03



「一人で突っ込んでくるとは良い度胸だな」

鬼道は言いながら、目の前の少年を冷ややかな目で見下ろした。突如この部屋に煙幕を投げ入れ、人質を逃がし、不動を倒した少年。おそらく鬼道達が誘拐して人質達の仲間、「Flimine」のメンバーだろう。そいつを投げ飛ばし、武器にしていた鉄パイプを奪い、手足を縛ったのは鬼道だ。「Impero」の次期総帥候補として育てられた鬼道には、あらゆる武道が仕込まれている。チンピラ一人を動けなくすることなんて、造作もないことだった。
それにしても、と鬼道は心の内で呆れた。たった一人で、マフィアのアジトに乗り込んでくるなんて馬鹿な奴だと。街を牛耳る不良集団「Flimine」と、プロの犯罪集団──いわゆるマフィアと呼ばれる存在である「Impero」、力の差は歴然である。コイツは頭のネジが少し外れているんじゃないか。そう疑いたくなるほど、鬼道にとって目の前の男は、愚かな生き物にしか見えなかった。
しかし、鬼道ははたと気づいた。そうか、そういうことだったのか。一つの考えに思い当たると、口の端をわずかにあげる。「Flimine」──凡庸なチンピラの集まりかと思っていたが、中々食えない者もいるようだ。

「不動、いつまで寝てる。さっさと起きろ」

鬼道の声が合図だったかのように、昏倒していた不動が目を覚ました。ゆっくりと身体を起こす。頭を殴られた衝撃がまだ残っているのだろう。「クソ······」と低い声で呻きながら、不動は軽く頭を振る。やっと焦点のあった目が、先ほど自分を昏倒させた少年を捉えた。
少年は手足の自由を奪われても、特段動揺した様子は無かった。こういう状況に慣れているのか、はたまた勝算があるのかは分からないが、ふてぶてしいと形容すべき顔で不動を睨み返す。不動は苛立たしげに舌打ちを打つと、少年に近寄り胸ぐらを力任せに掴んだ。そして右腕を振り上げる。

「止めろ、不動」

鬼道の制止に、今まさに振り下ろされようとした不動の右手がピタリと止まった。不動は肩越しに鬼道を振り返る。怒りに燃えた瞳が、なぜ止めるんだと訴えていた。

「今ソイツを殴ったところでお前が負けたことには変わりない」

鬼道の言葉に不動は歯噛みする。しかしゆっくりと腕を下ろすと、突き飛ばすように少年の身体を投げ捨てた。
それでいい。鬼道は小さく頷く。確かに不動の憂さを晴らしてやるには、この少年を殴らせるのが手っ取り早いだろう。でもその行為は、一時心が軽くなるだけの効果しか持たない。少年の動きの速さには目を見張るものがあった。それに不動は負けた。その事実は揺るがない。
不動は射撃の腕も悪くないし、意外に頭もキレる。しかし気が短いのが欠点だ。頭に血が上ると、後先考えず行動することがある。鬼道は彼の上に立つ者として、彼の欠点を正してやる必要がある。現に今も不動が少年を殴って昏倒させてしまえば、鬼道達は少年が目覚めるまで何の情報も聞き出すことはできない。
人質は二人とも逃げ出してしまった。佐久間と源田はまだ帰ってこない。人質が持ち帰った情報を元に、次なる作戦を考え攻めてくる可能性は大いにある。後手に回れば事は不利に進む。例え街のチンピラ相手だろうと、迅速に事を片づける為には、それだけは避けたかった。
さて、と鬼道は膝を折る。ふてくされた顔をする男に、目線を合わせる。

「お前、確か名字と呼ばれていたな。他の仲間はどうした。なぜお前ひとだけで攻めてきた」

確認の意も込めて質問する。名字は何も答えない。
鬼道は小さく息をつくと、ホルスターから拳銃を取り出した。そして名字の顎に突きつける。銃は便利だ。相手を脅し言いなりにさせるのに、かなり有効な武器となる。

「自分の立場が分かっているのか。殺されたくなければ質問に答えろ」
「······仲間は知らねーよ。敵の数が四人って聞いて、一人でやれると思って来たから」

さすがに観念したのか、名字が苦々しく答える。隣で不動が「バカかよコイツ」と呆れたようにこぼした。

「いや······そこまで馬鹿でもなさそうだ」

鬼道は小さく呟くと、拳銃をホルスターに閉まった。そしてゆっくり立ち上がり、扉の近くまで移動する。そこには名字が投げ入れた煙幕の残骸が散乱していた。全部で五本。どれも筒型に、先端に導火線がついたものだ。導火線に火をつければ、すぐに朦々とした煙が出てくるタイプの煙幕。簡単に手に入る代物ではない。

「思いつきにしては準備が良すぎる。名字······とかいったな。お前、俺たちの狙いが分かって、敢えて一人で乗り込んできたんだろう」
「どういうことだよ」

不動が片眉をあげる。

「俺たちの狙いは連れ去った二人だけではない。「Flimine」のチーム全員だった。それが分かったコイツは、人質の二人を餌にチーム全員がおびき寄せられる前に、自分一人で俺たちを片づけにきたんだ。けれども四人をまとめて相手にするにはリスクが高すぎる」
「人質もいるしな」
「そうだ。そこで先に石を投げて一人か二人を呼び寄せて、人数が半分に減ったところで部屋に乗り込んできた。煙幕を投げ入れて俺たちの視界を奪い、その隙に人質達を解放し、おそらくは自分も人質達と一緒に逃走するつもりだったのだろう。杜撰だが悪くない作戦だ。──そうだろう? 名字」

鬼道はついと名字に視線を向ける。図星だったのだろう。名字は「勝手にそう思ってれば?」とぶっきらぼうに答えた。

「佐久間と源田はどうした」
「は? 誰それ」
「様子を見にビルから出た二人組だ。知らないとは言わせないぞ」
「さあね。今頃外で寝てるんじゃねーの」
「······お前がやったのか」
「随分と弱っちかったぜ。マフィアってのも大したことねーな」

鬼道はわずかに顔をしかめる。たかがチンピラひとりに、あの二人がやられるとは俄に信じがたい。けれども先ほど不動を伸した名字の素早さを考慮すると、不意を突かれたとしたらあり得ない話ではないのかもしれない。
さすれば、事は重大だ。

「······佐久間と源田がやられたのならば黙ってはいられないな。この事は上に報告させてもらう」

鬼道が厳かな声で告げる。はあ? と意外だと言わんばかりの声を上げたのは名字だった。

「上に報告? ここで殺さねーのかよ」
「殺されるより、よっぽど恐ろしい目に合うかもしれないな」
「噂には聞いてたけど「Impero」のボスってそんなにヤバいヤツなわけ? おー怖っ。会ったら気絶しないように気をつけないと」
「俺たちが「Impero」の者だと知ってケンカを売りに来るような無謀なヤツは、お前が初めてだ」
「先にケンカふっかてきたのはそっちだろ」

フッと名字の目が細まる。鋭い眼光が、鬼道に突き刺さる。

「なんで壁山と栗松をさらった。どうしてこんなチンケなチンピラ集団に構うんだよ」
「仕事の邪魔をされたからだ」
「そもそもお前らがこの街でヤクを売りさばこうとしてんのが悪いんだろうが。薬が一般市民に出回れば、この街はいずれ崩壊する。それを止めただけだ」
「義賊気取りか? たかがチンピラ風情が」
「お前らこそ薬売りなんてチンケな商売してんのな。そんなに金に困ってんのかよ」
「答える義務は無い」
「ひょっとして、アンタらも知らされてないとか。答えたくないんじゃなくて、答えられないんじゃねーの?」
「······口の減らない奴だな」

この危機的状況で、なぜここまで大口が叩けるのか。目の前の男の理解不能な精神構造に、鬼道は少し眉を寄せる。どうすれば、この男を精神的に追いつめられるのだろうか。自分の置かれている状況を理解させるには、どうするべきか。簡単だ。暴力に屈しないのなら、もっと他の側面から恐怖を与えればいい。
鬼道は名字に向かって、ジロジロと無遠慮な視線を向けた。頭の天辺からつま先まで、品定めするように眺める。

「お前······」
「······なんだよ」
「男にしては随分と身体が細いな。顔の作りも悪くない」

名字が怪訝そうに、鬼道を見返す。

「殺してしまうより、男娼にでも売り飛ばす方が金になるかもしれない」

名字の瞳が見開かれる。ヒュウと陽気な口笛を鳴らしたのは不動だった。

「そりゃあいい。おいガキ、お前命拾いしたなあ! 普通なら俺たちにケンカ売った時点で即頭ぶっ放される所だけど、今回は身売りで勘弁してやるってよ! ウチのお坊ちゃんは優しいねえ」
「安心しろ。売り飛ばす前にこちらで薬漬けにしてやる。死んだ方がマシだった、と後悔することさえない。もちろん自我さえ無くなるがな」
「ハハッ! ヤク漬けにされて一生スケベなジジイ共に可愛がってもらいなあァ!」

気づいたら、名字の頭はがくんとうなだれていた。細い肩も小刻みに震えている。自分の未来を想像して絶望したか。人を恐怖に陥れることは容易いな。鬼道は口角をあげる。

「なんだァ? さすがにビビっちまったか?」

泣き顔を拝みたいとでも思ったのだろう。不動が名字に近づく。腰を屈めて、顔をのぞき込もうとする。と、ブハッと名字が堪えきれないとばかりに、噴き出した。

「······あ?」

不動が怪訝そうに顔を歪める。名字は恐怖に震えていたのではない。笑いを堪えていたが為に、身体を小刻みに揺らしていたのだ。

「あっははははは! ばっかじゃねーのお前ら!」
「······何がおかしい」

大声で笑う名字に、鬼道が訝しげに尋ねる。名字はニヤリと歯を見せながら、不敵に微笑んだ。

「お前らの目が節穴すぎて笑えてきたんだよ。本当にお前らって「Impero」の一味なわけ? そうだとしたら、イタリアマフィアってのもマジ大したことねーわ」
「どういう意味だ」
「女だよ」
「は?」
「"アタシ"は男じゃなくて女。だから残念だけど男娼には売れないぜ。ショタコンのジジイ共相手にするのに、アタシじゃ役不足だっつの!」

名字が語尾を強めて言い切ると、しんと部屋の中に静寂が訪れた。無言のまま、鬼道と不動は互いに顔を見合わせる。しばらくして、鬼道が立ち上がった。スタスタと迷い無く名字の目の前まで歩くと、膝を折る。そして、

「え、なに? ちょ······どこ手ェいれて······おい! どこ触ってんだよ! 変態!」
「どうだ?」
「······ちょっとはある、か?」
「なんで疑問系なんだよ!!!」

"確認作業"を実行した。その結果(少々分かり辛かったが)名字が嘘をついていないことを確信した。
鬼道は名字から手を離すと、改めてマジマジと名字を観察する。短い髪に中性的な顔──一見すると少年のようにしか見えないが、確かにワンピースでも着せて可憐に微笑んでみせれば、どこぞのご令嬢だと紹介されても決して疑いはしないだろう。
しかし口の悪さに粗暴な態度、それに先ほど不動を伸した時にみせた身軽さとスピード。どれをとってみても、一般的な女子からはかけ離れているように感じる。もしかして周りからナメられない為に、わざと男として振る舞っているのではないか。鬼道はひとつの可能性に当たる。しかしいや、と思い直した。名字が男に見える要因は、どちらかというと本人の気質のような気がしたからだ。

「なんだよ」

鬼道の無遠慮な視線に対し、名字は不服そうに唇を尖らせる。

「今度は女郎にでも売り飛ばそうってか」
「いや······あいにくお前のような小猿を引き取ってくれるような売春宿を俺は知らん」
「そりゃ残念でした」
「······鬼道、まさか女だからって逃がしてやるわけないよな」

不動が怪訝そうな口調で鬼道に尋ねる。名字が女だと分かった瞬間、やや警戒心を緩めた鬼道を咎めているのだろう。

「まさか。そんなわけ無いだろう」

鬼道は小さく肩を竦めながら答えた。

「コイツは総帥の元へと連れて行く。後の処分を決めるのは上の仕事だ」
「総帥?誰だよそれ」
「「Impero」のボスの事だ。俺たちはそう呼ぶように言われている」
「ふうん······」

興味があるのかないのか、そして自分の置かれている状況が分かっているのかいないのか、名字が曖昧な相槌を打つ。
鬼道の心に、哀れみと同情が入り交じった感情がわき上がる。総帥の元へと連れて行けば、確実にこの名字という少年のような少女は、殺される。性別など関係ない。「Impero」の総帥はそういう男だ。
だからこそ、鬼道は彼に言われるがまま付き従っている。

「俺たちは······総帥に忠実であれば、それでいいんだ」

まるで自分に言い聞かせるように、今まで何千何万回と口に出してきた言葉を繰り返す。幼い頃から刷り込まれてきた教えは、鬼道の価値観の揺るがない核となり、心の中に根ざしている。鬼道にとって、「Impero」の総帥こそが信ずべき神である。彼の言葉に対し、疑いなど持ってはいけない。
例えそれが、鬼道自身が間違っていると思うことでさえも。

「つまんねー生き方してんだな」

突如、強い言葉が耳を切り裂き、鬼道はハッと顔をあげた。名字がまっすぐに自分を見つめている。

「どういう意味だ」

鬼道は怪訝そうに眉を潜めた。

「そのまんまの意味だよ。随分と面白くない生き方してんだなって思って」
「面白くない······?」

名字の言葉の真意が分からず、鬼道は低い声で聞き返す。名字は鬼道をまっすぐに見返したまま頷く。そこに不思議と、敵意や悪意は感じられない。

「誰かの言いなりになって動くだけの人生なんて面白くねーじゃん。なんでお前その総帥ってやつの言われるがままに動いてんの?」

結構ケンカ強いのに、と名字は不満そうに唇を尖らせる。

「······ボスの為に働くことが俺たちの使命だ。そこに面白さや楽しさなど感じる必要はない」
「それがつまんねーって言ってんの。だってそこには自分の意志はないわけだろ? もっと自由に生きてみたいって思わないわけ?」

自由、とは。
鬼道はかすかに目を見開いた。彼の今までの人生の中で、「自由」という言葉は無縁の代物だったからだ。
瞬間、足下がグラツき視界が揺れた。尻と背中をコンクリートに強かに打ち付け痛みが走る。足を払われたのだと気付いた鬼道は慌てて身体を起こした。不動の右頬に、名字の拳がめり込んでいる。手足は拘束していたはずなのに、なぜ。
視界の端で何かが光った。ガラスの破片だ。おそらく窓ガラスが割られた時の。これで縄を切ったのか。いつの間に。会話に気を取られ、すっかり見落としていた。咄嗟に理解した鬼道はジャケットの下から銃を取り出す。そして窓枠に足をかける名字に向けた。

「そんな腐った目ェしてないで、もっと自由に生きたら?」

バサリとカーテンが風に煽られ、鬼道の視界から名字が消える。レモン色の薄い布がはためき落ちる頃、名字はいなくなっていた。

「はあ!? ここ三階だぞ!!!」

右頬を腫らした不動が慌てて窓へと駆け寄る。鬼道も同様に窓から身を乗り出す。そして、

「壁山ナイスキャッチ!」
「名字さん······三階から飛び降りるなんてさすがに無茶がすぎるッスよ······」

先ほどまで鬼道達が捉えていた人質の内ひとり、壁山がその巨体で名字を受け止めていた。

「早く! こっちでヤンス!」

栗松が誘導するように手を大きく振り上げる。それに招かれるように、ボロボロのジープが一台猛スピードで名字達の前へと止まった。車体には装飾された「Fliine」の文字。稲妻のマークが描かれている。

「名前!」

中からオレンジ色のバンダナをして少年が飛び出て、名字を引っ張りあげた。

「チクショウ! 逃がすかよ!」

不動がジープに向かって闇雲に銃を打ち込む。すると、整った顔立ちの少年がひとり、窓から身を乗り出した。青いポニーテールが風に靡く。彼は腰から長い刀──西洋では中々お目にかかれない日本刀──を引き抜くと、自分達に向かって降ってくる銃弾を悉く弾いてしまう。

「さ、サムライ······!?」

不動が信じられない者をみたかのように、呆然と呟いた。
オンボロのジープは低いエンジン音を唸らせると、マフラーから濃い排気ガスを噴き出す。そして一度大きくガックンと車体を揺らすと、ロケットのように勢いよく発進した。
去り際、窓から身を乗り出した名字があっかんべーと赤い舌を、鬼道と不動に向かって見せつける。

「逃がすかよ······!」

不動は慌てて扉へと走った。

「待て、不動」

鬼道の落ち着いた声が待ったをかける。

「······さすがにもう追いつけないだろう」
「······チッ!」

鬼道は、名字──「Flimine」の車が去った後を窓からじっと見送る。三階から外を見ると、ヴェローナの街並がよく見える。鬼道がいるエリアはくすんだ灰色をしているが、名字達が向かっていった中心街はオレンジ色と白のコントラストがとても美しい。いつも見ている風景であるのに、今日の鬼道にはなぜだかとても、とても光り輝いて見えた。

「なあ、不動」
「あ?」
「俺の瞳は、腐った色をしているか」

鬼道は言いながら、そっと自分の顔に触れる。目の周りを覆うガラスが指に当たり、少し冷たい。

「······知りたきゃ、そのゴーグル外してみせろよ。総帥から貰ったっていう趣味の悪いやつ」

鬼道は自分の目を覆うゴーグルに触れた。幼い頃、物事の神髄を見極める為にと総帥から貰ったものだ。物事の神髄どころか、今はなにが正しくてなにが間違っているのかすら、よく見えない。
鬼道はフッと、何かを諦めたような笑みをひとつこぼした。

「さて······」

鬼道は自分の顔から手を下ろすと、美しい景色に背を向ける。顔を引き締め、口元を引き結ぶ。そこにいるのは、残忍で冷酷なイタリアマフィア「Impero」の次期総帥候補──鬼道有人だった。

「不動、佐久間と源田を探しに行くぞ。まさか殺されてはいないだろうからな」

背筋を伸ばし、颯爽と歩く黒いジャケットを不動は追いかける。
彼らがいるのは黒く狭い箱のような場所だ。そこから逃げることは、決して許されない。



「······すまん、鬼道」
「······次会ったらアイツ絶対にぶっ殺す」

ビルの下、佐久間と源田はロープで柱にぐるぐる巻きに縛られていた。申し訳無さそうにうなだれる源田も、沸々と怒りをわき上がらせる佐久間も、後頭部に大きいタンコブをこさえていた。


.
TOP