皇帝は全裸で微笑む・2。


「お前と出会ったのは、合同演習が初めてではない」
「え?」
「覚えておらぬとは……薄情な奴め」

 合同軍事演習で初めて会ったミズキを何らかの理由で気に入って花嫁に迎えた訳ではないのだと言われて、ミズキは懸命に記憶の糸を辿ったが、今まで自分が出会った者の中に目の前の男の顔を思い出すことはできなかった。

 カイル程の魅力に溢れ、強い輝きを放つ男に一度でも出会っていれば、忘れるはずがない。

「人違いではありませんか」

 ハース家の男子に受け継がれる白銀の髪とアメジストの瞳は珍しい組み合わせだが、広い世界には、ミズキの他にも同じ色の髪と瞳を持つ者がいるだろう。

 人違いで馬鹿げた花嫁騒動に巻き込まれては堪らないと、恐る恐る尋ねたミズキに、皇帝は凛々しい眉を寄せて短く息を吐き、手にしていた書物を寝台横の燭台に置いた。

「遠い夏の日、王宮の庭で迷子になって警備犬に怯えていた私を助けてくれた。あれはお前だろう」
「王宮の庭……?」

 迷子というからには、幼い頃の話なのだろう。

 生い茂る草木。
 見慣れぬ侵入者に激しく吠え立てる警備犬。

 忘れ去られていた記憶が徐々によみがえり、懐かしい思い出と目の前の男の顔が重なった瞬間、ミズキはアメジストの瞳を見開いた。

「ようやく思い出したらしいな」
「そんな馬鹿な……それこそ人違いです」
「人違いだと?」
「だって、私があの時助けたのは」

 あの時助けた迷子が、カイルであったはずがない。

 見知らぬ土地で一人迷子になってしまい、恐ろしい犬に吠え立てられていたのは、ミズキとそう年の変わらない可憐な美少女だったのだ。

 幼なじみの王子に会おうと王宮に遊びに来ていたミズキは、妙に犬が騒がしいことに気付いて庭園の奥に広がる林に足を踏み入れ、そこで初めて彼女に出会った。

 恐らく、来賓として王宮に招かれていた他国の王族か貴族の子供が、暇を持て余して遊んでいるうちに迷子になってしまったのだろう。
 流れるような黒髪と、小麦色の肌に金色の瞳が美しい異国の姫君は自らを『イリア』と名乗り、窮地を救ってくれた幼い騎士の頬に褒美のキスをくれたのだ。

 それは、幼いミズキの淡い初恋だった。

「私を、からかっていらっしゃるのですか」
「からかう? まさか。そんなことをする必要がどこにある」
「確かに幼い頃、王宮の庭で警備犬に吠えられていた異国の客人に出会ったことはありますが……彼女は、私と年近い姫君でした」

 見るからに屈強な肉体を誇る傲岸不遜な皇帝が、あの時の姫君と同一人物であるはずがない。

 戸惑いながらも必死に否定の言葉を口にするミズキの様子に、カイルは形の良い唇の端を引き上げた。

「カイドウの王位継承者は、成人の儀式を迎えるまでの間“娘”として育てられるしきたりがある」
「な……っ、しかし、彼女は私に、イリアと名乗りました。貴方とは別の名前です」
「当然、娘として育てられている間は女の名前を名乗ることになる。“カイル”は成人の儀式で新たに与えられた名だ」
「そんな……、それにしても、外見までもがまったく異なるなんて」
「幼い頃は華奢な体型だったが、十を過ぎた辺りから急激に成長が始まってな。成人の儀式を迎える直前などはこの顔と身体で女物の衣装を纏わねばならず、さすがに父上も私を人前に出すことを躊躇われたほどだ」
「……」

 それはそうだろう。

 こんなに雄の野生に溢れた屈強な男が女物の衣装を身に纏う姿など、家族であっても見るに堪えないものがあったはずだ。

「では、貴方が……あの時の」

 こうなってしまってはもう、淡い初恋の相手が驚くほど逞しく育ってしまったことを認めない訳にはいかず、ミズキは不敵な笑みを浮かべる男の精悍な顔をじっと見つめた。

 確かに、太陽の似合う褐色の肌と長い黒髪は、初恋の姫君と変わらない。
 鋭い光を放つ金色の瞳の中に、微かに懐かしい面影を見つけたような気がして、ミズキは一歩前へ踏み出し、寝台に近付いた。

 自信に満ち溢れた男が、精悍なその顔に優しい笑みを浮かべてミズキの方へと手を差し延べる。

「あの時、頬にキスをしただろう」
「随分積極的な姫君だと思いました」

 未婚の男女間では、頬へのキスは求婚の意味があることを、幼いミズキは既に知っていた。
 異国の姫君が本気で自分に求婚している訳ではないのだろうと思える程度に分別があったミズキは、頬へのキスを、姫君の気まぐれな褒美だと思っていたのだが。

「成人したら必ずお前を迎えに行くと、決めていた」

 鼓膜を溶かす甘い囁きに、ミズキは僅かに熱を増した手をそろそろと前に伸ばし、差し出された大きな手の上に重ねたのだった。



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