ハッピーバレンタイン!2023




 こんな時間だというのに、街はにぎやかだった。ただ歩いているだけで人とぶつかりそうになる。去年は意識すらしていなかったイベントだというのに、いざ自分が当事者となると、すれ違う女の子たちに親近感すら湧いてくる。

 虫太郎さんは嫌がるかもしれないと思って、待ち合わせ場所は駅からすこしだけ離れた場所にしておいた。そのほうが落ち着いて話せると思ったし、わたしは静かな夜に彼の声を聞くのが好きだった。

 彼とは週に一回くらい一緒にご飯を食べる。それからどちらかの家へ行って、次の日に響かない程度にお話をする。わたしたちの間に男女の関係なんてものは存在しない。彼にとってはそれが心地よかったのだろうし、わたしは彼と居られるなら何でも良かった。

 今日はもともと約束していたわけではない。メールをするか直前まで迷って、それを友人に話したら勝手に送信ボタンを押されてしまったのだ。今日の夜お時間ありますか、なんて急な誘い、わたしは人生で一度もしたことがなかった。虫太郎さんに対しても、他の人に対しても。

 だから今日は、プレゼントを渡してすぐに帰るつもりだ。もちろん想いなんて伝えないし、なにか聞かれたら適当に理由をつければいい。仕事終わりで疲れているのは明白だし、虫太郎さんとは家の方向が全然違うから、一緒に歩く時間も短いはずだ。わたしはとにかく彼の負担になりたくなかった。たまにメールをして、ご飯を食べて、なにか嬉しいことがあれば分け合って、素敵な本を共有して──そうして良い友人として生きていければ、それで良かった。

 彼がバレンタインをどう思っているのかも、甘いものが好きなのかも分からない。結局、スーツに合う色のハンカチを選んで、それから甘さ控えめの小さなチョコレートを買い足した。

 ショーウィンドウに映る自分は、自信のない、不安だらけの顔をしている。ひとつ息を吐いて、前髪の具合やコートのシワを確認した。肩から鞄がすべり落ちる。元の位置にかけ直して、また歩き出す。


 道を一本外れただけですっかり雰囲気が変わるのに、どうして皆遠回りをしないんだろう。こんなに冬の匂いがするのに、こんなに深い青は他にはないのに。広くなった空を眺めて、わたしは手を擦り合わせた。吐く息が白い。

 最初のころ、寄り道や目的のない散歩をすることを、虫太郎さんは全然理解してくれなかった。意味がわからん、なんて一蹴されたような気がする。だからこうして遠回りをする癖だって、言い出すことも出来なかった。移動するときだって早足だったし、周りなんて全然見ていなかったように思う。けれど一緒に過ごす時間が長くなって、話したいことが溢れるようになってからは、わたしの癖はふたりの癖へと変わっていった。

 こちらへ歩いてくる人影が見えて、紙袋を持つ手に力がはいる。つめたい風が髪の毛を揺らした。

「虫太郎さん、こんばんは」声がすこし震える。「急に呼び出しちゃって、ごめんなさい」
「仕事場からそのまま来たから問題は無い。何かあったのか」

 自分から連絡したはずなのに、いざ彼を目の前にすると変な感じがした。こんな時間に彼と外で会うのは初めてだ。

「何かっていうか、その、……」

 すぐに帰ろうと思っていたのに、いざ彼の顔を見たら言い出せなくなってしまった。鞄の後ろにプレゼントを隠して、俯く。何も無いのに呼び出したほうがずっと変なのに、訂正のことばも見つからなかった。

「少し歩かないか」
「……いいの?」

 仕事で疲れているはずなのに。すぐに帰りたいはずなのに。彼はいつもそうするみたいに隣へ並んで、歩き出す。

「構わん。言いたくなったら言えばいい」

 理由をわかっているのかそうでないのか、彼の表情からは読み取れない。声色も表情もなにもかも、いつも通りだった。

「ありがとう」

 きっと虫太郎さんは、わたしが友だちだから優しくしてくれるのだ。こんなに仲良くなれたこと自体が奇跡みたいなもの──彼とは仕事で出会って、たまたま趣味が合って、ぐうぜん行きつけの本屋が一緒だった。今考えても信じられない──で、それ以上は望むべきでない。それに、最初のころは彼を当日に呼び出すなんて、そして散歩に付き合ってくれるなんて、想像もつかなかったことなのだ。

「今日はバレンタインデー、らしいな。街も騒がしい」
「うん」
「どこもかしこも浮ついた男女ばかりだ。由来から考えればおかしな話だが」

 彼がきちんと認識していたことに、少しだけ驚く。てっきり興味のないものだと思っていた。だからこうして会う約束をしても、気持ちがバレることは無いと考えていたのだ。

「処刑された日だっけ。おそろしいね」
 声に動揺が乗らないように、彼のほうは見ずに返す。
「君は誰かにチョコレートを贈ったことはないのか」
「ない。虫太郎さんは、貰ったことあるの?」
 あったら嫌だな、なんて思いが無意識に浮かんでくるのを、唇の裏をかんで打ち消した。
「あるわけないだろう。君には前も話したが、学生時代の友人はヨコミゾだけだ」
「友だちと好きなひとは違うでしょう? まあ、友チョコって概念もあるけれど」

 彼は眉をひそめて、顎に手をあてる。ヨコミゾさんのことを思い出すとき特有の、決して楽しそうではないのにどこか親愛が滲むような、そんな表情。わたしは彼の話を聞くのが好きだった。

「奴とそんなことをした覚えは無い。……考えるだけで気分が悪いな。ああ、毒入りチョコレートを使ったトリックの話はしたが」
 ふふ、と声が洩れる。「別に、ヨコミゾさんと贈りあってたかは聞いてない」
 いつかの今頃、ふたりがしていた話。虫太郎さんとヨコミゾさんだけの思い出を教えてもらえるのは、いつもたまらなく嬉しかった。「……そのミステリは、読んでみたいけれど」
「そうか? 私にはわからん。奴も結局書かなかったはずだ」
「そうなの。勿体ない」

 そこで話は途切れて、それと同時に、虫太郎さんが足を止める。はっとして辺りを見渡す。わたしの家のすぐ近くだった。横断歩道を渡れば、マンションの駐車場へ着く。

「ごめんなさい。わたし、全然気がつかなかった」
「別に構わん」虫太郎さんの金色のひとみが、ゆるくやわめられる。「元から送っていくつもりだった」

 ここに着くまで、わたしは彼のことしか見ていなかった。季節ごとの空の色とか、星のきらめきとか、そういうのを共有したがったのはわたしなのに。
 信号が青になる。反射的に、歩き出そうとした虫太郎さんの腕を掴む。家の前まで行ってしまったら、渡せないような気がした。

「あの、……あのね、虫太郎さん。これ、受け取って欲しい」
「これは」
 虫太郎さんは、不思議そうに紙袋を見ている。
「その、バレンタインデー、みたいな」
「なっ、バ、バレンタイン……? 私に?」

 彼は思い切り後ずさりをする。ついさっきまでその話をしていたというのに、予想もしていなかったという顔だ。

「日頃のお礼も兼ねてだけれど」
 彼のあまりの焦りように、慌てて付け足す。困らせてしまっては、いけない。「特別な意味は、あんまり無くて」
「……少しはあるということか?」

 なぜ虫太郎さんは、こんな期待させるようなことを言うのだろう。良い友人、だからこそ今まで何も無かったのではなかったのか。

「虫太郎さんが嫌じゃなければ、あるのかも」
「何だそれは」虫太郎さんは眉を下げ、困ったように笑う。
「これからも仲良くしたいから」
「特別な意味があっては、仲良くできないのか?」
 信号はもう一度赤に変わる。車の止まる音がする。
「出来るかもしれないけど、」
「私は好きでもない女の呼び出しには応じない。家にも送らなければ頻繁に会ったりもしない」
 思わず顔を上げて、彼を見る。視線は合わない。
「特別ってこと」
「そうだ」
「夜の散歩もしない?」
「君といるときだけだ」
「……そうなんだ」

 どうしよう。こんなことになるはずではなかった。彼が話したいことを話せるような良い友人で居られたら、それで満足だったはずなのに。

「家、入る? そうだ温かい飲み物とか、」
「私は君が好きだ」

 今度はわたしが後ずさりをする。じゃり、と小さく靴が擦れる。なんとか普段通りを装ったのに、彼は普段通りに戻ってくれないみたいだった。どうしよう。わたしはまた思う。彼が好きで、だからこんな、柄じゃない日にプレゼントなんて渡したかった。けれど、でも。

「わたし、……わたし、虫太郎さんの友だちで居られたらって思ってたのに。なのにどんどん好きになるし、溢れるの。どうしようって」

 この関係が崩れてしまうのが怖かった。けれど彼に言わせてばかりでは、伝えずには、いられない。

「……私も同じだ」

 紙袋を下げた虫太郎さんが、わたしのほうへ歩み寄る。距離はふたたび元通りになった。彼はわたしへ手を伸ばす。しずかに、頬に指が触れる。

「虫太郎さん」
「……す、すまない」

 虫太郎さんはわたしから離れて、視線を下ろす。沈黙が漂う。わたしも彼も、どうしていいかわからなかった。

「やっぱり、もう少し遠回りして帰ろ」
「遠回り、……もう家の前だが」
「横断歩道渡らなければ着かない」
「……そうだな」

 ちいさく笑いあって、どちらからともなく歩き出す。遠くに星が散らばっていた。冬の匂いがする。






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