満ちて落ちてあの日まで



 良い飲み会だった、と思う。わたしにしては男女分け隔てなく、初対面の人にも臆することなく話せたはずだし、飲みすぎてもいない。程よく酔っていて、心地がいい。

 いわゆる合コン、というものだ。そういうのは避けていたけれど、今回は友だちの誘いを断りきれなかった。普通の友だちなら断る。けれどその子は、わたしと性格が似ているのだ。知らない人と話すのが苦手で、集まりに出かけても帰ってから延々とひとり反省会。恋人、なし。友だちだって多くない。そんな彼女が──わたしが嫌がるのを分かっていながら──誘ってきたのだから、よほど困っているか、どうしても会わせたい人でもいるかのどちらかだと思った。そしてそれは、着いてすぐにわかった。後者だった。

 寒くなるほどではなく、けれど確かに冷たい風がスカートの裾を揺らす。一瞬秋の匂いがした。暗いけれど、空も澄んで見える。
 良い人だなと思った。連絡先も流れで交換した。出会ったばかりだからわからないけれど、多分性格も合う気がする。話しやすくて、優しくて。

「……ちゃん付けなんてひさしぶり」

 スポットライトみたいに伸びた街灯の下で、ひとりごちる。思い出すのは楽しいことばかりなのに、自分の声が案外くたびれていて、驚いた。やっぱり人と会うのは疲れる。途端に靴擦れが痛んで、ため息をつく。
 全然わがままじゃないし、ネクタイちゃんとしてたし、ひとに向かって莫迦とか言わない。不用意に触れてきたりもしない。本当に素敵な人だった。この機会を逃したらもう出会いなんてない。

 静まり返った住宅街に、わたしの靴音だけが響く。ふと顔を上げて自分の住むマンションを見れば、なぜか部屋の電気がついていた。
 さすがに朝からつけっぱなしということはない。消した記憶がある。思い当たる原因はひとつしかなかった。最悪だ、と肩を落とす。

 はっきりさせるためにも、これはちょうどいい機会なのだ。自分に言い聞かせて、エレベーターに乗り込む。
 わたしはずっと、あのひとと乱歩を心の中で比べている。

 五年前に告白したとき──ふたりともまだ二十歳だった──乱歩は答えてもくれなかった。わたしは乱歩のことが心から好きで、それは彼も同じだと思っていた。好きだなんていうのはいつも伝えていたことだったから、付き合わないかとはっきり提案したのだ。完全に自惚れていた。

 ちゃんと返事を聞けていないからって、それが何なんだ。きっと乱歩にとっては既にどうでもいいことで、もしかすると忘れられている可能性もある。時効だ。五年も経ったのだから。

「ただいま」

 わざとおおきな声で言う。鍵をかけて、乱歩の靴を揃える。隣にパンプスを並べてそのまま床に座る。靴擦れしたところは見事に赤く擦れていた。絆創膏を貼る。

「……おかえり」目の前に影が差す。不機嫌な子どもみたいな声が降る。「帰るの遅すぎ。僕もう待ちくたびれたんだけど」
「ごめん、……」
 咄嗟に言葉がこぼれ落ちる。あせって立ち上がろうとして、やめた。「やっぱ嘘。全然ごめんじゃなかった。むしろ謝って欲しいくらいだよ」
「ハア? なんで僕が謝るのさ」
「こんなの、住居侵入じゃん」

 乱歩が突然訪ねてくるのはよくあることだけれど、今日みたく勝手に入っているパターンは初めてだった。事前に電話かなにかで言われていれば許しただろうけれど、恋人でもない女の家に堂々と上がり込むのはあまり良い行為ではない。

「合鍵渡したの君だろ」
 記憶を探る。ここに越してきてすぐの情景がよみがえる。
「……違う。一旦貸したの返してくれてないだけ」

 あの日は確か別々の仕事をしていて、わたしの帰りが遅くなるかもしれない、という理由で渡しておいたのだ。そのまま忘れていたのも悪いけれど、何も言わずに持っていた乱歩のほうがよっぽどひどいことをしている。何もこんな日に合鍵を使うことなんて、なかったではないか。

「今日変だよ。そんなに合コンが楽しかったわけ」

 なんで合コンってわかったの、なんてことを聞いたりはしない。彼は名探偵だから、そんなのお見通しなのだろう。

「楽しかったよ、すごく」
「ふうん」

 なんとも気のない返事だった。本当にどうでもいいのだ。少しだけ胸が痛くなる。
 今日は乱歩のことを構いすぎないようにする。せっかく素敵な一日のまま終えられそうだったのだ。早々に帰ってもらって、眠ったほうがいい。

 洗面所で手を洗い、ついでに干されていた部屋着に着替える。身体の力が抜けて、軽くなる。
 リビングへ戻ると乱歩はソファへ腰掛け、足を組んでいた。

「ちょっと良いかも、ってひとにも出会ったよ」
 ソファからひとつクッションをとって、その上に座る。乱歩は一瞬だけわたしを見て、
「へえ。どうでもいいけど」すぐに視線を逸らした。
「勝手に入ったんだから、話くらい聞いてくれてもいいと思う」

 どうせラムネは飲まれているし、お菓子も食べられているに違いない。もともと乱歩用だから問題は無いけれど、家主不在の家で好き勝手されたのだから、強気でいてもいいはずだ。

「……君とその男の人は、上手くいかない」

 不思議と怒る気にはならなかった。友だちとしてのわたしが乱歩から離れていくのが嫌なんだと思った。

「妬いてるの?」
 翠の双眸が縦にひらかれる。
「何言ってんの。そんなわけない」
「そうだよね」

 また、傷つくところだった。わたしはもう、乱歩に振り回されたりなんてしない。

「乱歩にはそんな権利もうないし、わたしは前に進むべき」

▽▽▽

「これ、確認お願いします」

 後輩の事務員から書類を受け取って、パラパラと捲っていく。その向こうでは、乱歩と国木田くんが慌ただしく準備をしていた(乱歩は何もしないから、主に国木田くんが頑張っていた)。近くで事件が起きたみたいだった。

 やがてふたりは探偵社を出て、あたりに静けさが戻る。事務員のフロアで仕事をしていれば、こんなふうに心を乱されることなんてないのだろうか。

 昨日彼をタクシーに乗せるまでの時間も、今日の朝も、乱歩とは話していない。もはや友だちでも居られなくなるのかもしれなかった。そんな覚悟で言ったつもりも、あの言葉が乱歩に刺さるとも思っていなかったから、正直戸惑っているところもある。本当にそうなればこのデスクは下の階におろされて、わたしと乱歩が顔を合わせることもなくなるのだろうか。

 探偵社がここに移ってから、わたしはずっと乱歩の付き添いや、報告書の作成なんかを受け持っていた。理由は、彼がわたしの言うことをよく聞くから。それだけ。けれど今日はただならぬ空気を感じたのか、何も言わずとも国木田くんが行ってくれた。つくづく良い後輩を持ったと思う。

「おや、なにか困りごとかな?」
 砂色の外套が視線をかすめる。
「……太宰。何もないよ」
「そうは見えないけれど?」

 隣の椅子が引かれ、彼はそこへ腰掛けた。頭のうしろで手を組み、体重を背もたれに預けている。

「国木田くん帰ってくるまでに色々終わらせとかないと。さっきも言われてたでしょう? また怒られるよ」
「そんなことはどうでもいいのだよ。今はナマエさんの問題を解決しないと」

 太宰は身体を起こして、わたしのほうへ向き直した。表情は真剣な風を装っているけれど、本気で悩みを聞こうなんてきっと思っていない。そんなこと、声色でわかる。

「面白がってるだけじゃん」
「いやいや、そんなことは……」
「ほら。もう放っておいて」

 パソコンに視線を戻し、資料のファイルをひらく。まだ余裕のあるものだけれど、今のうちに目を通しておいて損はない。

「いまも好きなんでしょう、乱歩さんのこと」

 手が止まる。
 別にバレて困るようなことでも、隠してきたことでもない。乱歩はわたしが告白してからもいつも通り──恋人のような距離感でわたしに触れたり、ふたりきりでご飯を食べたり、酔ったときには手を繋いだりもした──にしていたし、周りからそう思われても仕方がなかった。

 けれど、太宰が言ったのはそういう、憶測とか噂とかの話ではない。すべて見透かされているような、言い逃れなんてとうてい出来ないような、そんな言い方だった。

「好きだよ。でも、わたしもう待てないし」

 なにせ五年も経ったのだ。出会ってからだと、もっと経つ。
 窓の外へ目をやると、既に暗くなり始めていた。夕陽は見えず、紫色の空がひろがっている。このあいだまではまだ明るかった時間なのに、とすこし寂しい気持ちになる。

「昨日、乱歩さんに何を?」
 同じく窓を見ていた太宰が、不意に口をひらく。
「乱歩には他の男のひとに妬く権利なんてないって」
「それは、ああなるわけだ」
「そんなにひどいこと言ったかな」

 たしかに、あんなふうに乱歩を突き放したのは初めてだった。けれどわたしは事実しか述べていない。
 わたしはもう、自分が十分大人なのだということがわかってしまったのだ。乱歩と居なくたって、普通に探偵社で働いて、恋人を作って、生きていかれる。わたしを合コンに誘った友だちは、それを知ってほしかったのもしれない。乱歩以外の、おそらく自分に好意を持っているであろう異性と自然に話せたのは、わたしのなかで大きな出来事だった。

「いいや。悪いのは乱歩さんだよ」

 やさしい笑みだった。太宰が今みたいに微笑んだら、世の中のほとんどの女の子は恋に落ちてしまうのではないかと思うくらいに。「……でもまあ、迎えに行くくらいはしてあげてもいいんじゃないかな」

 電話が鳴る。国木田くんからだった。

「そうするわ」

 通話ボタンを押して立ち上がる。上着と鞄は腕にかけ、階段を駆け下りる。

▽▽▽

 辺りはすっかり暗くなっていた。ゆっくり息を吸えば、清冽な空気が肺を満たす。昨日よりも風は冷たくて、体がぶるりと震えた。

 秋は夏と同時にやって来る。誰かが言っていた。その通りだと思う。夏が来ているあいだ、秋もそこにあるのだ。隠れているだけで、ちゃんと。

 遠くに後片付けをする警察の集団と、中心にいる乱歩が見える。国木田くんの姿はない。急な予定が入ったとさっき連絡があったのだ。大きなマンションの前だから、記者らしい人達も沢山来ていた。

「おつかれさま。遅くなってごめん」
「国木田に頼まれたの」

 乱歩はぶっきらぼうに言って、けれどおとなしくわたしの横へ並ぶ。わたしは慌てて刑事たちに礼をした。こんなにすんなり一緒に帰ってくれるとは思っていなかったのだ。

「違うよ。まあ、頼まれはしたけど。その前から来るつもりだったから」
「ふうん」

 乱歩のまとう空気がふわりと緩んで、昨日から漂っていた緊張感が霧散する。お互いにそれがわかって、わたしは少しだけ微笑んだ。
 その後のわたしたちはただたわいもない話を続け、タクシーのいるところを目指した。駅に行っても良かったけれど、タクシー乗り場のほうが遠かったから。乱歩もそれは分かっていたはずだけれど、敢えて口に出したりしなかった。喧嘩して仲直りするときは、こうしていつも遠回りをしていた。

「ナマエ」

 乱歩がわたしの名前を呼ぶ。足が止まる。気がつけば、夜景のうつくしい公園に出ていた。色とりどりのひかりがまっくらな世界に散らばり、たゆたっている。

「僕の恋人になってくれない」
「え、……そんな、」
 思わず半歩後退る。ヒールの音がやけに大きく響いた。
「僕も君が好きだ」

 エメラルドのひとみがわたしを射抜く。するどく、底まで澄んでいて、見つめられるだけで身体がかっとあつくなる。
「わ、わたしは」しずかに、ひとつ息を吸う。手が震えていた。こんなの、何十回も言ってきたことなのに。「……乱歩のことが、好き」
「四年前も、ナマエは僕にそう言った」
「……五年前じゃなかった?」
「四年と十か月前。僕は何も答えられなかったけど」

 こんなに正確に覚えられていたなんて、と、わたしは目を丸くした。彼にとってはとっくにどうでもいい過去になっていると思っていたのに。

「だから今度は僕から言う」乱歩はまっすぐにわたしを見つめている。「僕と付き合ってよ」
 想いが溢れて、視界が乱歩ごと滲む。
「……うん」

 頷くと、乱歩は照れたように笑った。それはあんまり見たことのない顔で、わたしもつられて笑った。
 乱歩の手がわたしの頬へ伸びる。目を瞑る。触れるだけのキスを二、三度して、それから長い抱擁をした。

 明日出社したら、素敵な後輩たちにお礼を言わなければならない。それから、外の世界へ連れ出してくれた友人にも。

 乱歩とわたしのあいだを、秋の夜風が通り抜けた。手の甲がぶつかる。指が絡んで、つながる。ぼんやりとしたひかりのなか、わたしは彼に寄り添って、いつまでも歩いていく。

引用など
引用『ア、秋』太宰治
タイトルは徒野さまよりお借りしました。








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