君とちいさな家出を



※過去軸 探偵社設立直前


 朝から雨が降っていた。強くはないけれど、止む様子もない。どんよりと重たい空気が満ちていた。夜は冷えると念押しする天気予報に流され、ふたりして冬用のコートを着込んでいる。

 わたしたちはひとつの傘を共有し、目的地に着くまでさまざまな話をした。最近食べていちばん美味しかった駄菓子の話。この間行ったカフェの看板猫の話。それから、福沢さんの癖について。相合傘の語源について。今日の事件について。

 ふたりで現場に行くのは今日が初めてではなかった。何かあってもすぐ福沢さんが来られるような近場から慣れていき、徐々に色んな場所、色んな内容の事件解決に向かった。
 事前に連絡を済ませてあるとはいえ、子ども二人で赴いてすぐに信頼してもらうことは難しい。乱歩の異能力を知る者や福沢さんの知り合いが居れば話は早いけれど、毎回毎回、そう幸運なわけでもない。けれど最近は警察のなかに顔見知りもできて、何事もなくスムーズに仕事を終えることが増えていた。乱歩の異能力は出会った時から変わらず凄まじいものだったし、わたしはわたしで護衛としての能力を高めたり、年上の人に好かれるような話題や所作を身につけた。すべて武装探偵社設立のためのことだった。

 今日だって、特に大きな出来事があったわけではない。声を荒らげて揉めるだとか、目立つような失敗をしただとか、そういうわけでもない。乱歩は些細なことを気にする性格ではないし、他人が何を思っていようが自分がやりたいことをする。わたしはそれをただ、邪魔しないように見守るだけだ。周囲の人間から何を言われようと、何をされようと関係ない。

「女連れとはいいご身分だね」

 ふたりで現場に行く時は、こんなことをよく言われた。わたしだって、福沢さんが来たほうがいいと思っている。それからふとしたとき、なんでもないことのように肩や腰に触れられる。大抵はしずかに避けて、曖昧に微笑む。

 けっして、ことを荒立ててはならない。探偵社は、今が大事な時期なのだ。それに福沢さんや乱歩、それから晶子ちゃんが経験してきたことに比べれば、取るに足らないことだ。
「あの彼と出来てんの?」今日はかなりしつこいほうだった。「それはないか。お嬢ちゃん色気ないもんなあ」

 周囲の男たちの中で、下品な笑い声が起きる。わたしはまた笑って、乱歩の推理が始まるのを待つ。この声が彼の耳に届いていませんように、と願いながら。

「異能力なんて言うけどよ、そんなのがまかり通るなら俺たちの立場はどうなっちまうんだ」

 誰かが不意に言う。急にトーンが下がって、わたしを囲む空気がすんと冷たくなる。少し俯いて、また笑みを浮かべる。

「君はいいね、そうやって笑っていれば全部終わる」

 はあ、とも、はい、ともつかない返事をして、まっすぐ乱歩を見る。晶子ちゃんにバレたらすごく怒るだろうけれど、知り合いのいない場所で、こんなのは日常茶飯事だった。
 ──彼が眼鏡をかける。始まる、と思う。手の感触も息の詰まりそうな空気も、なにも感じ取れなくなる。わたしの全部の感覚が、乱歩に向けられる。

 わたしたちを歓迎してくれる人が全てではないことはわかっていても、直接悪意を感じてしまうのはつらかった。それでも、乱歩に向けられないだけマシだ。ふたたび彼が世界を信用出来なくなって、独りになってしまうよりは、ずっと良い。

 願わくば、彼の見る世界が正しく、清らかなものでありますように。わたしはいつだってそればかり考えている。



「……つかれた」

 帰り道、ずっと黙っていた乱歩が不意に口を開いた。何が、と明確に言葉に出来るわけではないけれど確かに、普段彼が発するそれとは違った響きだった。何がどう異なるのか、本人すら気がついていないかもしれない。

 雨はもう降りそうになかった。分厚い雲の姿はなく、深い青の夕方が広がっている。しんと冷えた空気だけが名残だった。雨上がり特有の湿った匂いとともに、どこからか秋の懐かしい匂いがする。

「そう」

 わたしもなにも知らないフリをする。ただ彼のとなりを歩いて、足音を共有するだけだ。たまに乱歩が立ち止まる。猫を見る。お菓子の並んだ店を覗く。また進む。

 いつもは間髪入れずに続く「甘い物食べたい」だとか「早く帰りたい」だとか、そういう要求はいくら待っても飛んでこなかった。家までは少し距離があるのに、タクシーに乗りたがる様子もない。あきらかに変だった。

 全て解ってしまう。見えてしまう。知りたくないことから知らなくちゃいけないことまで何もかも。わたしには検討もつかない。彼の世界は、どんな風に広がっているのだろう。

「乱歩だって疲れるよね」

 彼は表面的なこと──歩きたくないだとか面倒臭いだとか──はよく口にするけれど、特別な環境に置かれていることや自身の異能に関する愚痴は一切言わない。それはわたしが尊敬しているところでもあって、でもどこか不安に、遠く感じる部分でもあった。

「そうだよ。僕だって疲れる。わざわざ長い時間電車に乗ったのにすっごく単純な事件だったし、出会う人間は全員感じが悪いし、何も言わなくたって全部わかってるし、」
「うん」

 ごめん、と笑う。やっぱりバレてたか。適わない。
 乱歩が不機嫌そうに話しているというのに、なぜだか気持ちが軽く、おだやかになっていく。多分、彼がわたしの日常そのものだからだ。わたしだけに向けられた言葉を受け取る度、あまり大人には見せなくなった子どもっぽい表情を見る度に、安心する。また戻ってこられた。そんな感じがする。

「なんで笑ってんの」
 乱歩が訝しげにわたしをみる。
「なんか安心しちゃって」

 ふうん。ふたりきりのときの乱歩の返事はいつも一定のトーンを保っている。明るくも暗くもない。特別な意味もない。ただ自然で何も思っていないのが明白な彼が、そこにいる。

「でも、今わたしが安心したのと乱歩が疲れてるのは別の話で」
「うん」
「わたしは元気になったから、乱歩にもそうなってほしい」
 彼の発した「つかれた」を拾えるのは、世界でわたしだけだった。絶対に見逃してはならなかった。
「……僕は元気だけど?」
「そうかもしれないけど、そうじゃない」

 わたしは乱歩の手を取って、帰り道から逸れる。ふたりとも軽い足取りだった。まるで家を出た時からこうすると決めていたみたいに。

 馴染みの商店でラムネと駄菓子を買った。こんなに寒いのに、と何回も確認されて、けれどそう言われる度、わたしたちのなかの特別感は増していくような気がした。よく置いてくれていたものだと思う。あのお店のおばさんは乱歩のことを可愛がっているから、もしかすると乱歩専用なのかもしれない。

 なんてことはない、ただの季節外れのラムネ。夜ご飯の前のお菓子。寄り道。夜の公園には、わたしたちの影だけが伸びている。

「早く帰らないと福沢さんに怒られちゃうよ」

 言葉とは裏腹に、乱歩の声は楽しげだった。屋根の下のテーブルに買ってきたものを広げる。
 冷えきったベンチに、ぴったりくっついて座った。どちらからともなくそうした。乱歩が器用にビー玉を落とす。飲み始めるまえに、わたしの瓶も差し出した。彼は一瞬だけこちらを見て、けれどすんなり開けてくれる。受け取った手が悴む。

「それでもいいから、もうちょっとこうして居ようよ」

 コートの袖に手を隠しながら、少しずつ炭酸を流し込む。身体のなかに透き通った液体が落ちていくのを想像した。不思議と寒さは感じない。わたしは心のなかで、名前も知らない天気予報のお姉さんに感謝する。

「……僕知らないからね」
「いいよ。ひとりで怒られるから」
「無理だね。与謝野さんも居るし」

 乱歩がラムネの瓶を傾けると、ガラスとビー玉がぶつかる小気味良い音が鳴る。

「それはちょっと怖いかも」

 福沢さんに怒られたことはないけれど、乱歩から聞く限りは──出会ったばかりの頃の乱歩は本当にめちゃくちゃだから、怒られて当然なのだけれど──かなり怖い。それに晶子ちゃんだって、最近はぜんぜん容赦がない。それだけ仲良くなれたということだし、怒られるのは主に朝起きられないだとか、心配してくれるときだとか、そういうときだけなのけれど。きっとそれが元の性格なのだろうと思うと、わたしはその都度嬉しくなってしまう。

 乱歩が救い出した頃の晶子ちゃんはこちらが苦しくなるほど傷ついていて、見ているのもつらかった。乱歩と晶子ちゃんが幸せに暮らせるのなら、他には何もいらない。そんなことを考えてしまうくらい、わたしにとってふたりは大切な存在だった。もちろん福沢さんも、国木田くんだって。
 秋の夜につられて感傷的な気分になってしまった。一応、ちいさな家出の途中だというのに。

「はは、ナマエってほんと莫迦だよねえ」
「自分でもそう思う」

 帰ったあとのことを色々思い浮かべてみる。心配こそすれど、ふたりとも本気で怒ってくることはきっとないはずだ。……多分。

「今日、なんで僕のところに来なかったの」
「いつの話?」
「現場に居たとき。何言われても動かなかっただろ」
「ああ、あれね」

 公園の脇を通る車の音がする。わたしと乱歩だけに思える世界にも確かに人は居るのだと、当たり前のことを考えた。こうして外で話すのは、乱歩にとらわれすぎないから良い。

「乱歩が推理してるところは、遠くから見るのが一番いいからだよ」
「はあ? 意味わかんないんだけど」
 乱歩が身を乗り出して、訝しむようにこちらを見つめてくる。わたしはほとんど独りごとのように言う。「わたしの手の届かないところで名探偵してる乱歩が好きだから」
「……なにそれ」

 わたしから遠ければ遠いほど良く、けれどまったく知らない所に行かれるのは嫌なのだった。皆のなかにいる彼を誇らしく思っているのか、近くに居ることによって彼の正しさに灼かれてしまうのが辛いのか、わたしにはわからない。

「自分でも理由はわからないの」
「ふうん」
「……ずっと見られたらいいな」

 意図したよりも湿った声が出て、慌てて付け加える。「探偵社が、乱歩が認められるような世の中は、素敵だから」
 数秒の静寂。綺麗な紺色に染まった空と薄い月だけがわたしたちを見ている。

「どうなったとしても、ナマエも僕も福沢さんも、何も変わらないよ」空になった紙袋の中に、乱歩がお菓子の包装紙を入れる。「ナマエはずっと僕の隣に居るべきだ」
「そうだね」

 昔は駄菓子の包み紙なんてその辺に放っておいたものだ。最終的にはきちんと捨てるのだけれど、そこに至るまでがかなり子どもっぽい。好きなように散らかすし、言われるまでは放置。それが、紙袋に入れて纏めるようになった。こんなの他人から見れば笑われてしまうくらいの、ごく僅かな変化だ。それでもわたしには、それが福沢さんやわたしに出会ったことによってもたらされたものであることがはっきりと分かった。少なくともわたしと彼しか居ないとき、彼は誰かが片付けてくれるまで待ったりしない。

「この先どんなことがあってもさ」半分くらい残っていたラムネを一口飲んで、乱歩のほうへ滑らせる。彼の瓶はとっくに空になっていた。「わたしだけはこうやって、友達として、話せたらいいな」

 確かに変わらないことも、大人になっていくことも、世間の移ろいについていかれないこともあるだろう。それでも、わたしだけは対等で、近しくありたかった。

「……へえ。ナマエは僕のことを友達だと思うんだ」

 想定していた返答とあまりに違うもの──てっきり適当な相槌で流されると思っていた──が彼の口から発される。

「友達じゃないの?」

 言われてみると友達では遠すぎるような気もするけれど、かと言って親友、なんていうのも恥ずかしい。

「いつか分かるよ」

 乱歩はわたしのラムネを飲み干して、袋の横に並べる。反対の手をポケットから出す。肘と肩がぶつかったけれど、特にお互い何も言わなかった。

「そろそろ帰ろっか」

 わたしは本当に、彼の言ったことを理解する日が来るのだろうか。立ち上がると、彼は瓶だけ持ってさっさと行ってしまった。わたしは袋をゴミ箱へ投げ入れる。

「手、出して」

 乱歩が言う。ぎゅっと握りしめていた手をひらいて彼に差しだす。結局指先も身体も冷えてしまった。家に着いたらすぐお風呂を沸かそうと心に決める。乱歩の鼻も少しだけ赤くなっていた。彼はわたしの手をぱっと掴んで、それから歩きだした。なかば引っ張られるようにして、わたしもとなりへ並ぶ。繋がった左手からは乱歩の高い体温が流れてくる。そっと彼を窺えば、すぐ横にあったはずの顔が少し遠かった。わずかだけれど、身長の差が広がっている。こうして毎日ちょっとずつ、少年の彼は男のひとへ成長していくのだ。

「福沢さん、すごく怒ってたらどうしよう」
 自分のなかに浮かんだ考えを振り払うように、話題を切り出す。
「そんなの僕には知ったこっちゃないね」
「十分共犯だと思うよ」

 急いでいるときだとか歩く気力をなくした彼を引っ張っていくときだとか、そういうのとはどことなく違っていた。まるで恋びとのような繋ぎ方。ふたりの間で揺れるぎこちなさ。

「僕には甘いから」
「ずるい」

 わたしは気付かないふりをする。いつもより早い彼の歩くスピードにも、身体の底を走る鈍い痛みにも。

 たかが子どものちいさな家出。というか、こんなのは寄り道にすぎない。それでも十分だった。きっとわたしも乱歩も、この先今日のことを話したりはしない。明日からはまたいつも通りの、設立に向けての日々が始まる。乱歩もわたしも、もう沈んでなんかいなかった。進む先には、家の灯りが洩れている。






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