1.ずっと眩しい恋のなか

─こんなに素敵な夜だから



 近くにいるから一緒にランチをしないか、と同僚から電話があった時、わたしはバスタブを磨いているところだった。風呂の入り口にはカールがちょこんと座り込み、ガラス玉のような目でこちらをじっと見ている。二十分後なら出られる、と短く返答をして──同僚はわかった、とだけ言い、電話はすぐに切れた──携帯をポケットへ押し込んだ。髪の毛と軽いメイクをする時間を引けば、風呂掃除にかけられる時間はもう数分もない。わたしは急いで、けれど丁寧におおきなバスタブを拭いていった。今日の夜は泡風呂にすると決めている。カールも一緒に。

 駅のすぐ近くのカフェはテラス席が解放されており、わたしたちは時折ここでランチをしていた。今日みたいに急に誘われることもあればわたしから言い出すこともあって、また仕事が午前だけの日にも足を伸ばしたりもする。

 最近は化粧をしていなくても平然と家のなかを歩けるようになってしまった。これはわたしのなかでは大問題だったのだけれど、目の前の彼女にとってはとるにたらないことらしい。無言でアイスコーヒーを啜る彼女の顔には、「なんだそんなこと」と書いてあるようだった。

「前はもっときちんとしてたんだけど」

 付き合う前、雨でびしょ濡れの時に偶然ポオさんに会い、そのまま家でシャワーを借りたことがあった。その時だって(付き合う前なのだから当たり前のような気もするけれど)、眉毛と口紅くらいはしてから彼の前へと出ていたのだ。無事に付き合うことになり、初めて泊まりがけでのデートをしたときだって本当に緊張した。その次も、次の次だって。ポオさんに素顔を見られるときはいつも自信がなくて、俯いてばかりだった。それなのに。

「家の中できちんとするなんて意味無いでしょ」
「意味無いこともないと思う」
「せっかく同棲してるんだから、多少素の部分も見せていかないと」

 からかうような口ぶりだった。それでも彼女の言葉には嫌味なんてひとつも感じられない。こうやってわたしが悩んでいることを少しずつ聞き出してくれるのが、彼女のいつものやり方だった。

「それはわかってるの。でもなんか、気が緩んでいるような感じがして」
「彼になにか言われたからすっぴんで過ごすようになったんじゃないの?」
「……ポオさんが、家に居る時くらいは素のままでって言うから」

 化粧をした君も綺麗だが、と前置きされたのを思い出して赤面する。ストローでアイスティをかき混ぜ、勢いよく飲む。

「ああ、のろけが始まるのね」
 彼女は呆れた表情で両手を持ち上げ、それから冗談っぽくため息をついた。
「始まらないよ」わたしの声色は思ったよりも沈んで、だから彼女もすこし驚いたように顔を上げた。「最近、ポオさんとの生活に馴染みすぎてる気がして」
「いけないことなの?」
「だって、……だってずっと一緒にいられるとは限らないし」

 口に出した途端、漠然としていた不安は現実に形を変え、わたしの心を占拠する。
「ふうん、別れるかもしれない、とか考えるんだ」
「そういうわけじゃ」ないけど。声にならない声がこぼれおちる。「間違いなく人生でいちばん好きなひとだし、そりゃあ一緒に居たいよ。……でもわたしとポオさんは、なにもかも違うから」
「そうかな。結構似てると思うけど」
「性格の問題じゃないの。帰る場所とか、立場とか、異能とか、そういう」
 いまさら? と同僚は言いかけ、けれどなにか思い直すことでもあったのか、口を噤む。「最近多いもんね、わかるよ」

 最近、探偵社の事務員は結婚ブームだ。社員の数がすごく多い訳ではないから実際に結婚したのは二人だけれど、その他にもプロポーズされたとか、結婚前提で同棲を始めたとか、そういう話ばかりが耳に入ってくる。彼女はおそらく、このことを言っているのだろう。

「まあざっくり言うと、そうかも」同僚の左手薬指にはめられたシルバーの指輪が、日光を受けてきらめく。結婚前提で同棲を始めた、のは彼女のことだ。「今すぐ結婚したい! とかはないけれど、でも」
「ポオさんが将来をどう考えてるのかは気になる、と」
「そうそう、そうなの」
「聞いちゃえば? 何気なく」

 彼女はわたしの視線に気がついたのか、左手のペアリング──二週間ほど前から着けはじめた、"彼氏とお揃い"のもの──に右手で触れる。

「何気なく、はこの世でいちばん難しい質問方法だわ」

 ポオさんが執筆している時以外はたくさん話をするけれど、将来について真剣に語り合ったことは一度もなかった。ただお互い一緒にいるのが楽しくて、安心で、だから同棲している。

「あなたたち沢山おしゃべりする割に、気遣いあってるのね」
 私ならすぐ聞いちゃうけどな。彼女は呟いて、考え込むような仕草をする。
「結婚なんていつしたっていい。でも私たちは、普通の仕事をしているわけじゃあないのよ。ましてやあなたの恋人は、アメリカの異能力者。何か起きたら、一生会えなくなる可能性だってある」

 一生会えなくなる。その言葉が頭のなかに大きく響いて、波紋のように広がっていく。会えなくなる。ポオさんと、カールに。

「無理に将来の約束を取り付けたほうが良いって言ってるんじゃないのよ」
 わたしがちいさく相槌を打つと、同僚はふっと表情を緩めて、続けた。
「私は友達として、彼がどう考えているのかだけでも確かめるのをおすすめする」



 家に着くと、ちょうどポオさんとカールも帰ってきたところだった。ランチの後同僚と一緒に買い物を済ませたので、空はすっかりオレンジに染まっている。

 玄関でただいまとおかえりを二回分交わし、短いキスをした。ただ帰宅時間が被っただけなのに、わたしはそれだけで運命のような気持ちがしてくる。このちいさな幸運だけで、このさき一緒に居られる時間が増えたような。

 リビングへ着いてまず、カールにおやつをあげた。あんまり食べさせすぎるのも良くないとわたしもポオさんもわかっているのに、どうしてもあげてしまう。あの素晴らしく可愛いひとみで見つめられても我慢できる人が居たら、それはそうとうすごい偉業だと思う。だからわたしと彼がカールに甘いのは、仕方のないことなのだ。カールはお出かけで疲れていたのか、おやつを貰うとすぐに部屋(家を模した犬用のベッド)に引き上げていった。
 ルームウェアに着替えようとして、ふと思いつく。

「今日の夜、外で食べない?」

 なんとなく、彼と一緒に歩きたい気分だった。タクシーを呼んで、街並みが流れていくのをふたりで眺めるのもいいけれど、今日はちょっとちがう。ポオさん以外の人と長く過ごした日はかならずといっていいほど、彼のとなりで歩きたくなった。

 色づき始めた街の紅葉も、秋の夕暮れも、彼と見たい。……けれど、すぐに後悔する。せっかく帰ってきたばかりなのに、わたしは気遣いのひとつもできない。ちいさなため息が洩れる。「帰ってきたばかりだし、疲れていたら別の日でも」
「大丈夫である」それに、とポオさんが続ける。「今日はまだ君と話せていない」
 彼は脱いだばかりの外套を羽織りなおし、一緒に掛けてあったわたしのコートも取ってくれた。そのまま広げて、わたしが来るのを待っている。「……ありがとう」

 カールを起こさないようにしずかに家を出て、ポオさんが鍵を閉めるのを待つ。それから片手だけをコートのポケットに入れて、もう片方は彼へと伸ばした。目が合う。彼が微笑んで、わたしの手を取る。

 最近はこのあたりのお店にも詳しくなってきて、ますますこの土地にも彼にも慣れてきているような気がする。友だちと行くのに最適なオシャレできらびやかなカフェとか、例えば今日ポオさんと行ったような個室のしずかなレストランとか。散歩のルートにだって詳しい。人懐こい大型犬の居る道だとか、木の揺れる音が心地よい公園の脇道だとか、ガーデニングに凝った素晴らしい庭だとか。

「わたし、もとからここに居たみたい」

 ゆっくり話しながらディナーをしているうち、外は深くて暗い青に沈んでいた。海の底みたいな色。透明度の増した雲のすきまに、星がちらばっている。わたしはポオさんのほうへ頭を寄せ、瞼を下ろした。風の音と、コンクリートの上を歩く音。

「ポオさんの隣がいちばん安心する」

 だからどこへも行かないで。わたしとずっと一緒に居て欲しい。心のなかでそんな想いがあふれて、はっと目を開ける。

「我輩も、君が近くにいると落ち着くのである」
「……うれしい」
「きっと、カールも」
「それは自信ある。出会ったときから仲良しだから」

 ふふ、と声が洩れる。ポオさんを見れば、彼もまた楽しげに笑みを浮かべていた。
 実際カールに噛まれたことは無いし、ベッドで一緒に眠るときはわたしの近くで丸まっていることが多い。それに同棲を始めてからというもの、ブラッシングがめきめきと上達した。

「明日からまた新作、書くんでしょう?」
「そうであるな。もう設定とトリックは浮かんでいるし……」

 彼の、小説やミステリの話をする時の声色や表情、仕草──たとえどこに居ても目線を離せなくなるくらい、わたしはそれらが好きだった。他の話をするときとは違う空気。闇に覆われていた真夜中に、ふっと月の光が差すような、そんな感じ。

「さすが。楽しみにしてる」
「頑張るのである」ああでも、と彼はちいさな声で続ける。「君にはまた色々迷惑を、……」
「どうってことない。ポオさんもそろそろ慣れなきゃ」

 カールの世話やその他家事、食事の準備など、ポオさんの執筆中はほとんどわたしがこなしている。その間は彼がなるべく小説に集中できるように、と、会話も最低限だ。毎回寂しい気持ちはあるものの、出来上がる作品はほんとうに素晴らしいので、何も言うことは無い。彼のいちばんやりたいことをいちばん近くで支えられるのだから、この上ない幸せだと思っている。迷惑なんて以ての外、わたしだけに与えられた特権なのだ。

「今日は泡風呂にするの。カールと一緒に入ろうと思って」
「楽しそうであるな」

 本当は気温が低くなる明日にする予定だったけれど、うるさくしては彼の作業に差し支えるかもしれないと思ってやめたのだった。入浴剤入りのお風呂なんていつ体験しても楽しいものだし、どうせ楽しいことをするなら彼が一緒に居られるときが良い。

「ポオさんも一緒に入る?」
「え、わ、我輩は」

 急に電話が鳴ったときみたいに、ポオさんがうろたえる。わたしの思いつきに、あの特殊な着信音ほどの威力があるなんて。
 耐えきれなくなって、小さく声を立てる。「ふふ、冗談だよ」

 というか、わたしだってそんな性格ではないのに。付き合ってかなり経つけれど、一緒にお風呂に入ったことなど一度もない。世の中のカップルはよく恥じらいもなく──実際その場では恥ずかしいと思っているのかもしれないが、想像しただけで赤面してしまうわたしやポオさんから比べると、やはり恥じらいもなく、なんて表現になる──そんなことが出来るものだ。

「わたしには到底無理」
「……我輩もである」

 だいぶ家が近づいてきたところで、急に同僚の言葉がよみがえってくる。横断歩道に差し掛かり、わたしも彼も足を止めた。
 ──私は友達として、彼がどう考えているのかだけでも確かめるのをおすすめする。
 深く息を吸い込んで、しずかに吐き出す。

「ポオさん」
「なんであるか」

 将来のことどう思ってるの。国へ帰るときはわたしも連れていってくれるの。結婚とか考えてたりするの。──言いたいことはいくらでも浮かんでくる。けれどそれらはひとつも発せられることなく、わたしの口は薄く開いたままだ。彼の顔を、ひとみを見た途端、何も言えなくなってしまった。どこまでもやさしくて柔らかな、わたしにだけ向けられる視線。微笑み。きっとわたしの見ることが出来る、この世でいちばんうつくしい光景だった。

「やっぱり、なんでもないの」
 でも、と彼がわたしの腕に触れる。
「ほら、青だから。……カールも待ってるし、早く帰ろ」
 優しい恋びとは困ったようにわたしを見つめ、けれどそれ以上、何も言わない。






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