俺と彼女の心理戦
「瑛一、あのさ昨日打合せした曲の話なんだけど…」
俺達の作曲家である名前がこの家にいるのは別段不思議なことではなくて、仲が良いからこそ仕事の合間をぬって新曲について相談しに来てくれる。今日だって久しぶりの休日だったみたいなんだけど、わざわざ来て兄さんと曲について話し合ってる。
「あぁ、そうだな。名前がそう言うならそうしてみよう」
兄さんも名前が作る曲をとても気に入っていて、デモが出来る度に大絶賛する。俺も好きなんだ、名前の曲。でも、今日は少し、少しだけ兄さんにヤキモチを焼いてるかもしれない。だって、ここにきてからずっと名前のこと独り占めなんだもん。
「ありがと。少し防音室借りて良い?すぐ終わるから」
「あぁいくらでも使うと良い。いい曲を生み出してくれ」
「ありがと」
ここにもきちんとした防音室が完備されていて、名前のような作曲家がいつでも編集したり出来るようになっている。いつもは綺羅が引いているピアノに集まって話をしていたふたりが防音室に向かうのを、ただ見送る。俺はと言うと、ソファで台本を持ったまま座っているだけ。内容なんて全然頭に入ってこない。
「あ、私のために紅茶買ってきて!財布勝手に持っていっていいから!」
「俺にパシらせるとは…イイッ!」
名前が防音室にはいる前、少し遠くにいた兄さんにそんなことを言った。言われた兄さんは相変わらずで、それでもきちんと行こうとする辺り名前に対して物凄く甘い。俺は名前のバッグが自分のソファに置いてあるのに気付いて、無意識に兄さんに声をかけていた。
「兄さん、僕が行ってくるよ」
「ん?いいのか?」
「うん、ちょうど自販機行こうと思ってたし」
本当はそんなこと思ってない。でも自分の気分転換になると思ったんだ。頼んだぞ、と兄さんに言われ見慣れた自分の財布を持つ。もちろん名前の財布からお金を出したりなんてしないよ。ゆっくりと自販機のある場所へと足を運んだ。
「俺がいるのになぁ…」
不意にそんな言葉が出た。口から出た言葉は誰に聞こえる訳でもなく虚空へと消えていく。
「名前と二人きりになりたいからって引き受けたけど、戻って兄さんが一緒にいたらどうしよう…」
そんな予感はやっぱり的中するんだ。紅茶と自分のお茶を買って戻れば、防音室のなかには兄さんと名前が。なんだか、距離も近く感じる。ドアにもうけられた窓から覗くと名前と目があったから、買ってきた紅茶のペットボトルを掲げた。
「紅茶、買ってきたよ」
「瑛二ありがとう!ごめんね、瑛一に言ったのに」
「俺がいきたいって言ったんだ。だから大丈夫だよ」
パタパタと走ってこちらに向かってくる姿が可愛らしい。俺よりも兄さんの年齢に近い彼女だけど、大人っぽくて可愛らしい彼女が本当に大好きだ。さっきまでのモヤモヤがだんだんとなくなっていく。
「ありがと」
彼女はわざと俺の手を一度触ってから紅茶を受け取った。そんなところにドキッとしたのも束の間、名前の後ろで彼女を呼ぶ兄さんの声。
「名前、ここのパートなんだが…」
「はーい、今行くー」
俺はぷくっと頬を膨らませ、兄さんのもとに向かう彼女を横目にソファへと戻った。ずっと放ってある台本を手に取り、表紙をみてため息をつく。お仕事だって、ちゃんとわかってるけど俺とももうすこし話してくれればいいのに。
「瑛二…?」
いつのまにか仕事から帰ってきた綺羅がいつもの表情で俺のことをみていた。
「あ、綺羅…。帰ってきたんだね、おかえり」
「どうか、したのか?」
「ううん、なんでもないよ」
ゆっくりと綺羅は俺の隣に座った。膝を抱えて読んでもいない台本を持っていたら不思議に思われても仕方がないかなとは思う。そんな俺の背中をゆっくりとさすり、綺羅はこういった。
「言わなきゃ…、わからないことも、ある」
「簡単に済ますつもりだったのに、結局がっつり作り混んじゃったじゃない」
あれからいくらか経って防音室から名前と兄さんが出てきた。綺羅と目が合うと、ほら、と催促された。俺はこちらに向かってくる名前の腕をつかむ。
「ん?どうしたの、瑛二」
俺は、ずるいと思う。
「…兄さんばっかり、構わないでよ」
名前の心に付け込むんだから。
「っ!?」
「名前のばか…」
「ちょ、待って、瑛二!」
俺はリビングの見える二階に向かって走った。照れ隠しでもあるし、名前のそのあとの反応がみたかったものある。こっそりとリビングに確認すると放心状態の名前が兄さんに向かってなにか言っている。
「瑛一…、瑛二持ち帰ってもいい?」
「ダメだ」
「お兄様からの許しが出ないっ!」
「当たり前だろう」
「瑛二借ります!探さないでね!」
「おい!許可してないぞ!」
そんな会話が聞こえて、俺は心底満足した。少しすると名前の足音が聞こえて、俺は彼女に見えるように自分の部屋へと駆け込み、部屋に入ってきた名前を優しく、愛おしく、大切に抱き締めた。抱き締めると、俺より年上なのに身体は小さい彼女が可愛らしくてさっきまで何で悲しかったのか忘れてしまうくらい幸せだった。
「ごめんね、名前。でも兄さんばっかり構ってるから寂しかったのは本当なんだ」
そう笑って言うと、彼女は顔を真っ赤にして返事の変わりに俺のことを強く抱き締めてくれた。
「…瑛二の口からそんなことが聞けるなんて、思わなかったから、すごく嬉しいの。あのね、大好きよ、瑛二」
えへへ、と笑う彼女に俺はしてやられたと思った。心に付け込んだのは、俺ではなくて名前だったみたいだ。
「俺も、名前が大好きだよ」
透き通るような肌に手を添え、俺は彼女の唇を奪った。
俺と彼女の心理戦
(大好きで、大好きで、誰にも渡したくないんだ)