あたらしい春へ




 延々と緑が続いていた。風が吹くたび、それらは波濤のように揺れる。車内はひかりで満ちていた。
 虫太郎さんと一緒にバスに乗るのは今日が初めてだった。電車は前に旅行へ出かけたときに一度だけ。普段は車か徒歩だから、こんな風に横並びで座って長いこと揺られるのは、とても変な感じがした。
 
 そもそも彼が、二時間に一本しかバスがないような田舎に来ていること自体、おかしなことだ。別荘を建てるなら──ほんとうに建てる気なんかなくて、これはわたしが始めたどうでも良いもしも話のひとつだった──海よりも山の方がいい、と言っていたけれど、別にそこまで緑をもとめているわけではないだろうし、今だって全然居心地が良くなさそうな顔をしている。

 聞きなれない停留所の名前が、わたしたちのためだけに繰り返される。ボタンはまだ押さない。目的地まではまだ二十分くらいあるはずだ。

 普段なら彼と居られるだけで、それはたとえば今みたいに移動しているだけでも嬉しくてたまらないのだけれど、今日はそんなことを感じる余裕さえなかった。彼の言い表しようもない気持ちがわたしの全身を覆い尽くして、気を抜くと暗い顔をしそうになる。わたしたちはここへ遊びに来たわけではないのだから、楽しくなくて当然。だけれど当事者ではないわたしまで落ち込んでしまったら、虫太郎さんの存在がうんと遠のくような気がした。つとめて口角をあげて、外を流れる景色やお昼ご飯のこと、それから今朝見かけた猫のことなんかを手当たり次第に話す。虫太郎さんはああとかそうだなとか、いつもと同じなのにどこか違うふうに聞こえる返事をして、また窓の外へ視線を戻した。

 お花や線香の入った紙袋を足もとへ置いて、鞄から本を取り出す。表紙には彼の親友の名前があった。世間を騒がせた最後の作品。賛否両論あったものの結局一冊の本としてまとめられ、つい先日、刊行された。話題性も相まってベストセラーとなったこの本を、たぶん虫太郎さんはまだ読めていない。

 本として世の中に出る前に、わたしは彼と彼の親友のことを聞かせてもらっていた。もちろんすぐにというわけにもいかず、ほんとうのことを全て教えてもらったのは、恋人になってしばらくしてからだった。彼との時間は虫太郎さんの大部分を占めていたし、それはこれからも変わらない。虫太郎さんの過去にはいつも彼が居た。そうして今もふと、会ったこともないヨコミゾさんの影を感じることがある。

 彼の遺した最高傑作。テレビも雑誌も、持ち切りだった。わたしもすぐに買った。けれどとうてい、軽い気持ちでは読めなかった。
 それでも、ふたりで会いに行くと決めたから。わたしは毎夜ひそかにベッドを抜け出し、少しずつ読み進めていた。最終ページに、栞が挟んである。

「……君も、読んでいたのか」
 虫太郎さんが、わたしの手もとを覗き込む。
「なんだか、今を逃したら読めないような気がして」

 夜、気づいてた?と続けると、彼は少し表情を緩めて、短く返事をした。砂利道に入ったのかバスが小刻みに揺れる。肩がぶつかる。すぐになだらかな道へ出たけれど、わたしはそのまま彼のほうへ寄り添う。

「こればかりは、読めずにいたが」ヨコミゾさんのことを話すとき特有の、寂しさと親愛のこもった声色だった。「奴の手前、ずっと読まないわけにもいかないからな」
「うん」
「しかし最後の話は、まだ読めていない」

 彼の白い肌に、睫毛の影がおちる。このひとは時折、古いきずの痛みに耐えるような、泣くのを我慢するような、見ているこちらが苦しくなるような顔をする。彼がこころからしあわせになってくれるなら、わたしの持てるものなんか全部投げ出して、世界なんてどうなってもいい。こんなばかげたことを、けれどわたしは本心から願ってしまう。

「いつか、絶対読める」
「……ああ」

 わたしは本をそっと抱きしめて、またカバンへしまう。静かにひとつ、息を吐いた。どんなに虫太郎さんを想っていても、わたしがかけられる言葉なんてたかが知れている。

 それきり虫太郎さんもわたしも何も言わず、時間だけがすぎていった。錆びた屋根のついたバス停で、学生がふたり乗ってくる。進んでも進んでも、広がるのは青空と緑。柔らかな春の陽射しと青年らの話し声だけが、わたしたちのあいだを埋めていた。


「本当にこっちで合ってるのか?」

 目の前には、背の高い草が周囲を覆い尽くした小道がある。彼は立ち止まって、怪訝な顔をした。数分前にバスを降りてから言葉を発したのは初めてだった。

「多分。もう、そんなに疑うなら虫太郎さんが地図みてよ」

 黙り込んだ彼を見て、感傷に浸りたい気分なのかもしれない、と思った。だから道を見失いつつも、声をかけずにいたのだ。

「常々思うが、……君はよくも調べずに歩けるものだな」

 わたしから地図を受け取った虫太郎さんは、それを逆さまにして読み始める。どうやら根本から間違っていたらしい。
 ふたりで散歩に出かけたって、いつもこの調子だった。わたしが適当に進んでいって、虫太郎さんが立ち止まる。

「間違えてもどうせ、虫太郎さんが修正してくれるもの。だったら気にせず歩いたほうが楽しい」
「帰って来れなくなったらどうする」

 どうやら逆方向だったらしく、彼は踵を返して進んでいく。歩道はあまり整備されておらず、脇に広がる畑との間には高い段差がついていた。虫太郎さんは逡巡するような仕草──口もとに手を当て、左ななめ下を見る。わたしはこの顔を見るのが好きだ──のあとで、遠慮がちにわたしの手をとる。

「わたし一人なら、迎えに来てくれるの待ってるし」手を繋いでくれたことが嬉しくて、つい明るい声色になる。「虫太郎さんと一緒なら帰れなくなってもいいよ」
「ここで言われると冗談に聞こえない」
 虫太郎さんがふっと笑う。
「……たしかに」

 わたしたちの住む街から比べると、車通りはおそろしいくらいに少ない。それに、大きな家の前で農家と思しきひとたちが話し込んでいる以外は、誰も見かけなかった。
 しばらく彼の先導で歩いていくと、看板があった。坂になった砂利道が、木々の生い茂る奥へと続いている。車が一台、わたしたちの前を通って行った。

「着いた?」
「ああ。ここだな」

 虫太郎さんは地図をわたしへ寄越して、それからしずかに手を離す。名残惜しさは不思議と感じなかった。きっと三人で会うときがあったら、こんなふうに手を繋いだまま紹介されたりなんかしなかっただろうから。
 彼のお墓はすぐに見つかった。まだ新しい花束がいくつか置かれ、辺りも手入れが行き届いていた。多分彼の作品のファンが来ていたのだろう。墓は御影石で出来た低い塀のようなもので囲われており、一種の部屋みたくなっている。

 花を飾り、ろうそくに火をつける。わたしは一歩下がって、彼の背中を見ていた。線香の匂いが辺りに漂う。
 口数の多い彼のことだから、とにかく沢山、喋るものだと思っていた。全部話し終えるまでいくらでも待つつもりだったし、そうでなくても彼が満足するまでここに居ようと決めていた。……なのに。

「私はもう、いい」

 虫太郎さんはこちらへ線香を渡して、背を向けた。そのまま石の床へ座り込む。わたしはしずかに火をつけて、網目のなかへ線香の先を沈める。一度、墓石に刻まれた名前を見る。目を閉じて、手を合わせる。

 心のなかで伝えることは来る前から決めていた。まずわたしの名前。虫太郎さんと恋びと同士だということ。色々聞いていること。虫太郎さんとは関係なく、わたし自身がヨコミゾさんの作品を好きなこと。ここへ来るまでにいろいろな葛藤があったこと。虫太郎さんが今しあわせかどうかがわからないこと。

 ふいに、涙が頬を伝った。はっとして目を開ける。反対を向いているから、虫太郎さんには気づかれていない。けれど、時間の問題だと思った。涙は次から次へとあふれ、化粧を落としていく。

 わたしの世界にはもうずっと虫太郎さんしかいない。けれど、虫太郎さんのことを考えれば考えるほど、身体の真んなかがぎゅっと締め付けられるような、そんな寂しさにおそわれる。孤独でいっぱいになって、けれどもっと悲しいのは虫太郎さんなのだから、と追いやって。そんな日々だった。わたしは、彼の親友にそのことを聞いて欲しかった。

「……どうかしたのか?」

 なかなか動かないわたしに、虫太郎さんが声をかけてくれる。返そうにも声にならなくて、そのまましゃがみこむ。

「大丈夫か、……な、何故泣いている」
 わたしの顔を覗き込んだ虫太郎さんが、ぎょっとして両肩をつかんでくる。
「なんでもない。ごめんなさい」

 言う間にも、新しい涙が零れる。虫太郎さんは何も言わない。すべてが滲んで、顔はよく見えなかった。床へ座り込むかたちになったわたしを、虫太郎さんがそっと引き寄せる。

 彼にこんなことをさせたかったわけじゃない。
 もう一度謝ろうとして、止める。わたしを抱きしめる手が、肩が、震えていた。わたしは彼の背中へ腕を回して、少しだけ力を込める。数センチの距離がなくなって、彼の体温が伝わってくる。

 わたしも虫太郎さんも、それからは堰を切ったように話し出した。学生時代の本当に些細な出来ごとだとか、あるいはヨコミゾさんが亡くなってから今までに経験した壮絶な逃走劇だとか。わたしと虫太郎さんの出会いについても、虫太郎さんは説明した。まるで三人で居るみたいに照れながら、笑って。

「……長居しすぎたな。そろそろ帰ろう」
「そうだね」

 短くなったろうそくの火を消して、ゆっくりと立ち上がる。虫太郎さんもわたしも、もう悲しくなんてなかった。

「──ヨコミゾ。見ろ、私は幸福だ」
 虫太郎さんが、独りごとのように言うのが聞こえる。
「こうしてお前に会いに来ることも出来た。……だから安心しろ」

 聞こえなかったふりをして、わたしは先に歩きだした。来たときよりも強くなった陽の光が、眩しい。
 また来ます。虫太郎さんと一緒に、かならず。わたしも、そっと呟く。
 わたしに追いついた彼は、荷物を持つのを代わってくれた。空いた手をそのまま掴まれる。

「帰りのバスは、何時だったか」
「いちばん近いのはさっき行っちゃった。次は二時間後」
「な!? に、二時間後だと?」虫太郎さんのひとみが大きく見開かれる。「くっ、ヨコミゾめ……」
 わたしは思わず笑ってしまう。「虫太郎さんが勝手に話し込んだだけ」
「そ、それはそうかもしれないが……」
「歩いていけばなんかあるよ」
 わたしは子どもがするみたいに、繋いだ手を揺らす。
「君は本当に、……まあいい、歩こう」
「うん」

 わたしたちの間を、やわらかな風が吹き抜けた。胸いっぱいに、新しい空気を吸い込む。清らかな、あたらしい春の匂い。虫太郎さんと目が合って、どちらからともなく微笑みあった。

 土を踏む音、鳥の鳴き声。すべてがはっきりと聞こえる。どうか見守っていて、と願いながら、わたしは彼のとなりを進んでいく。






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