日常のなかのしあわせを

──乱歩さん誕2022



 街なかの夜の匂い。音。二十一時の横浜は、まだまだ活気に溢れていた。そこらに散らばるひかりたちはまるくぼやけたり、さっと走り去ったり、遠くからこちらを照らしたりしている。

「なかなかこの時間に帰ることってないから、新鮮」

 退勤するならもっと早い時間か、今日みたいにパーティーの後ならほとんど朝になってから家に着くことが多い。楽しい時間が終わって欲しくないのもあるし、晶子ちゃんや国木田くんや太宰──わたしよりずっと飲めるひとたちが共に居てくれるっていうのもかなり大きな要因だ。ほんとうにいつまでも話せてしまう。帰れなくてそのまま次の日になることも多々あった。

 ただそれも、乱歩の誕生日となれば話は別だ。わたしは今日、こうしてふたりきりになれるのをずっと待っていた。

「別に僕一人でも帰れるけど」
「主役をひとりにするなんて出来ないよ」

 腕が掠めるくらいの距離で、ゆっくりと歩き出す。ほんとうは寒いからもっとくっついていたかったけれど、ここはまだ探偵社の窓から見える位置なのだ。

「パーティー中は来なかったくせに」
 乱歩はあからさまに不興げな声で言う。
「だってほら、来賓の人とかさあ」

 半分は本当、半分は嘘だ。
 探偵社だけでささやかなパーティーをする、といっても、乱歩の誕生日は警察関係者や設立以来付き合いの長い取引先など、数多くの人々に知れ渡っている。そのため毎年、皆がなにかしらのお菓子やプレゼントを持って、社に訪ねてくることになっていた。ひとりひとり長居したりはしないものの、まったく挨拶をしないという訳にもいかない。これが、半分本当、の部分。

 乱歩は社の中心で、誰からも尊敬されている。いちばん凄い異能力者で、いちばん目立つ探偵社員。そんな彼と話してみたい、と願う社員はそう少なくない。普段だってとくに話しかけにくいとは思わないけれど、それはわたしと彼の付き合いが長いからで、他の人達からしたら違うのだろう。いつでも喋ることの出来るわたしが、皆の年に一度の貴重な機会を奪うわけにはいかなかった。つまりわたしは、来賓の人が来ていようといなかろうと、彼の元へ近づく意思はなかったということだ。だから、半分嘘。

「そんなのどうだっていい! 僕が主役なんだろ?だったら──」
「ごめん」

 鞄を反対の腕にかけ直して、乱歩の手をとる。パーティー中のわたしの態度が彼を不機嫌にさせることは分かりきっていたけれど、機嫌を直す算段はついていた。これに関しては探偵社員としてではなく、恋人として自信がある。

「帰ったらさ、一緒にケーキ食べよ」すんなり繋がった手から、乱歩の高い体温が伝わってくる。「さっきのとは違うやつ。ふたりで食べようと思って、別で作ったんだ」

 探偵社にもケーキは持っていったのだけれど、そっちは皆で切り分けたからすべてが乱歩用とはいかなかった。今年はすこし余裕があったから、二個作ったのだ。思えば昨日のわたしは、こうなることをどこかで予感していたのかもしれない。

「いいよ。仕方ないから許してあげても」
「良かった。今日は乱歩と一緒に夜更かしするって決めてたから」

 ラムネもお菓子も買い込んであるし、二次会の準備はバッチリだった。パーティーでさんざん甘いものを摂取したあとだけれど、乱歩にそんなことは関係ない。すぐに頭が痛くなるわたしとは違って、彼はほとんど無限にお菓子もケーキも食べ続けられるのだ。

「でも君は明日仕事だろ」
「さっき代わってもらった。乱歩が主役席で拗ねてる間に」
「……ふうん」

 短い返事だった。それでも、彼の機嫌が直ったことを確信するには十分だ。乱歩はよく「君のことなら何でも判る」というけれど、わたしだって乱歩に関することはたいてい、分かっているつもりである。

        ▽


 リビングの窓には月が浮かび、星が瞬いている。
「……カーテン閉めていくの忘れてた」

 ここを出るときの、期待と緊張が混じったような、キラキラした気持ちがよみがえる。
 まだ明るかった空。段取りを確認して、それから、彼の喜ぶ顔を想像したこと。 

 乱歩の外套を受け取って、ハンガーにかける。

「わたしさ、皆のいる華やかで楽しい場も好きだけれど」

 カーテンを結んでいたリボンを外す。今伝えなければずっと言えないままのような気がした。

「やっぱり、こうして乱歩のとなりにいるのがいちばんかも」彼のほうへ振り向く。「……乱歩もそう?」

 ネクタイに手をかけたまま、乱歩がわたしを見る。

「そうじゃなかったらこうして一緒に居ない」
「そっか。そうだよね」

 夜のひかりが、彼の髪をうすく縁どっている。わたしはカーテンを閉めて、部屋の明かりをつけた。ケーキを切ってラムネを出せば、夜更かしのはじまりだ。





「寒い」
「寒いね。もっと寄れる?」

 寝室の空気はすっかり冷えきっていて、すこし歩くだけでも足の裏がつめたくなった。ふたりでベッドに飛び込んで、身体をちいさくする。

「なんでそんな嬉しそうなの」

 乱歩は一向にあたたかくならない布団に眉をひそめて、わたしの足に自分の足を絡めてくる。

「だってね、……乱歩はわたしの大切な日常の一部だから」彼の頬に手を添える。「こうしていちばん最後に、いつもみたくふたりきりで祝えることがうれしい」

 翠の双眸がしずかにきらめく。環境が変わっても、大人になっても、この美しさだけはずっと変わらない。他の何にも染まらない、気圧されるようなかがやき。
 乱歩は何も言わず、けれどわたしのことをしずかに抱きしめてくれる。

「お誕生日おめでとう。……おやすみなさい」

 世界でいちばん素敵なあなたの新しい一年が、世界でいちばん、素敵なものになりますように。






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