六花降るところに





 布の擦れるような音がした。まぶたに力が入る。肩や首、あちこちの関節がきしむような感覚がした。目をあけようとしたけれど、水分が足りないのか、視界がひらけることはない。反射的に目を擦ろうとして、気がついた。右手が彼の手に重なっていることに、そして自分が彼によりかかって寝ていたことに。

 反対の手を額にあて、もう一度ぎゅっと目を瞑る。ひらく。閉め切ったカーテンから青白い光がもれている。部屋中がぼんやりと薄暗い。家に居るときは常夜灯を点けて眠るから、不思議な感覚がした。今が何時なのかはわからない。夜が明けていることだけが確かだった。

 直接見ることはかなわないけれど、虫太郎さんは眠っているようだった。規則正しく、身体がゆるやかに上下している。このまま寝たふりをして、彼が起きるまでこの温もりを感じていたいと思った。こんなふうに一夜を共にしたとて、わたしたちの関係はどうせ何も変わらない。

 彼の肩に頬をつけたまま、テーブルに置かれた本の表紙に視線を投げる。彼の友人ではない別のミステリ作家が書いたもの。ミステリを好まない彼が、わたしのためだけに読んでくれた。感想はやっぱり面白くないとのことだったけれど、彼がわたしと話すためだけに本を一冊読んでくれたという事実だけで、これからも生きていかれるという心地がした。今までの人生のなかでいちばんの夜だった。

 その隣には、虫太郎さんの愛読書だという神秘学の本がある。一応、ひととおりは読んだ。専門用語ばかりで、読んでいる時間よりも調べものをしている時間のほうが長かった。けれど、好きなひとの好きなものに触れている時間はすばらしく、これを読んでいない間も日々がかがやかしく思えた。虫太郎さんも同じように思っていてくれたらいいのに。幾度となくそんなことを考えた。この難解で意地の悪さすら感じる文章と向き合っているとき、わたしは彼とデートしているような気にすらなっていた。

 お互い、本を読み終わったら、感想を述べ合う会をしよう。どちらが先に言いだしたかは覚えていない。なんとなく、いつも読んでいるものの話になり、やがて人生最高の一冊とは、なんて、壮大なテーマに発展した。それで、近所のカフェで交換をして、二週間が経った。その間に何度かメールのやり取りもした。

 この話を後輩にしたら、映画みたいですね。ロマンチックだ、なんてコメントを貰ったけれど、わたしはいやに落ち込んでしまった。もし映画だったらわたしたちはお互いに好きあっていて、このあと結ばれるのだろう。現実にはそうはならないのを分かっていたからだ。虫太郎さんが、わたしをそういう対象としてみているとはとうてい思えなかった。



 昨日はすこしだけ酔った。わたしたちが会うのはいつも静かな喫茶店とか、本屋に併設されているコーヒーショップとか、それからわたしの家とか、だ。遅くても終電までには解散していたし、付き合う寸前の男女たちのように、それを名残惜しんだりすることもなかった。

 それが昨日は、ちがった。まず虫太郎さんがレストランの予約を取ってくれて(あとからきくと、メール対応可能なお店を探したらしい)、実際に意見の交換をしたのは二軒目の、夜まで開いているカフェだった。夜はお酒も出すらしく、照明も薄暗かった。ときおり席に設置された笠つきのランプに本をかたむけ、記憶をたどる。ゆったりとした良い時間だった。雰囲気にのせられて、お酒も進んだ。虫太郎さんもかなり飲んでいたように思う。はじめてのことだった。

「少し、歩かないか」

 虫太郎さんは、上機嫌に言った。それがあまりにも自然で、わたしもまるで常にそうしてきたみたいに虫太郎さんの隣に並んだ。カフェを出た途端に、冷えきった空気と街をゆく人々の音がわたしたちを包む。充分食べて、充分話した。解散の流れなのに。終電もすぐというわけではないけれど、近い。……ほんとうに? わたしは、このひとと、どこかへこことは違う場所へと歩いていくのか。

「どこか、行きたいところでもあるの?」

 凍てついた風が鼻を赤くする。あわててショールの位置をなおし、はんぶん顔を埋める。家の匂いと香水の匂いが混じっている。

「い、いや、そういうわけでもないのだが……」

 彼はちいさな嘘がばれた子どもみたいにうろたえた。
 聞かなければよかった。唾をひとつ飲み込む。この時間が終わってしまうのではないかと内心慌てて、けれど声色だけは平静を装って、言った。「そう。目的のない夜の散歩なんて最高ね」

 そうだろう、なんて返事が返ってきたけれど、まったくもって彼らしくはなかった。別れ話でもされるみたいだ──と心のなかでひとりごちる。彼の革靴に視線を落とした。付き合ってもないのに、ばかげている。

 指さきがつめたくて、カバンを持つ手に力が入る。息でもかけて温めたかったけれど、わたしが寒がっているのを彼が知れば解散になるかもしれないと思った。

 やけに車の流れがおそい。不自然に思えるほど、みなスピードを落としていた。じっと目をこらす。街灯に照らされた車道は薄いガラス板をかけられたように、ささやかに光っていた。今朝の雨がかたちを変えて、そこにあった。

「……明るい。雪の影響か?」

 長らく続いた沈黙を破ったのは、虫太郎さんだった。
 時計を見ると十時を回っていた。彼の言う通り、こんな時間からは考えられないほど、空が明るい。うんと薄めた紫が、延々とつづいている。星も月も雲もない。この時期に、こんな時間に外を出歩いたことも、窓の外を見たこともなかったから、気が付かなかった。

「降るって言ってたもんね。ちょうど今ごろ。見れるかな」
「君は、」彼は一瞬だけ眉をひそめて、それから、表情をゆるめた。「いや、なんでもない。帰るまでに見れるといいが、……」

 なんとなく、彼の言いたいことはわかった。君はもう大人なのに、そんなに雪に興味があるのか。自分で思っているより、わたしは楽しそうに見えたのだと思う。

「北海道とか行けば、きっとたくさん見られるんだろうな」
「行きたいのか」
「言ってみただけだよ。でも、まあ、虫太郎さんとなら行きたいかも」

 なんてね、と付け足すつもりだったのに、虫太郎さんがまっすぐわたしを見つめていて、何も言えなくなった。ちょうど信号が赤で立ち止まっていたから、逃げられなかった。

「……そうか」

 静寂。ボタンを押したわたしたちのためだけに車が止まる。しばらくして、しびれを切らした左折車がすぐ前を横切った。

「虫太郎さんは」行きたいとことかないの。喉もとまで出かかって、戻す。「やっぱり、なんでもない」

 青信号が点滅しはじめたので、ふたりして早歩きで渡る。
 最後の白線を踏んだとき、片足が意図せず氷の上を滑った。転ぶ、と思うよりもはやく、虫太郎さんがわたしの腕をつかむ。目を瞬いているうち、歩道へ手を引いてくれる。

「……ありがとう。びっくりした」
「君は本当に危なっかしいな。凍っているのは見えただろう」
「ちゃんと気をつけてたよ、結果はああなったけど」

 街で買ったショートブーツの裏には滑り止めなんてついているはずもなく、そこそこヒールも高かった。普通に歩くぶんにはなんら問題はないけれど、凍った道を行くには心許なさすぎる。けれど。「虫太郎さんに会うから、かわいい靴で来たのに」

 はっとして、手の甲を口に当てた。でももう遅かった。飲みすぎたからか、今日は余計なことばかり言ってしまう。

「……なんてね」とりあえず取り繕ったけれど、状況はさほど良くならなかった。冬特有の清澄な風に、鼻の奥がつんとする。

「わたし、そろそろ帰ろうかな。散歩楽しかったけど、寒いし。虫太郎さん風邪引いたらこまっちゃうから」
「さ、さっきのは、その……」
「怒ってるとかじゃないよ。ほんとうに」

 飲みすぎちゃったし、と、続けた。これは本当のことだ。
「本の感想、言えてよかったし聞けてよかった。まだ、聞き足りないし話し足りないけど」

 カフェでは充分話したと思ったのに、ここで別れると決めたとたん、言い損ねたことがたくさん溢れてくるような気がした。「また今度、今日みたいに」
「今度ではなく、今では駄目か」

 ひとけの少ない夜道で、虫太郎さんの声はよく響いた。

「今?」
「私の家で、話さないか」

 虫太郎さんの、家。想像したこともなかった。
 彼の好みやこだわりは大体理解しているつもりだけれど、彼自身のことを深く聞いたことはなかった。出会ったばかりの頃それとなく質問して、はぐらかされてからは一度も。だから、彼の生活に関わることは想像もしないようにしていた、の方がただしい。

「どこにあるの、ていうかわたし、行っていいの」

 断ったほうがいいのだろうか。わたしたちは恋人同士でもないし、虫太郎さんに限ってわたしに何かしようとしているとは思えないけれど、それでも。

「構わん。そもそも私が君を誘っただろう」

 ブーツの底が地面に擦れて、小さく音を立てた。虫太郎さんはなにかを逡巡するような顔をしていた。

「私の家は、……そこの角を曲がって、少し行ったところだ」
「そんな近くなの」

 虫太郎さんを置いて、ゆっくりと歩き出す。行かないにしても、どんなところで過ごしているのか外観だけでも見たかった。

「いや、その、決して君を連れ込もうなどとは、……たまたま歩いていたら近くまで来てしまったから、」
「虫太郎さんがそんな器用なことできると思ってないよ。全然、疑ってない」

 カフェから、ひと駅ぶんくらいは歩いてきたはずだ。わたしは道順なんて気にしないし、虫太郎さんも時折考えごとをしながら、なんとなく歩いているふうだった。さすがにここまで近くなれば意識はしただろうけれど、わたしが帰ると言い出さなければ、きっと誘われもしなかった。

「そもそもわたしたち、友だちだし」

 自分に言い聞かせるように言った。何にも考えずに男のひとの家にあがりこむ、うまい口実になるといいと思った。

「……そうだ」



 ──私と君は友人だからな。

 虫太郎さんの声が、たった今起きたことのように鮮明に思い出される。あのあと、虫太郎さんの家でまた少しだけ飲み直した。それでもわたしたちの間に流れていた微妙な空気は見事に霧散して、最後まで本の話ばかりしていた。どんなふうに眠りに落ちたのかは覚えていない。

 静かに、一本ずつ指をはなす。手をつないでいたわけではないから、そんなに難しいことではなかった。同じようにして、おもむろに身体を起こす。虫太郎さんが起きているかの確認は、何だかこわくてできなかった。

 鞄から化粧ポーチを取りだして、洗面所へ向かう。願わくば彼が起きる前に帰りたかったけれど、そんなふうにして帰ったらもう友だちには戻れない気がした。後ろめたいことの証明みたいだ。

 崩れていたところを最低限手直しして、髪の毛を手櫛で梳かす。リビングから物音がして、息を飲んだ。深呼吸をして、彼のもとへと戻る。

「おはよう。昨日そのまま寝ちゃったみたいで、ごめんなさい」

 わたしと彼の家は、少し高くはつくけれど、タクシーで帰れる距離にあった。だから遅くに誘われたって、ついてきたのだ。

「いや、私のほうこそすまなかった」寝起きの虫太郎さんは、昨日よりずっと色っぽくみえた。声も少しかすれていた。「まさか二人して寝てしまうとはな」
「ほんとうに。でも楽しかった」

 やっぱり、友だちでいよう。虫太郎さんの柔らかな笑みをみて、そう心に決める。

「洗面所、借りてもいい? さっきも勝手に使っちゃってたけど」
「ああ、構わん」

 虫太郎さんは不思議そうにしながらも、返事をくれる。
 髪を結ぶ。ポーチからクレンジングをだして、勢いよく顔に塗った。さっき必死ではたいた粉も、昨日の夕方一本ずつ丁寧に伸ばしたまつ毛の黒も、すべて溶けていく。

 携帯していた歯ブラシで歯磨きをして、髪をもう一度整えた。服以外は、まっさらな、家に居るときと同じ自分だった。

「これで大分落ち着いた。虫太郎さんは、見慣れなくて落ち着かないかもしれないけれど」
 ポーチを鞄にしまいながら、何の気なしに言う。
「何が見慣れないんだ?」

 虫太郎さんはソファに座ったまま、わたしをまじまじと見つめている。

「いや、わたし。化粧落としたところなんて見たことないでしょう」
「さほど変わらん」
「変わるよ」

 軽く言い争っているうち、彼は立ち上がって、洗面所のほうへと行ってしまった。やがて水の流れる音がして、彼も支度を始めたのだとわかった。髪が乱れているのは珍しいから、出来たらそのままにして欲しいのだけれど、きっときっちり揃えてから戻ってくるだろう。櫛で綺麗にわけられた前髪は、彼の几帳面さだとか底にある真面目さだとかを想起させられて好きだった。ある種神経質そうにみえるところさえも。

 テーブルからわたしが渡した方の本を取ろうとして、手を止める。先程とは打って変わって、外が明るい気がしたからだ。そっと、カーテンの内側にもぐりこむ。

「あれ、」

 白い。昨日歩いた道も、街灯の笠も、電線も。立ち並ぶ住宅の屋根にも、ガトーショコラにふりかけられた粉砂糖みたいにふんわりとした雪が積もっている。
 後ろで虫太郎さんが戻ってくる足音がした。

「虫太郎さん、みて」
「何をしている。カーテンを開ければいいだろう」

 すこし呆れた声だったけれど、そこには冷たさなんて微塵も感じられなかった。

「降ったのか」
「多分、夜に。雪は音がしないから、気づかなかった」

 振り向けば想像通り、彼の髪はきちんとセットされていた。可笑しくなって、笑みが洩れる。

「ほら、はやく入って」

 虫太郎さんは言われるがままカーテンを捲って、窓とレースの間に入る。思いのほか距離が近い。わたしの後ろから眺めるものだから、背中があつかった。

「……近い」

 てっきり引いてくれると思ったのに、虫太郎さんは全然退けてくれない。

「昨日、言い損ねたことがある」

 耳のすぐ近くで彼の声がして、わたしは内心飛び上がりそうだった。

「最初の予定では、レストランで、……変更して、カフェで」彼らしくない、ひとつずつ言葉を探るような、そんな話し方だった。「慣れない散歩にも誘ってみたが、それでも言えなかった」

 昨日のことを思い返す。歩かないか誘われた時は上機嫌に見えたけれど、あれはなにかを誤魔化していたのかもしれない。

「勿論君を家に連れてくるつもりもなかったが、……帰られたら、困ると思った」
「そんなに重大なことなの」自然と、足の指に力が入っていた。「……友だちやめるとか」

 やっぱり、家に着いてきたのが良くなかったのかもしれない。あのときすぐに帰っていれば。目の周りに熱が集まる。窓の外がぼやける。

「いや、わたし、昨日はちょっと変なことも言っちゃったけど」
「……私の恋人になってくれないか」

 一瞬考えて、けれど理解が追いつかなかった。その場に座り込む。虫太郎さんがわたしをよけてくれたのがわかる。カーテンがあいて、わたしは現実に放り出されてしまったような心地になった。

「友だちで居ようって思って、化粧も落としたのに」
「な、……それは、君の都合だろう」彼がしゃがんで、わたしと目線を合わせる。「それに、さっきも言ったがそんなに変わらん」

 多分新調したのであろう糊付きのシャツに、寝たときのシワがよっていた。ぜんぜん彼らしくなくて、けれどこれはわたしがいちばん見たい彼の姿だった。

「わたしは、虫太郎さんのこと好きだよ」
 言葉にすると、胸がじんわりあつくなった。
「……私も、君が好きだ」

 うつくしい微笑みだった。自然で、なにも繕ってなくて、静かな。虫太郎さんはいつもわたしにやさしかったけれど、それでも、はじめて向けられた表情のようだった。

 そのまま数秒見つめあって、わたしから視線を逸らした。こういうときってハグをしたりキスをしたり、小説やドラマだとそうなるのだろうけれど、わたしたちはあまりに不慣れだ。気恥ずかしくなって、窓のそとに意識をなげる。あれ、と声が出た。「……降ってる」

 ゆっくりと立ちあがる。
 慎重に窓を開けて、手を伸ばす。

「何故開ける。寒いだろう」

 虫太郎さんが不満そうに、けれどどこか楽しげに言って、わたしのとなりで腰を上げた。

「今度さ、たくさん雪があるところつれてってよ」
「……ああ、わかった」

 また目が合って、今度はおそるおそる彼に近づいた。そのまま彼の腕に閉じこめられる。そっと瞼を下ろした。真新しい風が、部屋を吹き抜ける。




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