3 懐かしい君のとなり

─こんなに素敵な夜だから



 わたしがまず耳にしたのは、ポオさんの声だった。確かめるように何度も名前を呼ばれ、周りを見渡す暇もなく抱きしめられる。

「……良かった」
 彼の手が、背中を何度も行き来する。隙間がなくなるくらいつよく抱きしめられ、少し苦しいくらいだった。
「ポオさん、ごめんなさい」

 温度。匂い。声。すべて、現実のことだ。わたしは本当に、ポオさんの腕のなかに居る。さっきまで過ごした世界が、まだぼんやりと瞼のうらに残っていた。永遠の真夜中。偽物の星。彼の生みだした彼。カール。

「君が戻ってくればそれで良いのである」
「でも、わたし勝手に」

 ポオさんの腕から抜けて、そっと目じりを拭う。テーブルには、先程までわたしが中に入っていた本が閉じた状態で置かれていた。

「置き忘れたのは我輩である」彼は少しかがんで、わたしと目線を合わせてくれる。「あれはもともと君のために書いたものであったし、……」
「わたしのため?」
「もし何かあっても、君を逃がせるように」
 何か起きたら、一生会えなくなる可能性だってある。同僚はそう言っていた。けれど。
「中でね、ポオさんとカールに会った」
「確かに書いたのである」
「この家も何もかもすごく正確で、本物の世界みたいだった」

 テーブルに触れ、指を滑らせる。冷えきった温度がわたしの目を覚ましてくれる。

「ポオさんが一緒に居てくれるのなら、帰りたくないって思ったの」
 彼にわたしの気持ちを、伝えなくてはいけない。いまを逃したらきっと後悔する。

「わたし、これからもずっとポオさんのそばにいたい」拳をぎゅっと結んで、足のさきに力を入れる。つばをひとつ飲み込んで、深呼吸をする。「──ポオさんの考えが、知りたいの」




「ええ、乱歩くんにも電話したの?」
 料理の説明をしたあと、ウェイターが立ち去る。わたしたちはグラスを合わせ、それから話し始めた。
「君が閉じ込められてすぐに」
 ナイフで料理を切り分けながら、ポオさんが答える。
「犯人は居て居ないようなものだったし、いくらわたしでも出られないってことは無いでしょう? ……それに、ポオさんの今までの作品全部読んできてるんだよ」

 戻れないかもしれない、と思ったのはあの世界にポオさんとの永遠を見たからで、カールのいたずら事件がわからなかったわけではない。

「確かにそうなのであるが」普段よりさらに声の音量が下がる。とはいえ少しの音でも響くようなしずかな個室だったから、彼の声は埋もれることなくわたしへ届いた。「万が一にでも君に会えなくなるかもしれないと思うと、手が勝手に」
「乱歩くんはなんて?」
「そのうち出てくるからそのまま待てば良い、と」
「さすが名探偵」

 おそらくわたしのことなど推理するまでもなかったと思うけれど、きっちり答えてくれるところは優しいと思う。分かりにくいけれど、ふたりはちゃんと友だち(もちろんライバルを兼ねた)なのだと微笑ましくなってしまった。

 料理がすべて運ばれ、わたしたちはゆっくりそれを楽しんだ。一息ついたころ、わたしはあらためて彼に言う。

「……あの本、勝手に読んでしまって、本当にごめんなさい」

 こういうことがないように、ポオさんもわたしも気をつけてきたのに。あのときのわたしは寂しさから、何も考えずに彼に繋がるものを求めてしまった。

「本当は事件の内容も設定も、前もって話しておくべきだったのである」

 わたしが避難するための小説。彼がわたしのことを想って、いつも通りの生活を、好きだという夜を、作ってくれた。

「いいの。……わたし、いつかまたあの世界に行きたい」

 店を出ると雨は上がっていた。予報よりも早かったけれど最近は天気が変わりやすく、こういうこともよくある。おかげで家に着くまでゆっくりと散歩を楽しむことが出来た。わたしが本に吸い込まれてしまったことでふたりともかなり疲れていたけれど、そんなの気にならないくらい、久しぶりの会話が嬉しかった。

 家に着き、わたしたちは部屋着に着替える。一刻も早くいつも通りを取り戻したいという気持ちがあった。寝室でベッドに腰かけ、彼を待つ。

 ここへ帰ってきたら、君に伝えたいことがある。わたしが彼に考えを知りたいと申し出てすぐ、彼が言ったことだった。そのあと、ディナーを予約してあるからまずはそこで食事をしよう、なんて珍しいことまで言われてしまったものだから、少し期待をしてしまっている。もし違ったら傷つくから、夜ご飯の最中はあんまり考えないようにした。料理は美味しかったし幸い話すことはたくさんあったから、そこまで緊張することもなく終えられた。

 ポオさんが部屋へ入ってきて、わたしのとなりへ座る。
「色々考えたのであるが、やはり人前で伝えるのは難しい」
 ポオさんは照れくさそうに笑って、小さな箱を取り出した。わたしのほうへ向けられ、蓋が開く。
「ナマエ。我輩と、結婚してくれないだろうか」

 驚きがつよくて、言葉にならない。代わりに涙が一粒こぼれ、また一粒頬を伝った。指輪も彼もぼやけて、何も見えない。それでもしっかりと答えなくてはいけないと思った。彼が自ら店を予約し、きっと台詞やなんかも考え、けれどそれらは使われず、ふたりきりの家で今、プロポーズしてくれた。夢みたいなことだった。

「うん」また涙が落ちる。ポオさんをまっすぐに見つめて、一度ゆっくり呼吸をした。「わたし、ポオさんと結婚する」

 彼がわたしの左手をとり、薬指に指輪をはめる。指輪はすぐ、初めからそこにあったみたいに輝きはじめる。窓のほうへ手をかざせば、あの本のなかみたいな夜が広がっていた。ふたたび泣き出しそうになったわたしを彼は思い切り抱きしめ、ひとつキスをくれる。

「ずっとそばにいてくれる?」
「勿論。……これからもずっと一緒である」

 カールがベッドから降りてくる音がして、ふたりとも視線を向ける。突然ふたりから見られたことに驚いたのか、カールはまたベッドへ潜っていってしまった。

「明日、カールにも報告しなきゃね」
「そうであるな」

 目が合って、お互いに笑みが洩れる。
 夜の光が差し込み、部屋を満たしていた。こんなに素敵な夜に、彼はわたしにプロポーズをしてくれたのだ。こんなに素敵で、いつも通りで、だから愛おしい夜に。

 引き寄せられるようにして、長いキスをする。窓の外はゆっくりとしずかに、朝へ向かっている。






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