3.不可分の二人

─翠の底まで



 いつもよりずっと早く、はっきりと目が覚める。眠気の余韻はなく、数秒で昨日の夜のことがよみがえってくる。あまり良くない姿勢で寝ていたのか、首や肩が痛んだ。こんなふうにソファで寝たのは去年忘年会で飲みすぎた日以来のことだった。

 時計は午前六時を指していた。乱歩が起きてくるまでにはあと一時間くらいの余裕がある。普段は朝から手の込んだものを作るなんてことはしないけれど、とにかくなにか作業をして、考え事を消し去りたかった。せっかくだから乱歩の好物でも作って、そうしていつも通りにおはようを言う。探偵社ですれ違ったときみたいに。

 明日探偵社に戻ったら、わたしは変わらず居られるだろうか。彼の立場と一社員である自分の立場をわきまえて、他人のように振る舞えるだろうか。

 昨夜、突然のキスのあと。風の吹き抜けるベランダにわたしを置いて、乱歩はさっさと寝室へ行ってしまった。ひとつ用事が済んだみたく、軽い足取りだった。

「……い、今の、なんだったの」

 わたしはひとりごちて、リビングに足を踏み入れた。外の暗さに慣れた目に照明が眩しく、常夜灯だけにする。どうせソファで寝ようと思っていたのだ。毛布は寝室にあり、とてもじゃないが取りに行くことはかなわなかった。

 昨日のことも、もしかすると今も、わたしは自分に都合の良い夢を見ているのではないか。ここは誰かの異能の世界で、はっと目が覚めたら、乱歩とわたしには何の関係もない。そうして一生交わらずに、同僚として彼を支える。
「……なんて、そんなわけないんだけど」


 寝室から物音がして、乱歩が起きたのだとわかる。
「今日はどうする? どこか行く?」
 朝食の後片付けを終え、ソファで寝転ぶ乱歩にラムネを差し出す。
 昨日のように一日中家にいるのは避けたかった。彼が起きてきたそのときから、ずっと気まずくて仕方がない。駄菓子屋に行きたいだとか、猫に会いたいだとか、何でもいいから理由が欲しかった。おそらく彼も同じ気持ちだと思うし──乱歩に気まずい、という感情があるのかは微妙だけれど、口数は少ないし新聞も読んでいなかった──外に出るのがめんどくさい、などと言われない限りは大丈夫なはずだった。

「……面倒くさい」
 想定していたなかでもっとも確率が高く、けれどもっとも言われたくなかった台詞が返ってくる。
「こんなにいい天気なのに」

 諦めかけたそのとき、乱歩の携帯が鳴る。




 現場は電車でふた駅のところにある、立派な一軒家だった。住宅街のなかでも一際目立つような豪邸。庭も広く、車は高級なものが二台停められていた。既に数人の警察関係者が集まっている。

 乱歩はさっさとテープをくぐりぬけて顔見知りの刑事さんを見つけ、事情を聞いていた。証拠が少なく、目撃者も居ないとのことだったが、そんなの乱歩には関係がない。情報がごく僅かなものだとしても、わたしたちが些細なことを見落としているというだけで、乱歩のひとみは沢山の痕跡をとらえている。

 思わぬ休日出勤となってしまったものの、わたしにはむしろありがたいくらいだった。いまはどう考えてもあの場をやりすごせる気がしない。

「君、見ない顔だね」

 端の方で推理が披露されるのを待っていると、ベテランの雰囲気漂う警官に話しかけられた。わたしを疑っているとかそういうわけではなく、世間話でもするかのような声色だった。

「はじめまして」探偵社の社員であること、名前、それからいつもは付き添いに来ていないこと。簡単に、あたり障りのない挨拶をする。

 あまり目立たないようにとスーツを着てきたのだけれど、かえって視線を感じる。もっとも乱歩はその場に居るだけで目を引くから、そのうしろを着いてきていた時点で諦めるべきだったのかもしれない。

「今日は休みでしょ? 大変だね」
「事件に曜日は関係ないですから」

 姿勢を良くして、笑みを作る。最近は事務仕事が続いていたから、こうして外で仕事をするのは久しぶりだった。

「随分来るのが早かったけど」警官はにやりと表情を崩して、からかうような口調になる。「ふたり、付き合ってんの?」
「……そんなことないです」
「なんだ。じゃああの名探偵の片想いか」

 どういうことですか。すぐに聞いてしまいたかったけれど、玄関のほうで乱歩の声が響いて、やめる。

「犯人は──」

 わたしも警官も、まわりの関係者も皆、乱歩の推理を真剣に聞いていた。良い空間だと思った。ここにいる全員が乱歩のことを尊敬し、頼り、彼の素晴らしい異能に憧れを抱いている。もう長らく現場への付き添いは他の人に任せていたから、忘れていた。この瞬間、彼の推理の場に居合わせられることの喜びも、すばらしさも。

 乱歩が話し終えたあと、現場は興奮に満ちていた。誰も予期していなかった犯人、完璧に示された証拠、逮捕の方法。周囲の刑事から褒め称えられた乱歩は「当然だね」と、それでも誇らしそうに笑った。

「疲れた! 早く帰りたい!」

 必要事項を伝え終え、乱歩がこちらへ向かってくる。さっきまであんな推理を、異能を披露していたとは思えないくらい、わたしにはただの幼馴染にしか見えなかった。

 どんなに目を凝らしても分からないようなことも、きっと一生知らずに生きていくようなことも彼はすべて抱えていて、けれど絶対、それを表に出したりはしない。誰より強く聡明で、底まで澄んでいるひと。わたしはきゅっと胸が苦しくなって、ひとつしずかに息を吐く。

「……うん」

 乱歩に返事をしたあと振り向くと、さっきの警官はもう居なかった。──名探偵の片想いか。あの人はどうしてそう思ったのだろう。



「乱歩が推理してるところ、見られてよかった」

 席の下から、線路を走る音が感覚として伝わってくる。帰宅ラッシュにはまだすこし早く、夕方の電車は空いていた。乱歩は窓を流れる景色を眺めている。

「……格好良かった。皆が乱歩のこと見てた。それであのときわたし、この瞬間のために頑張ってきたんだって思って」

 わたしに出来たことなどたかが知れているし、社長や国木田くんや晶子ちゃんに比べたら、想いだってかたよっていたかもしれない。それでも、少しでも役に立っていたと信じたかった。この世界のことなど、この街のことなどすべて後回しで、わたしは結局、乱歩こそしあわせで居てくれさえすればそれでいい。

「ふうん」翠の双眸が、夕陽にきらめく。「……君って僕のこと好きだよね」
「な、何、急に」
「それなのにどうして離れていくの? 全然意味がわからないよ」

 わたしはスーツのジャケットのボタンを留めたり、外したりする。乱歩のことを見るなんてとてもじゃないけど出来なかった。

「乱歩はさ、探偵社の顔なんだよ。日本を、……世界を代表するような探偵だし、」
「関係ない。問題は君がどうしたいかだ」

 電車が停まる。よく見れば、わたしの家の最寄り駅だった。焦って立ち上がり、乱歩にも降りるよう促す。頭のなかを整理出来ないまま、彼と並んで駅をでる。

 オレンジと青の溶け合う夕方だった。決して混じり合わない色なのに、いちばん近しいもののように寄り添っている。はっきりとした境界線なんてどこにもない。ぼんやりと遠く、けれど、ずっと奥まで透けている。

 乱歩からの問いを考え続けていると、いままでのことが走馬灯みたいに浮かんでくる。出会った日のこと。初めて彼の異能を見た日のこと。夜更かしがバレて社長に怒られたこと。寒い冬の朝、手を繋いで現場へ向かったこと。探偵社が設立された日のこと。

「僕もナマエが好きだ。ずっと前から」

 河川敷にさしかかったとき、乱歩が不意に立ち止まる。彼の輪郭に、夕陽の細かなひかりが沿っていた。真っ黒な髪もエメラルドのひとみも白い肌もすべて、このきらきらとした午後に閉じ込められている。

「それは、わたしだって。ずっと乱歩のことが好き」

 乱歩に言われたばかりのことを、今度は自分で口にする。不思議とためらいはなかった。すべてが彼の手中にあることに、心のどこかで気がついていたのだ。

「恋びとになってよ」
 乱歩らしいまっすぐな願いに、わたしは視線を下げる。「急すぎるよ」
「じゃあどうすればいいの」

 とつぜん機嫌の悪くなった子どもみたいな、拗ねた言い方だった。少なくともいま、こんな彼を見られるのはわたしだけだ。

「まずは、そうだね、……親友に戻りたいかな」
「君と親友になった覚えないけど」
「ひどい」
「君のほうがよっぽどだね」

 乱歩がほんとうに傷ついたような表情をするので、わたしはすっかり焦ってしまう。「避けてたわけじゃないもん。乱歩がどんどん進んで行っちゃっただけで」

  口のなかをやわく噛む。こんなことを言いたいわけではなかった。わたしは彼のことを責めたいわけでも、いままでの自分の生き方を悔いているわけでもない。乱歩が遠くに居たとしても、ずっと見守っていられればそれで良かったのだ。

「もう置いていかない」顔を上げれば、自信に満ちたいつもの乱歩がそこにいた。「遠慮もしない」
「……そっか。好きにしてよ」
「言われなくてもそうする」
「そうだよね。僕が良ければすべて良し、だもんね」

 乱歩はふっと笑って、何も言わずにわたしの左手をゆるく掴む。指がゆっくりと解けて、絡んだ。

「夜ご飯何がいい」
「何でもいいよ。僕が好きなやつ」
「……分かった」

 指さきから伝わる体温は、わたしの記憶のなかのそれと何一つ変わりなかった。手の繋ぎ方も、並んで歩くときのリズムも。

 こうしてどこまでも歩いて行ける気がした。ときおり乱歩が疑問を投げる。わたしが答える。他愛もないことを話しながら、ほとんどオレンジに溶けきった世界を進む。片想いに別れを告げて、そして、未来に期待を込めて。






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