月明かりの下で




 月の似合うひと。付き合う前から何度も思っていたことが、また心のなかに浮かんだ。夜にポオさんと散歩をするといつも見とれてしまう。朝も昼もそれぞれ別の素敵さがあるから、夜に限った話ではないのだけれど。

 よく冷えた風が、わたしたちの間を通り抜ける。重たい前髪がわずかに持ちあげられて、彼の目が見えた。スモーキークォーツみたいだ、と思う。彼のひとみの色をした宝石は、いまやわたしのいちばんのお気に入りとなっている。ネックレスもピアスも指輪も、同じ色のものばかり買ってしまう。

 真っ黒な外套は夜に溶けてしまいそうだった。カールのいない肩──といっても身長差があるから、正確には肩の下のあたり──に頭を寄せる。外でこういうことをするわたしが意外だったのかポオさんは一瞬こちらに視線を寄越して、でも何も言わずに歩いていた。もっと近くに彼を感じたくなって、彼の前に手を出してみる。直ぐに掴まれて、自然な流れで彼のコートのポケットに収まった。なかで指が触れて、絡まる。どこまでも通じあっているような感覚がして、わたしは身体のすみまで彼で満たされる。

「本当は、誘うか迷ったの。最近忙しそうだし」

 街灯のぼんやりした丸いひかりが、遠くまで点々と続いている。道路の両側に等しく配置されていて、まるで飛行機の滑走路みたいだと思った。彼は黙ったまま、わたしの次の言葉を待っている。

「でも冬の夜って月が綺麗でしょう。一緒に見たかったの」

  こういうとき、いつもならカールも連れてくるのだけれど、今日はぐっすり寝ていたからやめにしたのだった。戸締りはしっかりしてきたけれど、もう少し歩いたら帰った方がいいかもしれない。

「寒いけど空気が澄んでて、空にも奥行きがあるっていうか。夜に関してだけいえば、わたしは冬がいちばん好き」
 確かに、と彼が空を見上げる。ひとみのなかに星が閉じ込められて、揺れる。「我輩もそう思うのである。……君と居るときは、特に」

 彼から視線を逸らして、俯く。コンクリートから響く乾いた靴の音だけが、しずかな夜を漂っていた。芯までつめたくなった空気に、鼻の奥がつんと痛む。

「……どうしたのであるか」
「照れてるの」拗ねたような声が出る。あんなことを、世間話でもするみたいな気軽さで言えてしまうのだから、彼は恐ろしい人だ。考えてみれば言葉のプロなのだから、あれくらい容易いのかもしれないけれど。

「いまみたいな言葉が聞けるの、ずっとわたしだけだったらいいな」
 ポオさんが不思議そうな顔をして、立ち止まる。ポケットの中でぎゅっと手を握ると、控えめに握り返された。すぐに彼の表情がやわらかくなって、微笑まれる。「君にしか言わないのである」
「ほんとう?」
 ポオさんが本当にわたしにしか言わないこともこのあとの返答もすべてわかっているのに、気がつけば聞いていた。わたしは彼の言葉が聞きたいだけだった。
「本当である」
「……ふふ、わかった」

 いつも同じトーンで、同じ表情をして、彼はわたしに伝えてくれる。ひとつの雑さも、慣れもない。毎回きっちり誠実に、わたしに寄り添ってくれるのだ。

「やっぱり、ポオさんには夜が似合うね」
 月も星も、ポオさんのためにあるみたい。
 いままで沢山思ってきていても、なかなか本人に伝えることはかなわなかった。口説いてるみたいで恥ずかしいし、言葉にする勇気もなかったから。「……なんてね。さっきのちょっと嬉しかったから、わたしも伝えてみようと、」

 言葉の終わりは発されることなく、彼のくちびるの熱にとける。わたしはゆっくりと目を閉じた。瞼のうらに、うつくしい月明かりがさしている。






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