にゃあと鳴いて蝶を捕る | ナノ


▼ 02

大日本帝国陸軍第七師団の上等兵である尾形百之助には気になる女がいた。

それは数日前、偶然出会ったあの女である。

彼女については後日近所の人に聞けばすぐに分かった。女の名は市子と言って年の頃は二十代前半と見た目通りにまだ若い娘であった。市子は町の一角にある老婆が営む小さな飲み屋で働いているらしく関東の出身だが事情があって夫婦で北海道の地までやって来たのだという。そう、あの時市子と言い争いをしていた男は市子の夫だったのだ。

「事情ってのは何なんだ」
「さぁねぇ。でも噂に聞いたところ市子さんは良家の娘さんで旦那さんの方は百姓だったらしいから…大方駆け落ちでもして来たんじゃないのかい?」

じゃないとわざわざこんな遠くまで来やしないだろう、と年増の女はニヤニヤと楽しそうにしている。

「その市子が働いている店ってのはどこにある」
「この通りを真っ直ぐに行って角を右に曲がったところさ、フクばあさんが一人でやってる店だよ」

男女の事を探るにはこういう噂好きの女に限ると尾形は思いなが市子が働いているという店に行ってみる事にした。





女が言った通りに道を行けばそこには小さな飲み屋があった。こじんまりとしただいぶ古い店だ。フクと言う老婆が随分と前からやっている店なのだろう。ここで待っていれば市子に会えるだろうか、しかしまだ昼間だから店が開くには早すぎるか。そんな事を考えていればフと人の気配がした。尾形が顔を上げればそこにはあの女、市子が両手一杯の荷物を抱えて歩いて来た。

ついに、機会が巡ってきた。

市子は感情露に男を怒鳴り付けていたあの時とは打って変わってとても穏やかそうで少し幸薄そうな美しい女であった。店の仕込みがあるのだろうかたくさんの食材を抱えて少し重そうにする表情の市子は手を差しのべてやりたくなるようなどこかか弱い雰囲気もあってどちらが市子の本性なのだろうかと尾形は興味が沸く。

「あっ」

その時抱えていた荷から芋が一つ転げ落ちた。市子は気づいて立ち止まりそれを拾おうと手を伸ばす。しかしそれより先に尾形が動いて市子がしゃがみこむ前に芋を拾い上げればスッと市子に差し出した。

「ほら」
「ありがとうございます」

市子が礼を言って芋を受けとるが尾形はそれを離そうとせずジッと市子を見ている。初めこそニコリと笑いかけた市子だったが尾形が何も言わずそのままでいるから少し困った様子でおずおずと尾形を見る。

「あの…」

何か気に障ることでもしてしまったのだろうか、と市子が小さく呟けば尾形はニヤリと口角を上げた。

「あんたの名は?」
「え?」
「俺に見覚えはないか?」
「あの…私あなたのこと知りません」

見覚えはないかと言われ市子は尾形を改めて見るがその顔や声に覚えなんてなかった。だから芋を無理矢理サッと取り上げて失礼しますと頭を下げて逃げるようにその場を去ろうとすれば。

「待てよ」

尾形に行く道を塞がれ立ち止まってしまう。困った様子の市子だったが知らないと言っているのにここまで絡んでくる尾形を見て少し苛ついたのか眉間に皺を寄せた。

「なんでしょうか」
「数日前あんたは俺と目が合っただろう」

だが尾形にそう言われ市子はハッとしたように目を丸くした。

「ほらあの日だ。あんたが亭主と大喧嘩してた晩だ」

そこまで言われると市子も思い出したようだ。そうだ、数日前に外で夫と大喧嘩をした。その時に自分と目が合った全く知らない男に八つ当たりして怒鳴り付けるように言ってしまったのだ。市子は思い出してあの時の自分の行いが恥ずかしくなったのか顔を真っ赤にして尾形に頭を下げた。

「思い出しただろう?」
「…あの時は、すみません。周りをよく見ていなくて失礼な態度をとってしまいました」
「おいよせよ、俺は謝ってもらいたい訳じゃないんだ」

本当に申し訳なかったと思っているのだろう、深々と頭を下げて謝罪をする市子を見て尾形は慌てて声をあげる。そう、尾形は市子からの謝罪の言葉が欲しい訳ではない。

「まずはあんたの名前を教えてくれよ」
「…荻坂市子と言います」

市子の口から名前を聞いて知り合いになりたいのだ。

「市子さん」

他人から聞いた名ではなく、本人の口から直接聞く事の出来たその名前。

「俺は尾形だ、尾形百之助」

そして自分の名を聞いてもらう事により、全く知らない他人ではなくなった。

「覚えたか?」
「はぁ…あの、尾形さん、私用事があるのでもう帰らないと…」
「ならまた今度会おう」

市子の名や働く場所が分かったからこれからはいつでも会いに行ける。今日は知り合えただけで十分だと思った尾形は市子の言う事をあっさりと承諾しまたなと言って市子を見送る。また今度会おうと言うのはどういう事かよく分からなかった市子だったが尾形が道をあけてくれたからペコリと頭を下げて足早にその場を立ち去って行った。

またすぐに会いに行くからな、市子。

尾形の言う言葉はその通りだったと市子が分かるのはまた数日後の事である。

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