君の世界を垣間見る



 
 ちいさなひかりに照らされていた文字たちがぼんやりと、けれど確かに鮮明になっていく。わたしははっとして顔を上げた。とっさに時間を確認する。彼が起きてくるにはまだ早い。それでも続きに戻るのはなんとなく気が引けて、読みかけのミステリ小説を閉じる。

 旅行先にはかならず本を一冊もっていくことにしていた。暇な時間が出来たら、とか、眠れなくなってもいいように、とか、理由は色々だ。それと、電気をつけて彼を起こすわけにはいかないから、小さな卓上ライトも。いつもなら彼の前でも読むのだけれど──彼も相当な読書好きなので、移動中はあまり話さずふたりして読み耽ることもある──今回の旅はそうもいかなかった。だからこそ、夜中に目を覚ましてしまったのかもしれない。

 何度も読んだその本は、どうみても古いのが明らかだった。綺麗なままの表紙とは違い、中のページはところどころしおれている。買ったときの二倍くらいの厚さになっていた。本棚から選ぶときに困るから、ブックカバーは保護するだけの透明なものをかけている。タイトルのところを指でそっとなぞって、裏返した。

 静まりかえった部屋は、色まで失っているように思えた。もう一度布団に戻ろうかと片足を踏み出して、止める。忙しい彼を起こしてしまうのは嫌だった。
 小さなテーブルと背もたれつきの椅子二脚、それからおおきな窓と冷蔵庫。ほんの僅かな段差で仕切られた空間に、わたしは取り残されたような気持ちになる。

 硬い素材でできたカーテンの隙間に身体を滑り込ませて、窓を見る。足もとを冷えた空気が漂う。眼下には、山の緑と大きな川があった。こんなに朝早いのに、もう釣りをしている人がいる。近所の人なのだろうか。それとも観光客? どちらにせよ、虫太郎さんが起きてきたら教えてあげようと思った。わたしも彼も外であんなふうに遊んだりはしないから、見ているだけで面白い。それに、清冽な水が上から下にどんどん流されていくのも美しかった。都会のそれとは全然違う、澄んだ景色。

「……もう起きていたのか」
 後ろから、虫太郎さんの声がする。
「なんだか眠れなくて」

 外へ視線を落としたまま、言う。虫太郎さんはカーテンを捲って、わたしのとなりへ並んだ。彼は旅館の浴衣を着ていて、髪もまだ整えられていなかった。起きてすぐわたしのところへ来てくれたのだ。

「私を起こせばよかっただろう」
「そんなこと出来ない」

 彼を見上げれば、彼もまたわたしを見ていた。昨日の夜のことが思い出されて、とっさに目をそらす。こうして朝にふたりで居ることにも、溶けそうなくらい優しいキスにも、それから彼の腕のなかで眠ることにも、わたしは全然慣れることができない。

「……どうかしたのか」
「なんでもない。ちょっとまだ、慣れなくて」
「慣れない?」

 彼がなにかを疑問に思うときの、逡巡しているような、それでいてただ不興げなだけにも見えるような表情が好きだった。

「昨日のこととか、」
「……な、なんだ。そういうことか」

 虫太郎さんはふたりで居るときは案外静かだ。けれど、動揺したり嘘をついたりするとほとんど顔と行動に出てしまう。寝起きだったから──それに、ばらばらに起きてきたからふたりともちゃんと服を着ている──わたしに言われるまでなんとも思わなかったのだろう。今は明らかに意識してしまって、わたしから視線を送ってもまったく目が合わない。

 こうなればなぜだか平気になってしまうのが常だった。わたしとて恋愛経験が多いわけでもなく、本当はキスだったりハグだったりその先だったりをするだけで緊張してしまうのだけれど、虫太郎さんのことを見ていると不思議と落ち着いてくる。自分より大変そうな人を見るとなんだか大丈夫な気がしてくるような、そんな感覚に似ている。

「やっぱり朝は冷えるね。二度寝でもする?」

 窓に背を向けて、カーテンを開ける。朝陽がまっすぐ伸びて、テーブルの上の本がきらきらと照らされた。

「……それは」
 わたしはしずかに本を取って、虫太郎さんに手渡す。
「ごめんなさい。ずっと、言おうとは思ってたんだけど」

 彼は何も言わないまま、表紙を見つめている。
 どんなに気をつけていても、一緒に暮らしている以上いつかはばれてしまう。それにわたしは、きっと──。

「虫太郎さんに出会う前から、わたし、ヨコミゾさんの作品が好きだったの」
「……そう、だったのか」
「うん」

 遠い存在だと思っていた作家が恋びとの親友と知ったときは、ほんとうに驚いた。けれどすぐに好きだと言い出すのも違う気がして、気がつけば知り合ってから数年が経っていた。それでも変わらず虫太郎さんのなかでの彼は最も近しく大切なひとで、それはわたしの抱く単純な憧れとは関係の無いことだった。

「付き合う前にね、言おうと思った時があったんだけれど」たしか、ふたりでご飯を食べに行った帰りだ。「でも、やめた」
「……何故だ」
 虫太郎さんの金色のひとみが、わたしを射抜く。
「本が好きな人にとってのお気に入りの作家は特別で、さらにいちばん好きな本なんてもっと特別でしょう」
 ──自分だけの秘密にしておきたかったの。
 わたしの返答を聞くと、彼は拍子抜けしたように数回瞬きしたあと、ふっと笑みを洩らした。

「これが、わたしの世界でいちばん好きな本。……知ってるのは世界で虫太郎さんだけ」
「そうか。それは光栄だな」

 微笑んでいるようにもいまにも泣き出しそうにも見える表情で、呟くように彼は言った。わたしは彼の手から本を抜いて、テーブルへ戻す。それから、向き直るのが早いか踏み込むのが早いか、わたしは思い切り彼に抱きついた。普段はこんなこと絶対にしない。それでもいまは、目の前の恋びとを抱きしめたくて仕方なかった。この気持ちを、いちばん近くで分かち合いたかった。

「……虫太郎さん」

 やっと背中に手を回してくれた彼は、ぎこちない動作でわたしとの距離をゼロにする。深く息を吸い込むと、どこまでも彼の匂いがした。自分のいる場所が家から遠く離れた旅館だなんて思えないくらい、腕のなかは永遠の安心に満ちていた。

「今度、」わたしの頭に彼の指が触れて、そのままそっと撫でられる。「君のヨコミゾの話も聞かせてくれ」
「……もちろん」

 言ったそばから、溢れるくらいに文章が浮かびあがってくる。何度も読み込んだ大好きなお話たち。情景も、犯人も、トリックも。宝物みたいなそれらをいつか全て虫太郎さんに伝えられたら良い。そして昔ふたりがそうしたようにミステリの話を出来る日がきたら、そんなに素敵なことはない。

 自然と身体がはなれて、どちらからともなくキスをする。瞼のうらに、朝陽がきらめく。






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