雪降る夜に見えたものは




 駅前で待ち合わせ。こんなこと、彼と出会ってから初めてだ。街はどこもかしこもイルミネーションで飾られ、すれ違う人は皆浮き足立っているように見えた。どこからか定番のクリスマスソングが聞こえてくる。冷たくするどい風が吹いた。鼻がつんとする。

 去年の今頃はどうしていただろうか。考えながら、ちいさく足踏みをする。ブーツの中の指先が寒さで痛みはじめていた。また、断片的に歌詞が耳に流れ込む。
 ぼんやりと記憶が浮上してくる。確か去年の今頃は仕事が立て込んでいて、クリスマスどころではなかった。彼に会えたのも、年が変わるギリギリだった。

 ポケットから携帯を取りだし、メールを確認する。通知はなかった。再びしまって、両手を胸の前で擦り合わせる。吐く息が白い。空はいつもより明るかった。いつもの夜が透けた黒なら、今日は深い青といった感じだ。雲も星もない。

「……待たせたな」
「わ、虫太郎さん」びっくりした。思ったことがそのまま音になって発せられる。
「こっちから来ると思ってて」

 わたしが指をさすと、虫太郎さんはふっと表情を緩める。

「ああ。私はこの道から来た」彼はとなりへ並んで、鞄をわたしとは反対の手に持ち替えた。「携帯や空を見ていたから気が付かなかったのだろう」
「見てたの、わたしのこと」
「待ち合わせをするのは初めてだったからな」

 新鮮だった、と話す虫太郎さんは、興味深い文献でも読んだときのような顔をしている。
 彼のことを気にしてメールを確認していたところもぼうっと空を見ていたところも本当は見られたくなかったのに、こうも純粋に楽しまれてしまうと何もいえなくなる。

「たまにはいいものでしょう? わたし、虫太郎さんのこと待てるの嬉しかった」
「私を待つのが?」
「ううん、待てることが。彼女として、ここに居られることが嬉しいっていうか」

 虫太郎さんがあまりに素直だから、わたしまで言うつもりのなかったことを伝えてしまった。恥ずかしくなって俯くと、視線の先に彼の手があった。ほんのり赤くなっている。「……帰ろ。ちょっと遠回りして」
「イルミネーション、はいいのか?」

 イルミネーションデートとか素敵だよね、なんて、この間テレビを見ているときに言った気がする。わたしとしては叶うはずもない願いというか、テレビの中の光景があまりに綺麗だったから言ってみただけというか、つまりほとんど冗談のようなかたちで発せられたものだった。そもそも虫太郎さんとのデートで人の多い所へ行きたいとは思わないし、わたしは既に満ち足りてしまっている。

「いいの」それより、と続ける。「早く帰って、会えなかった分の話したい」
 メールで伝えきれなかったことも聞けなかったことも、一週間会えないとなれば沢山溜まってしまう。彼のことはなんだって知りたかった。
「……私もだ」

 駅に背を向けて、わたしの家のほうへと歩きだす。先程とは別の歌が辺りを包んでいた。
 中心部から離れるにつれ、人通りが減っていく。車の音が大きくなる。煌めくひかりはそこかしこにあるけれど、駅よりずっとささやかだった。

 こころなしか、彼との距離が縮まったような気がする。辺りに溢れる情報が少なくなればなるほど、そのぶん彼を感じられた。実際に近づいたわけではない。
 こんなこと、今まで他の誰と居たって意識することはなかった。恋に浮かされる、とは多分こういう状態をいうのだろう。なんらかの境目が薄れて、自分が分からなくなる。

 横断歩道の信号が赤になり、立ち止まる。
 彼のことを横目で窺って、そっと手を伸ばした。
 想定より早く彼の指先とぶつかる。そのまま掴まれて、わたしの手は彼のコートのポケットに収まる。

 自然と距離が近くなって、わたしは目線を下に落とした。なんだか付き合いたてのカップルみたいで気恥ずかしかった。よく磨かれた革靴に、ふわりと白いものが降りる。それは触れたそばから溶けて、水滴に変わった。

「虫太郎さん、雪」

 青信号を告げる鳥の鳴き声が響く。顔を上げると、雲の欠片みたいな雪がはらはらと舞っていた。夜とは思えないほど、空は明るい。雪の色が移ったみたいだった。
 周囲の人たちも皆、動かない。わたしも虫太郎さんも、繋いでいないほうの手で雪を受け止める。

「……きれい」
 虫太郎さんはしずかに相槌をうつ。何か考えごとをしているようだった。数秒あって、どちらからともなく歩き始める。
「本当は、どこか行きたかったんじゃないのか」
「……どうしてそう思うの?」
「皆、クリスマスには外でデートをするものだと」

 道理で、明日も休みを合わせようなどと言われたわけだ。彼らしくないメールに、嬉しくなりつつも少し戸惑ったのを覚えている。今日はクリスマスイブの前日──誰かがイブイブだね、なんて言っているのを変な言葉だと思った記憶がある──だから、明日は本物のイブだった。

「ふふ、色々言われたんだ」気にするなんてらしくない、と思いつつも、彼がわたしのことを考えて悩んでくれていたことに、胸が暖かくなる。「世の中はね、そういう人が多いのかも」
「……君は違うのか?」
「わたしは、虫太郎さんと待ち合わせをして、隣を歩くだけで十分だよ」そもそも、と続ける。笑みが洩れる。「虫太郎さんもわたしも、人混み嫌いだし」

 日常から一歩だけ踏み出したような、そんな時間を過ごしてみたかった。いつもの夜とかけ離れていても、近すぎてもだめ。彼はそれを叶えてくれた。

「それは、確かにそうだが」
「早く家帰って、この間読んだ本の話聞かせて」
「……ああ」

 ポケットのなかから、わたしの身体の隅まで温度が広がる。溶けた雪が彼の髪を伝う。普段きっちりと分けられた前髪が、ゆるやかに崩れている。

「何を笑っている」
「ふふ、なんでもないよ」

 家に着いたら、わたしはまず虫太郎さんの髪やコートを拭こうとして、けれど彼は優しいから、先にわたしの髪を乾かしてくれる。イルミネーションのことや初雪のこと、それから昨日までにしたメールのこと、……話し始めたらキリがなくて、なかなか寝られない。温かい飲み物を淹れて、朝まで話してしまうかもしれない。
 想像するだけで、どうしようもなく愛しかった。

「また待ち合わせ、しよう」

 虫太郎さんの人生のなかに、そっと佇んでいたい。そんな想いがずっと、わたしのなかにある。
 うんと鮮やかな記憶でなくて、ふとしたときに取り出して眺めたくなるような、しずかに積もる日々。わたしたちは来年の今頃も、きっと少しだけ特別な夜のなかを歩いている。






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