遠雷に酔う
夏の夜ほど散歩に適した夜はないのではないか、と思う。昼間に雨が降っているとなお良い。うっすら湿っぽくて、寒すぎず、雲が残っているから星も出ない。
こんな気分の夜にきれいな星空なんて見たら、きっと彼に会いたくなってしまう。そんなのはいやだった。彼に未練がましい女だと思われたくなかった。
うつむくとまだ視界が揺らいで、嫌になる。ひとつ唾を飲み込んで、深呼吸をした。コンビニで水でも買おうかとポケットを探る。そもそも財布を持ってきていないのに気がつく。カバンもカーディガンも、適当に部屋へ放ってきたのを思い出した。
眉間に寄ったシワを指で伸ばして、ぐっと上を向く。また揺らぐ。そのとき、わたしの鼻さきにぽたりと冷たいものが落ちてきた。
「……さいあく」
子どもっぽい響きを持った独りごとが、ふたたび濡れはじめたコンクリートに吸い込まれる。もちろん傘なんか持っていない。雨は次第に勢いを強め、わたしの服の色を変えていく。
走る気にはなれず、そのままのペースで歩き始める。水を買いに行こうとしていたコンビニが、すぐ先に見えていた。買い物は出来ないけれど、少しのあいだ雨宿りをさせてもらおうと思い立つ。
「……何をしている」
まさにコンビニの目の前、横断歩道の信号が切り替わるのを待っていたときだった。
「虫太郎さんこそ。外いたら危ないよ。雷落ちるよ」
雷、と聞いて、虫太郎さんは一瞬だけ顔をしかめる。けれどすぐさまいつもの──一見冷たそうで、けれど色んな感情が垣間見えるような──顔になる。そうして彼は、わたしの手を躊躇なく掴んだ。視界が薄暗くなって、わたしのまわりだけ雨が止む。量は多くないけれど、ばちばちと叩きつけるような音がした。
彼に会えるならきちんと傘を持ってくればよかったと思った。そうすれば、もっと、……。考えるのをやめて、もう一度彼を見る。端正な顔立ちもきっちり分けられた前髪もこちらを見つめるまっすぐなひとみも、二ヶ月前となにも変わっていない。
さっきまでの酔いはどこかへ消え去ってしまっていた。掴まれっぱなしだった手を、しずかに振りほどく。虫太郎さんの傘は、今年の彼の誕生日にわたしが贈ったものだった。
「天気予報は見なかったのか」
「あんまり。でも、さっきまではちゃんと折りたたみの傘持ってたんだよ」
仕事のあと、飲み会までの天気は気にしていたのだ。そのあとは寝るだけだからと、特に見もしなかった。ひとりなのだから、もう雷の苦手な彼のとくべつではないのだから、そんなことどうでも良かったのだ。
「今は持ってないだろう、なにも」
傘にぼんやり青が映る。ひとの歩く音と、若い男女の話し声がした。雨やばいね、早く帰ろ。DVDでも見ようか。そうしよう。二人がわたしたちの側から過ぎ去るのを待って、ようやく返事をする。
「うん。何も持たないほうが楽しいかと思って」
ささやくような声になった。傘のなかではよく響くから、虫太郎さんにはきちんと届いたみたいだった。
「酒でも飲んだのか」
「少しだけ。虫太郎さんの顔みたら酔いさめちゃった」
「それは、……悪かった」
「別に会いたくなかったとかじゃないよ。むしろこんな、雷落ちそうな夜に会えてよかったよ」
こんな言い方をして、わたしは案外自分が思うよりずるいのかもしれない。雨が止むまで、雷が去るまで、一緒に居るみたいだ。
「……家まで送る」
「ありがとう」
ふたたび信号が青になって、白線の上を歩く。傘はわたしのほうに傾いていた。虫太郎さんが濡れるのが嫌で、少しだけ距離を詰める。
「元気にしてた?」
つとめて明るい表情を作る。ぐうぜん会えた友だちみたいな、そんな感覚で居られたらいいと思った。
「ああ」虫太郎さんも無理して笑っていた。こんな貼り付けたみたいな、自信のない笑顔は似合わないのに。「何も変わっていない。私は充実している」
それから彼は、休日にどんな風に過ごしているかを教えてくれた。本を読んだり、たまに文章を書いたり、あとは乱歩くんが家に遊びに来たりしている。本当にわたしと居た頃となにも変わらなくて、それがかえって寂しかった。
「そう。良かったね」
「君のほうこそどうなんだ」
街路樹の下を通ると、傘のなかでおおきな音が響いた。溜まっていた水が落ちてきたようだった。
「わたしは、別に」
彼と別れてから、なにも楽しいことなんてなかった。
「別に、とはなんだ」
「別には別にだよ。まあ、人と会う機会が増えたっていうのは、充実してることになるのかな」
具体的には、飲み会に誘われることが増えた。いままで彼と過ごしていたしずかな夜は夢だったのではないかと思うほど、人の多くて騒がしい夜たち。それらのすべてが嫌だったわけではなく、帰る先に彼が居ないのが嫌だった。酔ったとき、いちばんに会いたくなるのが彼なのも。素直に楽しめない自分も、むなしい朝も。
「その割には浮かない顔をしていたが」間髪入れずに、虫太郎さんは続ける。「そもそも、君は出歩くのが好きではないだろう」
「そうだっけ」
虫太郎さんがあまりに真剣な顔で言うものだから、自分のことなのに曖昧な言い方しかできなくなる。本当のわたし。虫太郎さんと居た頃のわたし。
「前に、」彼が不意に言う。頬のあたりに視線を感じる。「前に言っていた、新刊は読んだのか」
靴にだんだん水が侵食してきて、歩く度にぺしゃりと冷たい感覚がする。
「新刊、……ああ、わたしの好きな作家の」
虫太郎さんが一瞬後ずさりかけ、けれどわたしが傘から出るギリギリで戻ってくる。動揺したときの彼の動きは本当におかしくて、少し笑ってしまう。
「まさか読んでいないのか? 君があんなに熱弁するせいで私は……!」
「え、虫太郎さん読んだの」
あんなに毛嫌いしていたミステリなのに。
「べべ別に、君に影響されたわけではない! たまたまそういう気分だっただけだ」
「ふふ、そっか」
気を抜くと泣きそうだった。わっと涙が出るのではなく、ひと粒こぼれ落ちる。そんなふうに。彼を失ってからのわたしはいとも簡単に泣くようになってしまっていた。
「わたしも今度買ってみるよ」
「だったら今買いに行けばいいだろう」
「ええ、今? こんな天気なのに」
らしくないね、と口をついて出た言葉に、虫太郎さんはぐっと眉をしかめる。
「らしくないのは君のほうだ」彼はひとつため息をつく。「二ヶ月も前から楽しみにしていた本を買ってもいないなど、考えられん」
カレンダーには発売日の印をつけておいたし、心の底から楽しみにしていた。きちんと買って、読もうとも思っていた。けれど出来なかったのだ。読書を楽しむことも、本屋へ行くことも。文字はなぞれるのに、気がつくと顔を上げて、考えごとをしてしまう。ひとりで出掛けるとうんと孤独を感じて、買い物なんてしたくなくなる。
「それに、夜の散歩は、……」
虫太郎さんが不意に黙り込む。このあとに続くのは、「私と居るときだけにしろといったはずだ」だ。今の彼にそんなこと、言えるはずがなかった。
「それ、何となく守ってきてたんだよ。けれど今日はどうしてもだめで、でも結局、虫太郎さんが一緒に歩いてくれてるの」
だから許してよ、と笑うと、彼は傷ついたような顔をした。泣きそうにも見えた。
家の前に着く。雨の勢いはつよく、エントランスの床も濡れていた。
「送ってくれてありがと」
「……ああ」
傘から出る。視界がいっきに開けて、わたしは放り出されたような気持ちになる。なんとかして、少しでも長く彼と一緒にいたいと思ってしまう。
「うちで雨やどりしていく?」
傘を開いたまま水滴を払っていた彼が、手を止める。
「恋人でもない男を、家にあげるのは」
「だめかなあ」
虫太郎さんは何も言わない。けれど傘を折りたたんで、わたしの隣へ並ぶ。そっと窺うと、ひとみに逡巡の色が見えた。
「……やはり、私についてすべて話すことはできない」
「え、」何のこと、と喉もとまで出かかって、止める。
「君と常に一緒に居ることも、安全に暮らせる保証もない」
彼はまっすぐにわたしを見つめていた。視線がぶつかる。
「しかし、……私は君のことが、」
そのとき、肩が跳ねるほどの轟音が鳴った。わたしは反射的に、一歩踏み出す。彼もまた、いつもそうするみたいにしてわたしを抱きしめる。
「ごめん、いつもの癖」彼の胸に顔をうずめて、言う。「あとね、わたしもまだ好きだよ。虫太郎さんのこと」
背中に回された手に、力が入るのがわかる。ふかく息を吸って、ゆっくりと吐きだした。どこまでも彼の匂いがした。
「……雨やどり、していく?」
「ああ」
明日朝起きたら、彼と一緒に本屋へ行こうと思った。
遠くでまた、雷の音がする。
※タイトルはiccaさまよりお借りしました。