エメラルドの夜



 夏は暗くなるのが遅いから、一日の時間が長くなった気がする。ちょっと得した気分だ。けれど今日は仕事──乱歩がわたしに押し付けた報告書類の片付け──が長引いて、外はすっかり闇に包まれていた。道を照らす街灯も遠くてちいさい星々もこんなに身近で温かいのに、建物の人工的なひかりだけはどこか他人行儀な感じがするのはなぜだろう。中にひとがいると分かるから?──でもそれなら、壁一枚へだてたところで誰かが頑張っているのだという事実に、親近感さえ湧きそうなものなのに。

 歩くのをやめて、空を見上げてみる。規則的に響いていた足音が止まる。一拍遅れて、後ろでも。

 濃紺に映える淡いきらめき。ぼんやりとまるい白。建物より車よりすれ違う人たちより、ずっと近くてほんもののひかりたち。今時期限定の懐かしくてせつない匂いが風に乗って、わたしの髪の毛を揺らした。一緒にいる彼のことも忘れて、夏の夜のまんなかに佇んでいたくなる。

「僕と居るのに何考えてるわけ。早く帰ろ」
「あと少しだけ。ちょっと疲れた」

 待てない、と言われるのを覚悟して、けれど足はしっかり地面につけたまま、ぬるくて透明な空気を吸い込む。
 今日の彼は何かおかしいのではないかというくらい、よく待った方だと思う。定時に帰ろうと思えば帰れたのに、わたしに合わせて社でご飯まで食べて、そのあとはひたすら報告書が出来上がるのを見ていた。今は一刻も早く帰って眠りたいはずだ。

「もう待てない」

 乱歩が、少しだけ冷えたわたしの手を掴む。指さきがゆっくりと絡んで、繋がる。

「……そもそも、わたしのこと待ってないで帰れば良かったのに」どうせ同じ家に帰るのに。思いながら、再び歩き始める。
「先に帰ったって、家で待つことになる」
 そんなのつまんないよ。まさに今つまらないことが起きているかのような声色で、乱歩が言う。「それに、君と夜景を眺めるのも悪くない」

「夜景、……」
「いま、僕はそんなもの興味無さそうって思っただろ」

 その通りだったので、ちいさく相槌を打つ。夜景は人を殺さないし、死んだりもしない。甘いお菓子でもなければ可愛い猫でもないのだ。

「景色なんて全然興味無いけど」歩道橋を一段ずつ、ゆっくり登っていく。「好きなものを見ている時の君は面白い」

 好きなもの。たしかに、わたしはこの街の空気も建物も、空も風も好きだ。夜景も好きなものに入るのかもしれない。

「面白いかなあ」
 可愛いとかじゃなくて?と冗談混じりに聞いてみる。てっきり一蹴されるかと思ったのに、彼は何も言わなかった。

 橋の上は広く、あかるい。柵の下に取り付けられた灯りは十分すぎるくらいに道をはっきり縁どっていたし、さっき遠いものだと決めつけていたビルや住宅のひかりも、手を伸ばせば触れられそうなほど近かった。空は彩られて、なんだか騒がしい。騒がしいけれど、うつくしかった。

「少しだけでいいから、」溶けそうなほどぴったりくっついた手のひらから、熱が流れ込んでくる。「僕のことも考えててよ」

 わたしの全部を独り占めしているはずの乱歩が、少しだけでいいから、なんて。驚いて彼のほうを見ても、視線はあわない。「……わかった」

 エメラルドのひとみのなかに、夏の夜がひろがっていた。






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