人が再び部屋に戻ると、倒れていたはずのミスターKは、なぜか忽然と姿を消していたのだ。

「さすがに心臓を撃たれて生きているとは思えないが······」

そう、生きているはずがない。冷静に考えてそのはずはないのだが、鬼道はどうしてもミスターKが死んだとは思えなかった。
鬼道にとってミスターKが確固たる存在であったからだろうか。やはりまだ心の中で、ミスターKを越えられない自分がいるのだろうか。それとも、

「もしかして······」

頭の中に浮かんだひとつの考えに、鬼道は思わず声を漏らす。
考えてみれば、不可解な点がいくつもあった。ミスターKの独断によって急に「Impero」が市民に薬を売って資金を調達することを画策し始めたことも、クーデターの計画がどこにも漏れずスムーズに行われたことも、鬼道達が攻め行ったにも関わらずミスターKは逃げも隠れもしなかったことも、完璧主義でいつも抜かりの無いミスターKにとってはあり得ないことだ。
もしかして、ミスターKはこうなることを望んでいたのではないだろうか。何のために? それはきっと――「Impero」を鬼道に引き継がせるため。ミスターKを越えることが、「Impero」の総帥となるべく最終試験だったのではないだろうか。

「どうした?」
「······いや、なんでもない」

黙りこくる鬼道に名前が声をかける。鬼道は小さく首を横に振った。
考えても仕方のないことだ。普通に考えれば、ミスターKは死んだ。彼しか知らない真実は、永遠に闇の中に葬られたのも同じである。
ただ、もし、もし鬼道の予想が正しかったとしても、おそらくミスターKにはひとつの誤算があったはずだ。それは――今、鬼道の隣にいる少女の乱入だ。
鬼道でさえも、まさかと思わずにはいられなかった。無謀にも単身でマフィアのアジトに乗り込む少女――名前の乱入は鬼道にとってもミスターKにも大きな誤算以外のなにものでもない。もちろん、鬼道にとっては良い意味での誤算だ。
名前のおかげで、鬼道は無事下克上を成し遂げることができた。全国に散らばる「Impero」の人員をまとめあげるのは苦労するだろうが、鬼道が「Impero」の総帥の椅子をもぎ取ったことに違いはない。いや――正確に言えば違う。ミスターKの心臓を銃で打ち抜いたのは名前だ。本当の意味でミスターKを倒したのは名前である。
銃弾に倒れるミスターKを思い出すのと同時に、鬼道の頭の中にひとつの映像が思い起こされる。銃を握りしめながら、ポロポロと涙を流す名前の姿。

「人を殺したのは初めてだったか」

鬼道が静かに尋ねる。名前は小さく頷いた。
鬼道にとって、人の命を奪うことは容易いことだった。けれども、名前にとっては違う。彼女は今日、初めて人を殺した。その業を背負わせたのは、鬼道だ。

「······すまない、名字。でもお前のおかげで、」
「10歳のクリスマスの日にさ、兄貴が風邪を引いたんだ」

唐突に名前が鬼道の言葉を遮る。脈絡の無い話を不思議に思いつつ、鬼道は名前の話に耳を傾けた。

「兄貴は風邪だったけど、その日は家族でクリスマスパーティーをする約束をしてたから、アタシ学校から走って帰った。父ちゃんはプレゼントを持って帰ってくるだろうし、母ちゃんはご馳走を作ってくれてる。兄貴もちょっとくらい風邪良くなってないかなって、楽しみにしながら帰ったんだ。だけど、家のドアを開けたら、様子がおかしくてさ。夕方過ぎだったのに、部屋の中真っ暗で、呼びかけても誰の返事もなくて······」

名前がほんの少し、悲しげに目を伏せる。

「父ちゃんも母ちゃんも兄貴も、全員頭を銃で打ち抜かれてて、死んでた。強盗に入られたんだ」

鬼道は短く息を吸い込んだ。

「だからアタシ、銃がずっと嫌いだった。引き金を引くだけで、簡単に人を殺せる。あんなに恐ろしいモンは他に無いよ」
「名字······」
「アタシ、分かってるんだ。人間普通に生きてても、突然理不尽な目に合うことがあるってこと。身寄りを無くしたアタシは孤児院に入れられたけど、結局馴染めなくて、今はお世辞にも褒められた生き方なんてしてない。「Flimine」にいる奴らは、そんな奴ばっかだよ。大切なもんや居場所を無くしてた奴らが集まってる。だからアタシ達は「Impero」を止めないわけにはいかなかった。薬が市民の間で出回るようになれば、一気に治安が悪化する。アタシ達のような子供を、増やしたくはなかったんだ」

名前は顔を上げると、鬼道の方へと向ける。

「ミスターKを撃ったこと、後悔なんてしてないよ。だって鬼道のこと守れたから。それは「Impero」の、そしてヴェローナの未来を守ったってのと同じだろ?」

屈託のない、晴れやかな笑顔。名前の言葉には、少しの嘘も感じられない。
鬼道は僅かに、口元を緩ませた。

「ヴェローナの未来を守る、か。簡単に言ってくれるな」
「大丈夫。鬼道なら楽勝だって」
「また適当なことを······」

何の根拠もない、不確かな言葉。けれども何故か不思議と、背中を強く押される。
やってやろうじゃないか。身体の底から力が沸いてくる。名前の脳天気さに感化されたのだろうか。理由はどうあれ、鬼道を縛るものはもう何も無い。
鬼道はこれから、自分の人生を自分の足で歩いていく。

「お前達にも手伝って貰わないといけないな」
「え? なにを?」

きょとんと目を丸くした名前に、鬼道は悪戯っぽく片目を瞑ってみせる。らしくないおどけた仕草に、ますます名前の目が丸くなった。

「あ! 来た! おーい名前! 大丈夫かー!」
「······あれは、お前の仲間じゃないのか?」
「守!?······うわっ、みんないるじゃん!」

建物を出た先、門の付近に人が集まっている。オレンジの色のバンダナを頭につけた少年が名前に向かって大きく手を振っている。「Flimine」のリーダー、円堂守だ。
そして、その横には、

「鬼道さーん! ご無事ですか!? 怪我はないですか!?」
「佐久間落ち着け! お前も怪我してるんだから······」
「ハッ、これぐらいの抗争で大袈裟だな」
「さっきまで何度も鬼道を探しに向かおうとしていた人間の台詞じゃないぞ、不動」

怪我だらけの身体のまま今にも飛び出そうとしている佐久間を、源田が羽交い締めにしている。少し離れた所で立つ不動は、相変わらずスカした顔をしているが、明らかに鬼道を気にして視線を走らせていた。
皆、小さな怪我はあるが命に別状は無さそうだ。鬼道はホッと胸をなで下ろした。

「名前! ななななんだその怪我は!? だだだだ大丈夫なのか!!!???」
「風丸······お前も落ち着けよ」
「ったく、また無茶して。豪炎寺から話を聞いた時は驚いたぞ」
「ききき鬼道さん!? その頭の怪我は!?」
「佐久間! お前はいい加減冷静になれ!」
「······お互い騒がしい仲間を持ったものだな」
「だな」

鬼道と名前は互いに顔を見合わせると苦笑する。けれども再び騒がしい仲間に会えたのも、今、二人が生きているからだ。
鬼道と名前は、しっかりと互いの身体を支えなおす。
そして、大切な仲間の元へと帰って行った。


***


迷路のように複雑に絡む回廊。出口の見えない闇の中。まるでこの街は、密閉された黒い箱のようだ。

薄暗い路地を、息を切らしてひとりの人間が走っている。少年のような短い髪に、少女の細い体躯。中性的な顔には、焦りが浮かんでいる。

「チッ······! しつこい奴らだな。いい加減諦めろっつの」

後方には何人もの男達がいた。上下スーツ姿という正装にも関わらず、手には物騒なものを握っている。本物の銃だ。わざと路地を複雑に走っているはずなのに、中々振り切れない。

「やっばー······行き止まりじゃん······」

さらに不運なことに、たどり着いた先は行き止まりだった。少年のような見た目の少女――名字名前は、壁を背にすると、とりあえず武器として持っている鉄パイプを握り直す。
敵は数人。しかも銃を持っている。対する名前はひとり。武器は鉄パイプのみ。明らかに、分が悪い。名前の背中に嫌な汗が流れた。その時、

「必要なら手を貸してやろうか」

頭上から、声が降ってくる。少年と大人の中間のような音で響く声。名前も、敵の男達もつられて上を見る。

「げ」
「「Flimine」の特効隊長様がここまで追い込まれるとは······情けないぞ、名字」

月夜に照らされて光る深紅の瞳。鬼道有人が不敵な笑みを携えて、名前を見下ろしていた。

「キドウユウト!?」
「「impero」の総帥か······!」
「なぜヤツがここに······」

男達がざわめき始める。名前は構えていた鉄パイプを下ろすと、呆れたようにため息をついた。

「誰のせいでこんな目に合ってると思ってんだよ、ばーか」
「報酬は十分にやっているだろう。文句を言うな」
「つーか、アタシが囮になって鬼道達が逃げるっつー計画じゃなかったっけ? 何ノコノコ顔出てんだよ。いつも好き勝手やりやがって」
「良い手本が目の前にいるからな」
「ンだとコラ」

敵を目の前にして言い合う二人に、男達は目を丸くする。しかし鬼道が塀の上から軽々と飛び降りると、男達はすぐさま銃を構えた。

「いち、に······軽く十人はいるな。やれるか?」
「誰に聞いてんだよ。当たり前だろ」

鬼道が銃のスライドを引くと同時に、名前が飛び出す。向かってくる名前を狙って、男達は引き金を引いた。銃弾の嵐を、名前は器用に鉄パイプで弾く。

「名字! 屈め!」

名前がわずかに腰を折る。頭上スレスレを、弾が掠める。鬼道の撃った弾は、見事に名前の目の前にいる男の銃を弾いた。
名前の鉄パイプが男の鳩尾に沈む。そのまま鉄パイプを薙ぎ払い、左にいた男ごと地面に引き倒す。男達が手の持つ銃は、後方から鬼道が次々に撃ち落とす。銃を手放した者から、名前の鉄パイプの餌食となっていく。
数分後には、名前と鬼道以外、立っている者は誰もいなかった。

「ふう、なんとか片付いたな」

名前は長い息を吐くと、腰を下ろす。長い時間走り回っていたせいで、かなり疲労が溜まっている。
鬼道は銃をホルスターにしまうと、地べたに座る名前へ歩いて近づく。鬼道は苦々しく顔を歪めていた。

「相変わらず無茶な戦い方をするな」
「良い手本が目の前にいるからな」
「············」
「イテッ」

鬼道の拳が、名前の頭へと軽く下ろされる。名前はその拳をわざと受け止めると、アハハと軽快に笑った。

「必要なら手を貸してやろうか」
「じゃあ遠慮なく」

鬼道がおどけたように手を差し出す。名前は呆れたように肩を竦めると、しっかりとその手を取った。
薄暗い路地に、月明かりが差し込む。白く眩しい街で、全く異なる生き方をしてきた二人が手を取り合う。

空には、夜の太陽が光り輝いていた。


END

♪「No Reason」/ Sum41


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