こぼれ落ちそうなこの愛を
低い地鳴りのような音がして、それからだんだんと、窓にぶつかる雨や風が鮮明になってくる。はやく起きて、彼のもとへ急がなくてはならない。虫太郎さん、と寝言のように夫の名前が零れて、ようやく瞼がひらく。目をこすって、ひとつ欠伸をする。彼はまだ気がついていないようだった。長い睫毛は伏せられ、いつもはぴっちり整えられた前髪が半分くらい、顔にかかっていた。わたしはそれをしずかに避けて、じっと彼を見つめる。呼吸の度にゆるく布団が持ち上がって、また彼の形に沿う。
このまま起きなければ、虫太郎さんは何も知らずにすがすがしい朝を迎えるだろう。すがすがしい、といっても彼は夏が嫌いだから、暑いとか湿度が高いとか、色んなクレームは生じてしまうのだけれど。
明日も気温が高いから、きっと彼は一日中家にいて、本を読んだりわたしと話したり、お仕事のメールを返したりする。天気は晴れで、間違っても今みたいに雷が落ちることはない。雨も夜中の間だけで、早朝には止むはずだった。天気予報を見ることは、もはやわたしのルーティンと言ってもいい。彼の恋びとになってから出来た習慣だった。
寝ているときに雨が降ると、わたしはかならず目を覚ます。どんなに疲れていても、彼と一緒に居なくたって、かならず。
となりで寝ているときはこうして彼を眺めて、そうでないときは電話をする。たとえば出張中とか、残業中とか。電話は煩いから嫌いだ、と言っていた彼は、雨の日だけわたしの電話に出てくれる。それ以外はほとんどメールだ。
カーテンのすきまから洩れる位のひかりが散って、数秒後、揺れるような低音が鳴り響く。かなり近くに落ちたらしい。思い切り肩が跳ねて、寝間着と布団が擦れる。本当はいますぐ彼を起こして抱きしめて欲しかったけれど、そんなことできるはずもない。彼が安心して眠れるよう、誰より願っているのもまたわたしなのだ。
布団を握りしめ、外へ向いていた視線を彼へと戻す。
「……さっきのは、かなり近いな」
わたしは驚いて、数度目をしばたたく。
「起きてたの」
虫太郎さんのほうへ身体を寄せると、彼はわたしの髪に触れ、そのまま頬へ手を滑らせた。彼のひとみは常夜灯だけの寝室でもつめたく輝き、わたしだけを捉えている。
「君が私を呼んだ時からな」
「そんなに大きな声、出してた?」
「いや」虫太郎さんの眉がすこしだけ下げる。「君の声はよく聞こえる」
こぼれる、もしくは、あふれる、と思った。彼にどんなに伝えたとしても、足りない。
こんな風にわたしを満ちたりた気持ちにさせてくれるのは、恐ろしくなるくらいのしあわせをくれるのは、世界中で彼だけだ。
「……そう」
今度はわたしから手を伸ばして、彼に触れる。先程と同じようにして、彼の前髪を耳にかけた。
「さっきもこうしてたの」
「分かっている」
「そうよね。……寝たフリなんてずるい」
彼はふっと笑って、それから不意にわたしを見つめる。静寂。雨の音は遠く、一瞬で彼に惹き込まれる。彼に触れて、一緒に溶けてしまいたいと思った。虫太郎さんも、同じことを考えているに違いなかった。
「……わ、また光った」
どちらからともなく近づいて、数ミリで触れる、という瞬間、部屋は眩いひかりに包まれる。風も雨も勢いを取り戻し、窓を割らんばかりの勢いでたたきつけてくる。
虫太郎さんがあきらかに嫌そうな顔をしたので、わたしはすばやく布団を掛ける。あの音がたどり着くまで、まだ数秒あった。頭からつま先まで、ベッドの中にしまいこむ。
すべてが暗闇に沈んで、世界は虫太郎さんの温度だけになる。
「虫太郎さん、」
わたしの声は、何にも紛れず彼だけに届く。それはふたりだけの隠れ家のなかで、いっそう密やかに響いた。外のどんな音よりちいさく、けれど彼にいちばん近しかった。
彼の手がわたしへ伸ばされる。唇が重なる。熱がうつり、わたしたちは少しずつ混じり合う。
今夜、またどこかで雷が落ちる。
わたしも虫太郎さんも、きっとそれには気づかない。