2.きっと世界のいちばん果て

─こんなに素敵な夜だから



 ピピ、と軽快な音がして、それからロックが掛かる。終了までの所要時間がパネルに表示され、洗剤入りの水が放出される。中の洋服がゆったりと回りだす。どんどん早くなる。一旦止まって、今度は水が透明になる。洗濯機の観察を始めてから、かれこれもう十分以上が経っていた。つまりそれくらいの時間、わたしは洗濯機の蓋に額を押しつけて中を監視する、可笑しな女だったということだ。

「……面白いから仕方ないよね」

 この洗濯機を買う時、中が見えるのがいい、なんてお願いしたのを思い出す。服はクリーニングに出せばいいと彼は言ったけれど(お金を出せばお店に行かなくても配達してもらえるのだということもわたしは知らなかった)、自分の生活の感覚ごと彼に染まってしまうのはなぜだか恐ろしいことのような気がした。今はそこまで深く考えないけれど、そのときのわたしには強い思いがあった。

 しばらく経ってようやくわたしが顔を上げると、肩に乗っていたカールも満足気にしっぽを揺らした。背中にふわりとした感覚があり、少しこそばゆい。

 実は短時間でもカールを肩に乗せていると、ひどい肩こりになる。だからポオさんにはすぐに下ろしてくれと言われているのだけれど、そんなわけにもいかない。だいたい、いつもはなんとなくわたしのあとをついて回り、家事を始めると近くで座っているのだ。今は特別で、ポオさんに長く構って貰えず寂しいのかもしれなかった。

「そろそろかなって思うんだけどね。どうだろう」

 結局カールは肩から降ろし、抱きかかえることにした。洗濯が終わるまでは時間がある。リビングでポオさんが過去に書いた作品たちを読みながら、完了を待つことにする。

 外は雨が降り続いており、読書をするには最適だった。雨音を聴きながらする読書は晴れた日にするそれよりもずっと孤独な感じがして、わたしは気に入っている。今日はたしか、夜中まで雨の予報が出ていた。

 テーブルに見慣れない本があり、わたしは思わず手に取った。表紙も厚さも、見たことの無いものだった。近くにペンと原稿用紙がある。おそらくポオさんが置き忘れたものだ。部屋から出てきてリビングに忘れ物があるということは、作品はもう完成したのかもしれない。本はテーブルにまだ数冊あった。タイトルや表紙を確認してみる。他はすべて知っているものなのに、今手に持っているこの作品のことは知らない。表紙に彼の名前があるから、おそらく彼の小説なのだろう。乱歩くんに渡す最新作以外は全て読んだと思っていたのに、まだ未読のものがあったなんて。嬉しくなって、本をぎゅっと抱きしめる。それからソファへ腰を下ろし、表紙をなぞった。カールはそんなわたしをじっと見て、専用のベッドへ入っていった。

 彼の作品を読むのはいつだってドキドキする。他のひとの作品を読むときだって、わくわくしたり楽しかったり、そういう感情はあるのだけれど、彼のとは全然違うのだ。世界一好きな人が、世界一素敵な恋びとが、全てをかけて生み出したもの。わたしに宛てて書かれたものではないけれど、それでも真摯に、丁寧に向き合わないといけない、と思う。

 よし、と覚悟を決めて、一ページ目を捲る。途端、目の眩むような閃光がはしり、わたしは咄嗟に瞼を下ろす。


 視界がまっくらな中、頭に何かが触れる。髪をさわさわと撫でつけられ、心地よい。このまま眠ってしまいそうだ。
 なんとか誘惑に打ち勝って、むりやり目を開ける。まず見えたのは先程まで居たリビングの天井と、それから恋びとの顔だった。いつものシャツとチェーンのついた外套、鼻まで伸びた前髪。わたしはポオさんの膝の上で眠っていたようだ。足もとにはカールが座り、少し動けばわたしの知るソファの感覚がする。

「ポオさん……? 夢?」
「よく眠っていた」彼がわたしの髪を梳かしながら、言う。「夢を見たのであるか」
「見たというか、これが夢なのかもしれない」
 彼の手を掴んでみてもちゃんと温かいし、カールの毛並みだってわたしが今朝整えた通りなのだけれど。
「さては、まだ寝ぼけているのであるな」
「……そうかも」

 夢でも何でも良かった。久しぶりに見る彼の姿に、胸がきゅっとする。ゆっくり起き上がると、カールがわたしの足の上に飛び乗った。顎のしたをなぞり、それから耳の裏をやさしく掻く。カールは満ちたりた表情で丸まり、そのまま寝始めた。

「可愛い」改めて言うことでもないのに、寝ているカールを見ていると自然と口にしてしまう。挨拶のように、毎日言っていることだった。
「明日新しいリボンとか買いに行こうかな」
 カールの毛をなぞっていたポオさんの手が止まる。
「いま何時だろう」

 いつもならすぐに確認してくれるのに、返事が来ない。ポオさん? と呼んでみるも、反応はなかった。考えごとをしているのかもしれない。

 慎重にカールを抱き上げ、ポオさんの膝へ移動してもらう。自分の部屋へ行けば携帯も時計もある。それに、先程からどことなく漂っている違和感を払拭出来るはずだった。

 ──気に入っているおおきな窓、洋風の机、ふかふかのベッド。
 どうみても、いつもの自分の部屋だ。月明かりが差し込み、全体が青白いひかりに包まれている。試しにベッドに寝転んでみた。とても夢とは思えない。それでも、しっかりとした輪郭を持っているのに針だけぼやけた時計や、見当たらない携帯電話(単に置き場所を間違えた可能性はあるものの、不思議とそうではないという確信があった)なんかの要素を目の当たりにしてしまうと、最早気がつかないふりをして過ごすことは出来なかった。

 そういえばずっと、雨の匂いも、音もしない。


▽▽▽

 どこかで音がする。何かの警告のような、それにしては日常的な。
 外で降り続く雨にも紛れず、けたたましい。それが洗濯の終わりを告げる音だと気がついたのは、カールが彼を洗面所まで誘導したからだ。カールはこの洗濯が始まる時もここにいた。彼女の肩に乗って、共に中の様子をみていた。

 洗濯機のスイッチを押す。ロックが解除されて、音が止まる。蓋の透明部分から彼女がいつも使っているタオルが見え、彼はため息をついた。踵を返し、リビングへ戻る。状況は何も変わっていない。

 ひとりでにページが捲られていく本は、彼が執筆したものだった。ただ書いただけではない。読んだ者を引きずり込む異能を、この本に使っていた。

「ナマエ」彼の口から、彼女の名前がこぼれ落ちる。カールが心配そうにひと鳴きして、本に手を伸ばす。触れる直前で彼が止め、引き離した。「我輩、どうすれば、……」

 カールをソファへ下ろした時、何かが腕に当たった。ポケットに入れっぱなしにしていたそれは、彼女へ渡すはずのものだった。
 慣れないことをしたからだろうか、と彼は思う。自分で店を予約し、台詞を考え──登場人物たちの台詞を考えるなど彼にとっては造作もないことだったが、それが自分が言うためのものとなると、かなりの時間を要した───あとは彼女を連れ出すだけ、というところまで来ていたのに。

 あろうことか異能力のかかった小説を置き忘れ、彼女を閉じ込めてしまうなんて。最悪だ。こんなについていない日はない、と彼は分かりやすく項垂れた。それからカールの隣へ腰を下ろし、静かに本を抱える。

 ただ、ひとつだけ幸運なことがあった。彼女が入ってしまった世界はミステリ小説の舞台ではなく、彼が緊急時に備えて用意していた避難用の小説世界だったのだ。設定は現実の世界とそっくりの殆ど日記のようなもので、長く居ても誰かが死んだり殺されたりすることはない。かといって、ひとりきりで屋敷で過ごすというわけでもない。彼自身もカールも登場人物として存在していた。異能の世界に慣れていない彼女が避難したとしても混乱しないよう、現実と変わらない、ほとんど通常通りの生活が過ごせるようにしたからだ。入ってしまった状況によっては物語の中だということに気づかず、出てくるのに時間がかかるかもしれない。

 作中では何も起きないに等しいが、"犯人を見つける"という外へ出る条件を満たすため、一応事件は発生する。ごく簡単なものだ。だから彼女さえ外へ出る気になれば、すぐにでも戻ってくるはず──なのだが。彼女が本に取り込まれてから、おそらく二時間以上は経っていた。中と外では時間の進み方も違う。ふた晩──朝が来ないのだから、ふた晩なのだと判別できるかは分からないが──程度経てば事件は起こり、そこで出られるはずだ。

 永遠に会えないということはない。心の中では分かっていても、彼は不安だった。もとより最近は、彼女が隣にいないだけで落ち着かないのだ。


『ポオさんには夜が似合うね』
 ずっと思ってたことなんだけど、と彼女はつけ加え、柔らかな笑みを浮かべる。寝る前に話すのは、恋人になる前からの習慣だった。もっとも、恋人になってからは電話ではなく直接会って、それも眠りにつく直前まで互いの声を聞いていられるようになったのだったが。

「……そうであるか?」
『そう。とても似合うの。朝のひかりを浴びるのも、青空を見るのも好きだけれど、ずっと夜でもいいかなってたまに思うくらい』

 彼女がよく夜の散歩に誘ってくるのはそういう理由もあったのか、と、彼は思った。
 夜が似合う。だからずっと夜でもいい。
 同じことを他の人に言われても、ここまで素直には受け入れられないだろう。彼女の言葉は身体によく馴染んだ。そうして、それは彼女も同じような気がした。自分といちばん近しいところから発せられる言葉。

「それなら、」

 続きを言いかけ、やめる。彼の腕の中の彼女は、すでに眠りに落ちている。


 過去に彼女がああ言ったからといって、ずっと夜のままにしてしまったのは良くなかったのではないか。追い詰められて辛い思いをしているのではないか。事件の謎が解けないということは? 屋敷の外に出て、迷ったら? ────彼女への心配が押し寄せ、彼は気付けば電話のボタンを押していた。こんな時に掛けられる相手は一人しかいない。友人でありライバルの、江戸川乱歩だ。

「ら、乱歩君! 実は我輩の小説に彼女が」
「急に掛けてきて何? 僕忙しいんだけど」

 いつも急に掛けてきて無理難題を押し付けてくるのは乱歩の方なのであったが、彼にはそれを指摘する余裕もない。

「だ、だから彼女が」携帯電話を持つ手に力が入る。
「そのうち出てくるんじゃない? そのまま待ってなよ」
 電話口ではゲームらしき軽快な音と、菓子を咀嚼するばりばりといった音が一緒に聞こえてくる。
「そのうちでは困るのである!……ああ、切れてる」

 彼にしては珍しく大きな声が出たが、それが乱歩に届くことはなかった。代わりにカールが飛び退き、床へ着地する。
 彼は一刻も早く彼女に会いたかった。謝罪し抱きしめ、キスをして、それから伝えたいことがあった。
 彼女の名前を呼ぶ。本のページがはらりと捲れる。

▽▽▽

 もし、ここがポオさんが描いた世界なら。
 彼の異能がどんなものなのか、乱歩くんとどんな対決をしたのか、恋びとになる前のわたしは何も知らなかった。でも、今は違う。彼の過去のことも異能のことも、すべて聞いていたはずだったのに。彼の本を読む前は必ず確認していたはずだったのに。

 ここに来る前の記憶が、だんだん鮮明になってくる。
 今現実の世界にいる彼は、どうしているのだろう。体感では、ここで目が覚めてから丸一日くらいは経っているはずだった。いつまで待っても朝は来ず、結局諦め、ポオさんとカールと少しだけ眠った。起きてからも不思議とお腹は減らず、またカールもおやつやご飯をねだってくることはない。明らかにおかしかった。ポオさんにはどんな話題を振っても、過去の話をしても、きっちり彼らしい返答しか来ない。仕草も眼差しも温度も彼そのものだった。本当に彼と居るとしか思えなかった。

 ここが本当に、彼が描いた世界なら。ずっと思い詰めていたことを、ここに居るポオさんに聞いてもいいかもしれない。
 暗くも明るくもならない空を眺めながら、わたしは考える。適当に歩き回って居るうち、何かが靴に当たった。しゃがんで確認する。ビリビリに破かれたトイレットペーパーが転がり、廊下の先まで伸びていた。

 そうか、と思う。これが事件。彼がわたしに用意した、鍵。
 ねえ。自分でも驚くくらい、心細い呼び掛けだった。「ここってもしかして、ポオさんの世界なの」

 ここへ来て直ぐに変だと思ったはずなのに、言い出せなかった。星も雲もテーブルもソファも、たしかにここにある。彼もカールも、たしかにわたしの目の前に。
 彼は何も言わない。見えないけれど多分わたしから視線を逸らしていて、眉も下がっているだろう。

「ポオさんもカールも、きっと永遠に隣に居てくれるんだよね」

 外へ出て驚いた。家の周り以外の建物が、道が、何にも無かったから。窓から見た夜はこんなに深くてうつくしいのに、どこか現実味がない。

「ここではずっと夜が明けないの?」
「……明けない」

 カールがポオさんの足もとに駆け寄る。慣れた手つきで肩に乗せるとき、距離がぐっと近づいた。彼のグレーのひとみに、わたしが映っている。視線がそらされ、まつ毛の影が落ちる。

「そう。でもまあ、それはそれで良いかなと思う」

 ポオさんとカールと一緒にいられるなら、どんな可笑しな世界でも構わない。──けれど。

「ずっとここに居たいわ」
「それなら、」
「でもだめなの。洗濯回してきちゃったから、帰らなきゃ」ちゃんと思い出した。執筆中のポオさんを待っていたことも、今日あたりに終わるのではないかと期待し、上機嫌で家事をこなしたことも。それから、リビングで本を見つけたことも。「……ポオさん、干し方とかわからないでしょう?」
「確かに、知らないのである」
「きっと今頃困ってる」

 一歩近づいて、しずかに彼に抱きついた。現実みたいな動作で、彼もまたわたしを抱きしめてくれる。
 お互い何も言わず、ただ目を閉じて体温を感じていた。数分が経って、どちらからともなく離れる。意を決して、わたしは言った。

「……犯人はカールね。これで出られるんでしょう」

 今から本物のポオさんに、カールに会えるというのに、わたしの気持ちにはどことなく影が差している。

「わたし、ポオさんが好き」それから、と、すぐ前にいる彼を見つめる。「ポオさんが書いたポオさんのことも。この世界もたしかに、わたしたちの世界だった」

 突然電気が消されたみたいに、視界が暗転する。どこからか雨の音がする。







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