秘密はキスの中




 いつものように並んで歩いて、いつものように星を見ていたときだった。公園をまっすぐ進んだらわたしの家。右に曲がれば乱歩の帰り道。もう何年も、こうしてふたりで帰っている。

 ここでわかれる、と明確に決めているわけではない。話が盛り上がっていればもう少し先まで歩いたりもするし、乱歩は気まぐれにわたしの家に寄ったりもする。けれどどんな場合でも大体は公園の真ん中くらいで立ち止まって、空を見るのが習慣だった。わたしが星や雲を追っているあいだ乱歩がどうしているかは知らない。一度だって置いていかれたことも、急かされたこともなかった。五分にも満たない、でも確かに毎日繰り返される、しずかで心地よい時間。

 そんなときに、事は起きた。
 となりで小さく靴音が聞こえた。月が隠れる。まばたきをする。そうして瞼をあげたとき、乱歩との距離はゼロになっていた。くちびるが離れて目が合っても、彼は何も言わない。

「……乱歩」

 突然なに、とか、どうしたの、とか。わたしの口からは何も出てこない。唯一こぼれおちた彼の名前も、呼びかけというよりささやきに近かった。

 徐々に事態を理解して、頬に熱が集まってくる。冷静になど居られるはずがなかった。乱歩が、わたしにキスをするなんて。どんな顔をすれば良いのかも、何を言えば彼の意図を教えて貰えるのかも分からない。出会ってからいままでずっと、わたしたちのあいだにはそういう、男女の雰囲気なんてものは存在しなかったのだ。

 乱歩はわたしにとって、なんでも許してしまえる可愛い弟のような、けれどふとしたとき、一番に頼りたくなるような、この世でもっとも近しいひとだった。男のひととしてどう思うかなんて、考えたこともない。

「……じゃあ、僕帰るから」
「そっか。ま、また明日」

 乱歩があまりにもいつも通りにするものだから、条件反射で返してしまった。驚くひまも、引き止める隙もなかった。
 帰ろうにも、足が動かない。そのまま乱歩の後ろ姿をじっと見ていた。あんなことがあったのに、何もかもが普段と同じで頭が混乱する。

 数十メートル離れたところで、乱歩が立ち止まった。かなり遠くて、表情は見えない。何か言っているようだけれどわたしのところまでは届かず、乱歩もそれをわかって話しているようだった。お互いに近づいたりはしない。走っていけばすぐの距離だけれど、そうすることはかなわなかった。そんな勇気はなかった。

 何を伝えられたのか理解できないまま、ちいさく手を振る。乱歩は何も答えずにまた踵を返して、今度はさっさと行ってしまった。視界から彼が消えた途端に、あたりの静けさが際立つ。月もいっそう大きく見えた。

 その場にしゃがみこんで、深くため息を吐く。とんでもないことになってしまった。なにより先に、社長の、福沢さんの顔が浮かんだ。それから、出会った頃の無邪気で幼い乱歩の顔。嬉しいときも、悲しいときも、どんなときの彼でも想像することが出来る。そのくらい一緒に居た。彼を見ていた。

 つま先にグッと力を入れて、思い切り立ち上がる。誰もいないのを確認して、全身で伸びをする。肩の力を抜いて、歩き出す。

 家に着くなりまず浴槽にお湯を溜め、お風呂に入った。普段はもったいないから半身浴程度の深さにするのだけれど、今日は肩まで余裕で入れるくらいまでにしてみる。それから、子どもみたいに髪まで浸した。耳のなかまで温まって、水の音しかしなくなる。顔だけ出してお風呂に浮かんでいると、ただよう空気と一体化したような、自分の境界線が無くなるような気持ちになってくる。

「素敵な恋に 2人でのぼせてみたいのよ」

 気づけば歌を口ずさんでいた。身体のほとんどが水で満たされているからか、ずいぶんと遠くで聴こえる。昔、社長の家で留守番をしていたときにラジオで聴いた、懐かしい歌だった。そのときのわたしは歌詞の意味もわからず、メロディーだけを気に入っていたのだ。
 指さきはふやけて、細かなシワが浮いている。勢いをつけて湯船からあがると、ふわりと目眩がした。長湯しすぎた。ペディキュアに乗った水滴が、床へすべり落ちる。

『見せてあげるよ 裸足のトキメキを』
 歌詞の続きを思い浮かべながら、鼻歌をうたう。
 わたしは、乱歩のことが好きなのだろうか。
 

 乱歩と出会ったのは、彼が"皆の乱歩さん"なんかではなく、ただの少年だった頃だ。

「僕の名前は江戸川乱歩。世界一の名探偵!」

 たしかこんな感じで、自己紹介されたはずだ。よく通る声と自信に満ちた表情、それから名探偵、なんて言葉に面食らってしまって、何も言えなくなった記憶がある。それもそうだ。あのときのわたしは、思ったことを口に出せず、ただぼんやり辺りを眺めているような、そんな子どもだったから。意識しないうちに自分の内側に籠って、考えて、だから意見も思うこともきちんとあるはずなのに、何一つ言葉として発されることはない。

 彼にとってはそんなわたしが周りの大人とは違う風に見え、単純に楽だったのかもしれないけれど──それでも結果として、乱歩との出会いはわたしをすっかり変えてしまった。朝起きるときもご飯を食べるときも、そして名探偵として事件を解決するときも、いつだって一緒に居た。

 彼はどこまでも軽やかに、外へ連れ出してくれる。ふたりとも大人になった今でも、それは変わらなかった。乱歩と居れば何だって出来る気がするし、どこへだって行かれる気がする。そしてそこには、かつて彼が恐れ、理解出来ずに苦しんだ大人の世界もない。

「君ってほんと変」

 ある日突然、こんなことを言われたこともある。
 彼は、「まあそこが面白いんだけどね」なんて続けて笑って、それ以降は理由も意味も、教えてくれることはなかったのだけれど。

 きっとその場に福沢さんが居たら、多少はフォローが入ったように思う(どんな風にかは想像がつかないけれど)。わたしの頭のなかでは乱歩の声が再生され、過去に起きたさまざまなことが蘇り、また乱歩の声、というように、しばらくは何をしていても彼の言葉が浮かんでいた。最初のうちは乱歩に面白いと思って貰えているならそれでいいか、なんて解決しようとしていたのだけれど、後になってから、自分のなかで確かに腑に落ちる感覚があった。変わっているのだということを自覚したほうが、ずっと楽だった。きっと出会ったそのときから、乱歩はもしかするとわたし自身よりも、わたしのことを芯から理解していた。

 ──わたしのほうはどうなのだろう。彼に近づけていた気がするだけで、本当のところはなにひとつ分かっていなかったのではないか。……いや、違う。ついさっきまでは確かに、乱歩のことなら何だってわかる、とまで思っていたのだ。
 彼はどうして、キスなんてしたのだろう。


 髪を乾かし終えて、水の入ったペットボトルの蓋を開ける。乱歩はお風呂上がりにも甘いものを飲むけれど、わたしからするとそれは考えられないことだった。ラムネを勢いよく飲める、というのは、最早一種の才能だと思う。たまに自分用に買ってみたりもするけれど、あんなふうに喉に流し込むことは到底かなわなかった。炭酸が喉につっかえて咳き込んだりしているところなど、一度だって見たことはない。お菓子を食べ続けても頭が痛くならないところも、わたしとは全然違う。食べ物の好みだけではない。朝起きる時間も休日の過ごしかたも、好きな本も嫌いな季節もなにもかも。

 ……そういえば、好きなひとの話はしたことがない。どんなひとを素敵に思うのか、とか、実際に恋びとになりたいひとが居るのかどうか、とか。わたしたちの関係が色恋とはかけはなれたものだからとばかり決めつけていたけれど、もし乱歩が意図的に避けていたなら、わたしはそれに気がつくことすらなく今に至るということになる。

 探偵社の女の子たちとはいつも恋の話題で盛りあがっているのだから、いくらでもタイミングはあったはずなのに。

「……でもまあ、告白されたわけじゃあるまいし」

 呟くように独りごちる。ソファに身体を預けて、部屋の中心にある大きな窓を眺めた。家具や観葉植物、それから化粧をしていない、無防備なわたしが反射して映る。カーテンを閉めようと立ち上がると、外に居たときよりも近くに月が浮かんでいた。辺りの空も色が濃くなって、ところどころ薄い雲で覆われている。すきまにはちいさな星が瞬いていた。

 なんとなく、下へ視線を落とす。マンションの駐車場には、見慣れた車たちが数台並んでいる。街灯がスポットライトのように伸び、まるく地面を照らしていた。

「……え」

 こんな時間に、こんなところに、乱歩がいるはずなんてない。信じられない思いのなか、わたしはしずかに窓を開ける。冷えきった夜風が、あっという間に部屋を占領する。

「乱歩」
 聞こえるはずのない音量で、彼を呼ぶ。ここは三階なのだ。届くはずがない。
「なにしてるのさ。早く降りてきて!」

 乱歩はしっかりとわたしを見て、それからよく通る声で叫んだ。近所迷惑! と、ほとんど声を出さずに返してみる。わたしはなんだか可笑しくなって、笑みを洩らした。聞こえなくても、彼にはすべて伝わる。わたしは喋る必要なんてなかった。

 窓を閉めて、部屋着の上にカーディガンを羽織る。足取りが軽い。会いに来てくれた乱歩を見たときからずっと、初めて感じるにぶい痛みが渦巻いていた。そうしてこの正体を、わたしは既に知ってしまっている。
 ──恋。わたしは乱歩に、恋をしている。


 階段を駆けおりて、廊下で呼吸を整える。こんなことをしたって乱歩には全てお見通しなのだけれど、それでも息を切らしたまま行くのは憚られた。わたしの気持ちなんてとっくにバレているだろうに、今更何をやっているのだろうと思う。

「どうしたの、突然」

 乱歩はいつもの探偵服ではなく、フードのついたパーカーに、黒のズボンといった格好をしていた。一旦家に帰ったのは明白だった。

「君に会いたくなったからだけど?」

 乱歩は軽く首を傾げて、なんでもないことのように言う。こんな夜に、会いたくなった、なんて。まるで恋びとに向けた台詞みたいだ。

「そんなの、好きな人にしか言ったらダメだと思う」
「ハア? 何言ってんの?」乱歩は眉をひそめて、不興げにため息をついた。「僕はずっと君しか見てない」

 え、とちいさく声がもれる。そんなの、知らなかった。彼の世界の一部であれたら、それで良かったのだから。隣にいる彼がどんなふうにわたしを見ているかなんて、考えもしなかった。

「今日のは、……僕も軽率だったかもしれないけど。でもさ、君があんまりにも鈍いから」

 翠のひとみが伏せられる。昔を思い出すような、どこか翳のある笑みだった。きゅっと胸が締めつけられる。

「ごめん」ずっとそうだった。彼はわたし自身の分からないところまで、なんでも教えてくれた。「でもわたし、ちゃんと気づいた」
「……うん」

 彼はしずかに相槌を打って、顔を上げる。わたしは無意識に乱歩を見つめていた。すぐに目が合う。

「わたしも、乱歩に会いたかった」
「君のことなんて、僕には全部お見通しだよ」
「……ふふ、さすが名探偵」

 すこし沈黙があって、それからふたりで笑いあう。こうしていると、昔に戻ったみたいだった。彼のことならなんでも理解できるような気がした。
 乱歩がわたしを引き寄せて、また、月が隠れる。視線がぶつかる。

「……乱歩、」

 彼はそっとわたしに触れて、微笑む。初めて見る、男のひとの顔だった。今ならわかる。帰り道に、彼がどんなふうにわたしを待っていたのか。
 乱歩はわたしの頬に手を添えて、もう一度視線を合わせた。ずっと底まで澄んだエメラルドは、夜に溶けずに光をまとっている。真んなかに、わたしだけが映っていた。

「……好きだ」

 身体中に、彼の声だけが響く。わたしは答える代わりに、ゆっくりと目を瞑る。







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