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○●○
今夜も伍代は、閉店間近の『KARES』の扉を開く。
「いらっしゃいませ、伍代さん」
「いらっしゃいませ」
元々この店を訪れる客は、飲み会帰りに立ち寄って、丁寧にドリップされた酔い醒ましのコーヒーを飲むか、他の店では味わえないこの店自慢のカクテルを一杯飲んで夜を締めくくりたいという者がほとんどなので、閉店近いこの時間に店に客の姿はなく、副店長の三上とバーテンダーの香田が、いつものように伍代を出迎えてくれた。
「ブレンドをお願いします」
「かしこまりました」
翌朝早くに出勤しなければならないと分かっているのに時計の針が日付をまたいだこんな時間に店を訪れて、しかも寝酒代わりのカクテルではなく、自ら進んでカフェインを摂取するなど、本来であれば合理主義者の伍代にはあり得ない行動だ。
一方、カウンターテーブルの向こうに立つ二人のスタッフは、伍代が香田のカクテルではなく三上の淹れるコーヒーを注文することは既に了解済みらしく、それぞれにいつもと変わらぬ動きでそれぞれの仕事を続けていた。
三上と初めて出会ってから数年。
最初は夜七時までの営業だった『KARES』は、若手の実力派バーテンダーとして名を挙げ始めていた香田をスタッフとして迎え、カフェタイムとバータイムの二部構成へと営業時間を広げ、現在は副店長になった三上が香田と二人でバータイムを担当していた。
今年に入ってからはカフェタイムに新人スタッフの雪矢を迎え、美形揃いの目の保養ポイントとして、近隣地区のOL層の間でひそかな人気を集めているようだ。
店の営業形態が変わり、毎日一生懸命ドリップの練習をしていた三上が副店長になり、香田と雪矢がスタッフに加わって、さらに、伍代の上司である佐竹と雪矢が恋仲になって……。
わずか数年の間に『KARES』の環境は大きく変わった。
変わらないのは、落ち着いた店の雰囲気と、コーヒーの味だけだ。
――そして、もう一つ。
三上と伍代の関係も、この数年の間、まったく何の変化もないまま過ぎていたのだった。
○●○
「お待たせいたしました」
店内に満ちる深い香りに酔っていた伍代は、優しく耳をくすぐる甘い声で我に返った。
「ありがとうございます」
目の前には、魅惑的な香りを放つ一杯の媚薬。
自分でも理解できない感情に振り回されて、それでも頻繁にこの店に通ってしまうのは、この液体に何か特別な薬でも入れられているせいなのだろうか。
アルコールなど一滴も入っていないはずなのに、カウンター越しに自分を見つめる男の悪戯っぽい微笑に酔わされるのも、このコーヒーの作用なのだろうか。
「今夜は少しお疲れのようですね」
自分の視線が伍代を惑わせているのだと知ってか知らずか、三上は少し身をかがめて、伍代の顔を覗き込んだ。
「そうかもしれません」
元々口数が少なく、滅多なことでは表情を変えない伍代の僅かな変化に気付く者は少ないのに、週に何度か顔を合わせるだけのカフェの副店長には何もかもすぐに伝わってしまうのだから、不思議なものだ。
見る者を男女問わずに惹きつける綺麗な顔を近付けられ、動揺しつつも、極上の芳香を放つコーヒーを口に含むことで何とか心の平静を保った伍代に、三上は更に追い打ちをかけてきた。
「お疲れの伍代さんにイイコト、してあげましょうか?」
「!?」
耳元で甘く囁きかけられて、伍代は口に含んだコーヒーを吹き出しかけた。
カウンター越しに極上の微笑みを見せる男の目が、獲物を前にしたハンターの輝きを見せる。
――猫だ。
厳ついヤクザ顔の下で忙しくうろたえて高鳴る心臓を落ち着かせつつ、伍代はぼんやりとそんなことを考えていた。
目の前の美しい生き物は、カフェの女王として君臨する気高い猫なのだ。
気まぐれな優しさを見せながらも、その美しさに魅せられて近付く者に決して懐くことはなく、うっかり手を伸ばそうものなら、何のためらいもなく尖った爪を突き立ててくるに違いない。
今も。
遊び甲斐のある獲物を前に爪を光らせながら、どう料理してやろうなどと考えているのだろう。
気まぐれな猫は、大人しい獲物だと思っている男が実は鋭い牙を隠し持った獰猛な獅子だとも知らずに、いつも無邪気にじゃれついてくる。
「揉んだら、すぐ元気になりますよ。伍代さんは優しいのと激しいの、どちらがお好きですか?」
「な、な……っ」
「大丈夫。力を抜いて、私に任せて下さい。気持ちよくしてあげますから」
「ミカミさん!?」
吐息まで感じられる距離で甘く囁く声に、下半身が怪しい熱を帯び始める。
見せつけるように目の前でひらひらと動かされる白い指先に、伍代は思わず喉を鳴らした。
遊ばれているのだと分かっても、理性の鎖が切れてしまいそうだ。
「これでも、上手なんですよ」
過去の経験の豊富さを匂わせる言葉に、脳が沸騰しそうになる。
「――肩揉み」
「肩、揉み?」
「はい。お疲れのときはほんの少しほぐすだけで身体が軽くなりますよ」
「……」
分かっていた。
肩揉みの話だと、ちゃんと理解していた。
それまでの流れから冷静に判断すれば、間違いなく、揉むというのは肩の話だろう。
逆に、一瞬でも不自然に動揺してしまった自分が恥ずかしい。
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