煌めきの共有
よく澄んだ夜だった。白くなった息の先に星が透けて見えた。一度、鼻から深く呼吸をする。身体のなかを清冽な空気が満たしていく。
首に冷たい感触がして、肩が跳ねる。マフラーのようにわたしに巻きついているしっぽが視界の端に揺れた。首に触れたのは、氷のようにつめたいカールの鼻だった。
「……寒いね」
肩から降りてきたカールを腕でキャッチして、そのまま抱きしめる。落ち着いたと思った途端、カールは犬のようにブルブルと首を振った。思わず笑みが洩れる。外に居るとき──とくにこんなに寒い夜は、腕のなかの体温をより愛しく感じられる。
「明日は、雪が降るかもしれないんだって」
ビックリだよね、と、カールのほうを向く。生き物を飼っている人ならきっとわかってくれると思うけれど、わたしはカールに出会ってから本当に独り言が増えた。別に返事が来るわけでも頷いてくれるわけでもないのに、どうしてか自然に語りかけてしまう。カールが恋人のペットだというのも、大きな要因かもしれない。
ポオさんに会えない間、彼に伝えたいことは全てカールに向かってひとりごちていた。そうして満足してしまって、当の本人に伝えるのを忘れていたことなどごまんとあった。
「本当は黙って出てこないで、誘えれば良かったんだけど」
ベッドの上でカールのブラッシングをしているときだった。
カーテンの隙間から青が洩れている。ふいに気がついて、わたしは手を止めた。吸い込まれるようにして窓のそとを見上げて、そのときはじめて、明日が雪の予報だということを思い出した。雪が降るくらい冷え込むのだから、きっとうつくしい夜に違いない。
どうしても直接見たくなって、わたしは外へ出る支度をした。遠くに行くつもりはなく、家の前で眺められればそれで良かった。部屋着の上にコートを羽織って、カールを肩に乗せる。ポオさんの部屋から伸びるひかりを跨ぐとき、わたしは一瞬足を止めた。誘っていこうかと考えている間に、筆を走らせる音が聞こえてくる。また歩き出して、しずかにドアを開けた。
「そろそろ戻ろっか」
足の先が冷えていた。適当な靴で出てきてしまったせいもある。いまのわたしは、誰がどう見てもちぐはぐな格好をしていた。近所の人やポオさんに見つかる前に、部屋に戻ったほうがいい。
「……何をしているのであるか」
「わ、びっくりした」
ほとんど反射的に出た声は存外周囲に響いた。はっとして片手で口をふさいだけれど、もう遅い。ポオさんは楽しげに笑って、それからわたしの首にマフラーを巻いてくれる。カールがふたりの間で身動ぎした。
「綺麗な夜だったから、見に来たの」
「そうであるか」ポオさんがわたしにつられるように空を見上げる。「……しかし、カールだけ連れていくのは」
「妬く? ……ふふ、なんてね」
わたしと彼は、いつもより少しだけ離れて立っていた。ひとみは前髪に隠され、表情は見えにくい。けれど、すべてが凍りそうな紺色の真夜中は、この上なく彼に似合っていた。わたしは空を見たかったのでも冬の空気を吸いたかったのでもなくて、きっとこの景色を目に焼きつけるために外へ出たのだ。
「君とカールの仲がいいのは嬉しいのであるが、……君の恋人は、我輩である」
さっきは冗談で返したつもりだったのに、彼は案外本気だったらしい。申し訳ない気持ちになって、しずかにひとつ相槌を打つ。
「こういうときは、その、我輩を誘って欲しい」
心の底から、彼のことが好きだという思いが溢れてくる。
わたしは、彼を連れ出していいのだ。いつでも。わたしが、何かに触れたいと思ったときに。こうやって同じ季節を、夜を、星を共有して生きていけるなんて、それ以上に素敵なことなんてない。もちろん一緒に居られないときだって、執筆を優先することだってあると思うけれど、それでもこの言葉だけで、わたしの世界はうんと広がる。
「わかった。……ありがとう」
一歩踏み出して、ポオさんのすぐ隣へ並ぶ。カールが彼の肩へ移動したので、わたしはすこし考えて、真っ黒な外套のなかへ手を差し入れた。彼の手に触れて、つながる。
「今度こそ、戻ろっか」
カールのひとみのなかに、星がきらめく。
▽
目を覚ますと、いつもよりなんとなく周囲が明るい気がした。それも晴天特有のまぶしさではなく、白く曇るような感じだ。もっともわたしは布団からかろうじて目元が出ているような感じだったから、あんまり確かではない。あたたかくて、けれど空気は冷たい、白い朝。動こうとしても、ポオさんの腕のなかなので思うようにいかない。
「ポオさん、起きて」
急かすような口調とは裏腹に、わたしはずっとこうしていてもいいような気持ちになっていた。思いがけず、彼の顔をはっきりと見ることが出来たからだ。前髪は枕へ流れ、長い睫毛も鼻筋も隠されることなくわたしのまえにある。世界でわたしだけが見られる彼の顔だった。
「……おはよう」
普段よりさらに小さな声だった。布団の中から手が伸びて、彼が眠たげに目をこする。ひとみがゆっくりと開かれて、わたしは思わず息を飲んだ。
「なにかあったのであるか」
「ああ、うん。雪が降ってるかもしれなくて」
言い出してから、こんなことで起こすべきではなかったかもしれない、と思う。それからすぐに思い直した。きっとこんな朝のために、昨日の彼は言ってくれたのだ。
「だから、一緒に外見に行こう」