小さな朝告げ



 部屋の中は薄いひかりに包まれている。近くで鳥の鳴き声がした。わたしは目をこすりながらベッドを降りて、窓の前に立つ。一面の青。そうだった、と思う。わたしは昨日虫太郎さんと共に任務を終えて、あと数時間すればここを発つのだ。

 すべてが夢みたいだった。わたしは朝の彼も昼の彼も夜の彼も存分に眺めることが出来た。突如決まった出張。誰と行っても良かったはずなのに、虫太郎さんはわたしを選んでくれた。どうしてかはわからない。

 昨日は指定された海沿いのホテルに泊まって──部屋はもちろん別々だったけれども──出会ってから初めて夜ご飯を共にした。かつてないほど緊張して、けれど、かつてないほど楽しい夜だった。

 彼は海が苦手だと言っていた。潮風が嫌だ、とも。わたしもほとんど同意見だ。遠くから眺めるぶんには素敵だけれど、実際に近づいてみるとデメリットばかりだから。髪はベタベタになるし、日焼けはするし、靴は砂でじゃりじゃりする。最悪だ。

 時計は午前五時を指していた。朝食まではまだ余裕がある。彼はもう起きただろうか。昨日の業務は異能を使うものだったから、もしかするとまだ寝ているかもしれない。

 つめたい水で顔を洗って、それから鏡をじっと見る。昨日、わたしはどんな顔で彼の前に立っていたのだろう。
 髪の毛を梳かして、ハンガーにかけておいたワンピースに着替える。そこで、上着を忘れてきたことに気がついた。出発する頃の気温はそこまで低くなかったはずだから、きっと大丈夫だ。昨日は一日中スーツで過ごしていたから、随分と楽な心地がする。

 彼のとなりに並んでも、変じゃないだろうか。鏡の前に立って、襟もとを直す。スカートにシワがよっていないか確認する。ただ帰るだけだというのに、まるでデートの前みたいだ。恥ずかしくなって、なんとなく部屋の中を歩き回る。そこでふたたび窓の外を見て、驚いた。見間違えるはずはなかった。海の前に、虫太郎さんが居る。


 何も考えず、ホテルの鍵と携帯だけを持って部屋を出た。自動ドアが開いた瞬間、どこか懐かしくて寂しい匂いがする。秋。潮の匂いに混ざってはいるものの、昨日と違う季節なのは明確だった。夏の影はもう欠片も残されていない。朝はいつもあたらしい空気を運んでくるけれど、秋のそれはいっとう澄んでいて清らかだ。

「……おはようございます」
 静かに近づいて、後ろから声をかける。虫太郎さんはわたしが来たことに驚きもせず、普段と同じ声色で挨拶を返してくれる。
「虫太郎さん、早起きですね」
「それは君もだろう」
「……確かに、そうですね」

 いつもは旅先でもこんなに早く起きたりすることはないし、むしろ友だちと来たときは一番最後まで寝ているタイプだ。とはいえこんなことは彼の知る由もないことだから、黙っておく。

「すみません」
「なぜ謝る?」
「ホテル着いたとき海が近いの嫌だって言ってたのに」
 風の音が強い。負けないように、少し声を張った。「それなのにわざわざ来てるってことは、意味があるのかなって」
 そんなときにわたしみたいな他人が横にいたら、誰だって迷惑だろう。
「意味など、……別に君がいても構わない」

 彼はそう言ったあと、おもむろにジャケットを脱ぎ始める。視線は海へ残したままだ。いつもの蝶ネクタイはしておらず、シャツの一番上のボタンは外されていた。革靴はよく磨かれているけれど、ところどころに砂の粒がついている。

 雲ひとつない、どこまでも青い朝。この光景を、彼と海を見たことを、この先ずっと忘れずにいたい。そう思った。どんな細かいことでも、覚えていたかった。

「……着るといい」
 唐突に目が合って、思わず息をのむ。彼はわたしにジャケットを差し出したまま、すぐに視線を逸らしてしまった。
「え、でも虫太郎さんが寒くなっちゃうから」
「私は大丈夫だ」

 風にあおられて、真っ白なシャツがはためく。上着なしで来てしまったわたしも大概だけれど、ジャケットを脱いだ彼だってじゅうぶん寒そうだ。それでも、断るなんて出来なかった。彼がわたしを気遣ってくれていることも、まだ一緒に居ても良いのだということも、わたしにはたまらなく嬉しかった。

「ありがとうございます」

 ジャケットを肩にかけて、落ちないように両手でおさえる。まだほんのりと彼の温度が残っていた。
 ただ上着を貸してくれただけ。そこに他意はない。わかっているのに、頬があつくなる。

 しばらくふたりで遠くを眺めていた。水面が細かくひかりを帯びていって、空はどんどん青く、高くなっていく。わたしたちのほかには誰も居なかった。ふたりだけが現実から切り離されてしまったようだった。

「前にも来られたんですか、海」
「学生時代に、一度」
「……きっと素敵な思い出なんですね。さっきの虫太郎さん、そんな顔してたから」

 虫太郎さんは否定も肯定もせず、ただまっすぐ海を見ていた。
 誰と行かれたんですか。恋人とかですか。わたしは何も聞けずに、地平線を目で追う。潮の匂いがする。

「……友人と来た」
 小さな波が打ち寄せる。すぐに引いていく。また新しい波が生まれて、砂浜の色を変える。
「海を書くのに資料がいるから、と」

 すぐ、ヨコミゾさんの話なのだろうと察しがついた。彼が時折口にする名前。わたしもいくつか作品を読んだことがある。

「前にも言ったが、私は海が嫌いだ。それでも奴が強引に、……」

 彼の表情がふっと緩まる。長い睫毛が下を向いて、影を作り出す。こんなふうに誰かのことを語る虫太郎さんは初めてだった。

「本当に仲が良かったんですね」
「……そんなことは」

 否定されるであろうことも、けれどそれは彼の本心ではないのだということも、わたしにはわかっていた。友人のことを語る彼の表情がすべてだった。長く一緒に居るわけではなくても、わたしはずっと虫太郎さんばかりを見ているのだ。

 少しの間、沈黙が降りる。やさしくて柔らかな波音がわたしたちを包んだ。わたしは彼の友人に会ったことはないのに、それでも確かに今、同じ空間を共有していた。いままでで一番、虫太郎さんを近くに感じる。

「虫太郎さんが話したくなったら、たまにこうして聞かせてください」
 今伝えなければ、二度と言えない気がした。
「ヨコミゾのことをか?」
「何でもです。好きなひと、嫌いなもの、行きたいところ、お気に入りの本。何でも」
 彼は不思議そうな顔をして、それからちいさく笑う。
「君は変わっている」
「そうですか? 虫太郎さんのこと、知りたいだけなのに」

 つられるようにして微笑む。視線を感じて彼のほうを向けば、すぐに目が合った。ジャケットをおさえる指さきに力が入る。

「私ばかり話すのは公平じゃない。……私も、君のことを知りたい」

 誠実な響きを持ったまっすぐな言葉が、わたしの身体をいっぱいに満たす。しずかに頷いて、また彼を見つめた。ひとみのなかには海とわたしだけがいた。

 海の上を飛びまわるカモメの声。澄んだ青。秋の潮風の冷たさ。今日のこともいつか、こんなふうにふたりで話せたらいい。そうして彼の嫌いな海へ一緒に来て、彼の好きな友人の話をする。

 ひとつ息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。気がつけば、随分と太陽が高くなっていた。朝。彼とわたしの、あたらしい一日がはじまる。



Title by icca







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