盲信でもいい



 窓を開けたら冬の匂いがした。葉の転がる音と、それから、車の過ぎ去る音。顔も知らないひとの住む、マンションの灯り。いまこの瞬間、起きているのはわたしだけじゃないのだ。あたりまえのことを思う。窓の外にはきちんと世界が広がっていて、夜はどんどん深くなり、いずれ眩しい朝がくる。

 刺すような冷たい風はすぐに部屋を満たして、わたしをすっかり現実に引き戻してしまった。彼と居ないときはいつもこうだ。夜になると世界にはわたししかいないような、二度と彼とは会えないような、そんな気分になる。まるでこの部屋が、自分のすべてかのように思えてくる。

 ポオさんがこの部屋に来ることは少ない。年に数回、それに、泊まっていったりもしない。いっそ一緒に住んでしまえば、紅茶を出したカップだとか彼が窮屈そうに座っていた椅子だとかをじっと眺めて感傷に浸ることもないのだろうか。

 携帯を開くとすぐ、クッションの上で丸まったアライグマの写真が目に入る。ロックを解けば、今度はおやつを両手で持って立っている姿が映しだされた。これはわたしの携帯で、ポオさんが撮ったものだった。

 二十三時二十七分。彼にかけようと通話ボタンを押しかけて、やめる。電源を落とす。カールの愛くるしい姿が部屋の暗闇に消えていく。
 毛布をたぐり寄せて、そのまま身体を包んだ。それから、ゆっくり、名残惜しむように窓をしめる。真新しくなった空気を吸い込む。

 すこし迷って、わたしはコートに手をかける。ベッドの上の携帯と本とお財布をかき集めて、ポケットに突っ込んだ。


 ポオさんに会ったらなんて言おう。会いたくなっちゃった、とか、来ちゃった、とか? どれもしっくりこない。普段そういう、可愛らしい言い回しをしてこなかったせいだ。

 こんなふうに突然彼のもとを訪ねるなんて初めてのことだった。電話なら、一度だけある。悲しいことが重なって、寂しくて耐えられなくて、どうしようもなくなったとき。けれど、携帯から聞こえるポオさんの声はとても動揺していて──滅多に電話を寄越さない恋人が真夜中に電話をかけてきたことに驚いたというのもあっただろうけれど、それ以上にあの着信音は心臓に悪いのだ──、気を使わせるくらいならひとりで我慢したほうがマシだと学んだ。

「……やっぱり帰ろうかな」

 横断歩道のずっと手前で足を止める。こんな時間だから、急に歩くのをやめても誰の迷惑にもならない。車はたまに通り過ぎるけれど、通行人の姿はまだひとりも見かけていなかった。

 ふと、ショーウィンドウに映る自分の姿が目に入る。髪はボサボサだし、コートの下から覗くパーカーは全然色が似合っていない。ほとんど寝巻きのまま飛び出してきたようなものだから、当然だった。誰も居ないのに、唐突に恥ずかしくなる。こんな格好、彼には見せられない。

 それでも帰りたくなくて、ポオさんの家の近くのコンビニまでは歩いていくことにした。温かい飲み物でも買って、少し休んで、そうしたらまた、時間をかけて帰ろう。心に決めて、歩きだす。髪に手櫛を通して、コートのボタンをしめる。

 雑誌を立ち読みしているうち、身体がほんのり暖まってくる。すごく暖房がきいているわけではなかったけれど、それでも数分過ごせば寒さは和らいだ。わたしの意識は温かいものから逸れていく。気がつけばアイスを手に取っている。

 コンビニの外のベンチに腰掛けて、深いため息をつく。空は雲に覆われていて、星なんてひとつもなかった。月も見えない。街灯の明かりだけが煌々と、濡れたアスファルトを照らしていた。

 アイスの表面をヘラで削って、ひと口食べる。どうせならポオさんの家へ行く日に買えばよかった、と思った。そうすればこの味だって、特別なものになったのに。

 だんだん指先がいたくなってきて、片手ずつカップを持ちかえる。なんて情けない夜なんだろう。恋びとらしく彼に連絡することも、家を訪ねることも出来ず、こんなのって中途半端だ。愛嬌とか可愛げとか、そういう恋愛に必要なものたちがすっかり、欠落してしまっている。どうして彼がわたしを好きになってくれたのかなんて、考えても一生分からない。

 アイスを両手にかかえたまま、じっと白線を見る。すぐ近くで車の音がする。ライトが顔にあたって、まぶしい。こんなに空いているのに、どうしてわたしの目の前に止めるのだろう。チョコチップの埋まった面をがりがり掘り進めて、口に入れる。……誰だって、車は入口に近いところに停めたいだろう。わたしだってそうする。周りにあたりそうになっているのを自覚して、そっとカップに蓋をした。半分くらい残っているけれど、この寒さなら溶けそうにない。ヘラはゴミ箱へと放って、半透明の袋を腕に下げる。
 おもむろに立ち上がって、勢いよく伸びをした。ビニールがガサガサと音を立てる。

「……わ」

 頭上からか細い声が降ってくる。足元を照らしていたコンビニの明かりは遮られ、影が濃くなっていた。

「え、」
「お、驚いたのである……」

 目の前に現れたのは、わたしの恋びとだった。ふわふわの相棒は連れておらず、首もとが寂しく見えた。
 いつもの外套。家にいるときによく着るシャツ。一緒に選んだブーツ。前髪からのぞくひとみ。声。なにもかも、現実ではないみたいだ。

「それはこっちの台詞だよ」
「い、いや我輩も」

 顔を見合せると、自然に笑みがもれた。ポオさんの手がわたしの頬へと伸ばされる。

「つめたい、……ずっとここに居たのであるか?」
「ずっとではないけど、アイス食べてたから冷えたのかも」

 ポオさんがビニール袋へ視線を落とす。頬から手が離され、そのまま腰へ回される。ごく自然な仕草だった。わたしはすでに、これまでの葛藤も寂しさも情けなさもすべて忘れていた。わたしの恋びとは、そこに居るだけでわたしのなにもかもを連れ去ってしまう。

「ここ、目立つから帰ろ」

 自分の口から出たことばなのに、内心はっとする。……帰る。わたしは、帰るのだ。ポオさんの家に。

「……ああ、そうであるな」

 そっと引き寄せられる。すきまがなくなる。歩きだすと、大きくなった影が揺れた。

「ポオさんはどうしてコンビニに?」
「今書いている新作のトリックに行き詰まって、……。カールも寝ているし一人で散歩していたら、君を見つけたのである」
「ええ、なにそれ。偶然すぎる」

 ポオさんがゆるく微笑む。夢みたいな夜だと思った。星や月がなくてもかまわない。

「そうであるな」
「わたしね、ずっと連絡しようか迷ってて」

 前から男の人が三人歩いて来る。少し騒がしい。視線を下に落とす。すれ違うとき、わたしたちのあいだに距離なんてないのに、さらにきゅっとちいさくなる。よく考えたらそんなに狭い道でもなく、こちらが立ち止まる必要なんてなかったのに、ふたりして道の端に縮こまっていた。なんだかおかしくて、でも結局、わたしが彼を好きなのはこういうところが合うからなのだ。

「それで、まあ連絡はできなくて、でも寂しいからここまで来ちゃったんだけど」わざとらしく、寄りかかってみる。「しなくてよかった。偶然のほうがよっぽどロマンチックだもの」

 ロマンチック、なんて、わたしたちの恋愛には全然似つかわしくない。その証拠に、ポオさんの表情は曇っている。

「……でも、次からはちゃんと連絡しようと思う。会いにも来るし」
「嘘である」

 ポオさんがぽつりと言う。

「え、……まあ、遠慮はしちゃうかもしれないけど、嘘ってことは、」
「そ、そうではなくて」ポオさんの身体がすっと離れて、向き合う形になる。足をとめる。もう家はすぐそこだったけれど、かまわなかった。「我輩も、君に会いに行こうとしていた、のである」

 だから偶然ではなく、と言いかけるポオさんを制して、
「じゃあ、どうしてコンビニの前に居たのに気がついたの?」コンビニのあった方向を見る。看板の光は人工的で、夜の色に混じらない。

「君が前に食べたいと言っていたアイスのことを思いだして、……それから、前にあのベンチで座って話した日のことも」
 わたしはすっかり圧倒されてしまった。なんて素敵なんだろう。偶然なんかよりもずっと良い。
「ポオさん、」

 たまらなくなって、ポオさんの腕をつかむ。彼はわたしに手を伸ばす。ゆっくりと、触れるだけのキスをする。

「家、入ろ」

 ポオさんはしずかに頷いて、ドアを開けてくれる。後ろで葉の転がる音がした。ポオさんのコートからは、冬の匂いがする。


Title by 徒野









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