混じらない朝に



 眠ろうと瞼を下ろしたとき、携帯が着信音を鳴らした。彼からのメールに違いなく、わたしは慌てて布団から脱出する。深夜二時。おおきく息を吸い込んで、吐きだす。

 ──嫌な知らせじゃありませんように。
 彼からの連絡をずっと待ち望んでいたというのに、わたしはなかなか携帯を開くことが出来なかった。部屋の明かりはつけずに、カーテンの隙間から外を覗く。普段と何も変わらない、真夜中の星空。

 意を決して、ボタンを押す。短い文面で、読み終えるのに数秒もかからなかった。わたしは布団の真ん中あたりで丸まっていたカールを急いで起こし、クローゼットから適当に服を取り出す。すぐに着替え、洗面所で髪を梳かす。コートを羽織って、カールを抱きあげる。肩に登りたがったけれど、今は我慢してもらうしかなかった。きっとわたしは途中で走り出してしまうから、落ちないように防ぐ必要があった。

 ポオさんが帰ってきている。あの家に。
 その事実は、メールを開いた瞬間にわたしの世界を満たしてしまった。
 外を出た途端、その細やかな輝きに驚く。確かにさっきまでは何もかもが、色を失くしていたのに。
 この部屋に閉じ込められたわたしが感じられるのはカールのちいさな体温と、数冊の本だけだった。それだけを頼りに生きていた。けれどあと三十分もすれば、わたしは彼と再会しているのだ。


 街は静まり返っていた。彼がわたしにカールを託して出かけてから数日、まるでなにも起こらなかったみたいに。
 時折足がもつれそうになった。それもそのはず、この数日はずっと家から出ていなかったのだ。買い置きしていた食料でやりすごし、携帯を開いては閉じ、ひたすら彼の本を読んだ。わたしの部屋ではいつも、本を捲る音だけが揺蕩っていた。そうしてときおりカールのブラッシングをして、彼の家で過ごしていたときのことを思い出していた。

 横断歩道で立ち止まる。赤色さえ鮮やかに見えた。冷えた風が首もとを掠める。マフラーを巻いてくれば良かった、と思って、自分の部屋には置いていなかったことに気がつく。よく使うものもお気に入りのものもすべて、ポオさんの家に置いてある。
 信号はなかなか変わらなかった。鼻さきを、カールの頭と背中のあいだ、特にふわふわしたところに埋めてみる。柔らかな毛が肌に触れる。わたしの家の匂いがした。

 寂しかったのはわたしだけではないのだ、とあたりまえのことを再確認して、足を早める。腕のなかで、カールがひと鳴きした。


 ポオさんと夜に散歩をすると、たまに不安になることがあった。よく、海とか桜吹雪にさらわれてしまいそう、なんていうけれど、彼の場合は夜に溶けてしまいそうだから。空気に、空に、色に、馴染みすぎるのだ。

「手を繋いでもいい?」

 こわくなって、普段しないようなことまで頼んだりもした。人の居ないところでなんとなく繋ぐようなことはあるけれど、こうやってわたしから言うことは珍しい。

「……どうしたのであるか」

 真っ黒な外套からゆっくりと手が伸びて、わたしの指に触れる。そのまま一本ずつ絡まって、手のひらが合わさる。

「伝えるようなことでもないんだけど」

 こんなの、ばかばかしい妄想に過ぎない。敢えて口に出すようなことでもない。それでも、彼の前でのわたしはどこまでも素直だった。意識しなくても、言葉がこぼれる。気がつけばわたしは、思ったことをすべて彼に話していた。

「……それで、ちょっと怖くなっちゃって」

 等間隔に置かれた街灯が、ずっと先まで続いている。そのさらに先に、大きな月が浮かんでいた。
「心配しなくても大丈夫である」彼は照れたように笑って、わたしをじっと見つめる。「我輩は、君を置いていったりしない」

 今わたしが言ったことに対しての返答、というより、わたしのどこかに隠れていた本当の不安を打ち消すような、そんな口ぶりだった。普段から感じていたことも全部、きっと見透かされている。いつか帰ってしまうのではないか。危険な目にあって、離れ離れに。彼の中に、わたしとの未来などなかったら。そんなひとではない。けれど。だって。
 それらは知らないうちに手に負えないほど大きくなって、わたしの一部を占領していた。

「……大丈夫である」

 もう一度、彼が言う。繋がった手が引かれる。ふたりとも足を止めた。そっと抱き寄せられ、わたしの視界は夜の色に染る。

 ポオさんの外套みたいな空に、白い息の靄がかかる。あのときの言葉があったから、わたしは今日まで頑張ることができたのだし、これからも支えになるに違いなかった。

 ポオさんはわたしのことならなんでも分かってしまう。彼こそ世界一の名探偵だ、とわたしは思った。歩く音だけが辺りに響いている。寂しくて愛しい夜の底。彼の家までもうすこしだ。



 ただいまとおかえりで迷っているうち、ドアが開く。
 うまくポオさんの顔が見られなくて、わたしはひとまずカールを差し出した。ひさしぶりの再会だというのにカールはいつもどおりポオさんの肩へ乗っただけで、特に大げさに喜ぶことはしなかった。しっぽも普段と同じく、綺麗に首に巻かれている。

 てっきり泣いてしまうものだと覚悟していたのに、いざ彼を目の前にしても涙はでなかった。頭も身体も、情報を飲み込むことが出来ていないような、そんな感覚。ポオさんも何も言わず、いつもそうするみたいにわたしを抱きしめる。まるで軽い買い物から帰ってきたときみたいに。

 結局ただいまもおかえりも言わず、わたしたちは長い口付けをした。目が合う度にまた触れて、はなれる。それが終われば今度はぎゅっと抱きしめられた。彼の匂いがする。わたしとポオさんの間には、少しのすきまもない。

 鳥の鳴き声がする。瞼のうらがぼんやりと明るい。わたしはゆっくりと目を開けた。だんだん意識が浮上してくる。横を向けばすぐ触れる距離にポオさんがいる。
 布団をたぐり寄せて、彼のほうへ身体を寄せる。部屋は澄んだ空気でいっぱいになっていた。窓を開けていなくても、じゅうぶんに鋭い。今日は一週間で最低の気温になるはずだった。天気予報を見ながら「この日までにポオさんが帰ってきたらいいな」とカールに語りかけたことを思い出す。こんな寒い朝にひとりは嫌だから、と。

 カーテンの裾に、朝日で出来た白い縁が沿っている。わたしは彼の頭に手を伸ばした。癖のある彼の髪は、指で伸ばしても真っ直ぐになったりはしない。撫でたり梳かしたりしていると、自然に笑みが洩れた。わたしは彼の家に居て、彼はここに居る。そうして何にも混じることなく、はっきりと輪郭を持っている。

 彼と出会ってからずっと、朝を共に過ごすときがいちばん、一緒にいることを実感できた。それは今も変わらず、むしろ慣れ親しんだ感覚だったのだけれど、気がつけば視界は潤み、あたたかい雫がぼたぼたと枕へ落ちていた。

「……良かった」

 ポオさんが無事で。こうしてふたりで朝を迎えられて。
 本当はこんなひと言で済ませられるような思いではない。それでも、わたしの中にあるのはひたすらに安堵だけだった。
 長い前髪のあいだから、鈍く煌めくひとみがのぞいた。わたしははっとして涙を拭おうとしたけれど、そうすることはかなわなかった。彼が先にわたしの頬に触れたからだ。

「おはよう」

 彼はちいさく言い、柔らかく微笑む。わたしもつられて返すと、掠れて震えた情けない声が出た。ひとつ咳払いをして、彼をまっすぐ見つめる。

「おかえり」

 昨日伝え損ねたことばが、ずっと心にひっかかっていた。他ならぬ今、言うべきだと思った。
 ややあって、彼が口を開く。「……ただいま」

 わたしは心の底から嬉しくなって、彼に短いキスをした。そのまま腕のなかに捕らえられて、身体のすみまでポオさんでいっぱいになる。今日の夜もまた、彼と手を繋いで散歩をしようと思った。朝の寝室は、陽のひかりで溢れている。
 






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