普通の今夜のことを



 お疲れさま。それじゃあね。また明日。皆の別れの挨拶に、なんとなく心配の色が滲んでいる。もう、子どもじゃないのに。わたしはひとりでだって、それなりに生きていけるのに。

 最近、わたしは引越しをした。一人暮らしをするために。もちろんもとから一人暮らしに憧れていた、というのもあるけれど、いつまでも福沢さんにお世話になっている訳にはいかないというのが、いちばんの理由だった。

 探偵社の一員であるとはいえど、数の少なくなってきた社員寮の枠を埋めてしまうことは躊躇われた。なんというか、設立当初から社に居るわたしが住むのは違う感じがしたのだ。考えた結果、探偵社から徒歩十分くらいの場所にある比較的家賃の安いアパートに決めて、今のところは結構快適に過ごせている。

 といっても、引っ越してから今日までずっと、誰かがかわるがわる──もしくはほとんど全員で──部屋へ遊びに来ていて、わたしにはひとりを楽しむ暇も、また寂しがる時間もなかったのだった。皆が来てくれていたときはルームシェアをしているようで楽しかったけれど、どこか気を使わせているようで申し訳ない気持ちもあった。

 今日からほんとうにひとり。風がストールを揺らした。ゆっくり息を吸い込む。つめたい匂いがする。清澄な空気となにかに反射したみたいに鋭い星のひかりが、わたしを遠ざける。

 冬にこうしているとときどき、自分がひどく孤独なもののように思える。特に夜はそうだ。夜がいちばん親しげなのはきっと夏。この世界がずっと夏であれば、わたしはもっと強くいられる。

 つま先まで意識をして、背筋を伸ばして歩く。ちゃんとした大人に、探偵社の一員に、見えるように。誰も見ていなくたって、構わない。

「ねえ、歩くの早いんだけど」

 後ろから聞こえた声に、びくりと肩を揺らす。一瞬息が止まって、すぐに吐き出した。誰のものより聞き慣れた声は、わたしがなにか思うよりずっと早く、わたしの身体を安心させる。

「いつから着いてきてたの」
「着いていってなんかないけど。僕は君の家に向かってるだけだ」

 乱歩は淡々と言って、わたしのとなりに並ぶ。ミルクチョコレートの色をした外套がちらちらと視界を掠めた。

「……来てくれるんだ」
「一昨日置いていったお菓子はまだ食べてないし、君の家にはラムネもあるからね」

 道路を挟んだ向こう岸に、コンビニの煌々とした看板が見える。歩いていくうち、ひろびろした駐車場が顔を出す。今の時間は空いているようだった。つい、足がそちらを向きそうになる。あのコンビニは瓶入りのラムネを年中置いているから、お気に入りの店なのだ。
 道に沿った植木の中で、捨てられたお菓子の袋がバタバタとなびいている。わたしはハッとして、立ち止まった。

「ラムネはあるけど、お菓子は無いかも」言葉尻が詰まって、しどろもどろになる。
「かもって何。無いなら無いっていいなよ」
「じゃあ、無い。昨日晶子ちゃんと食べちゃったから」ひとりで買ってきてよ。そう言われる覚悟もあった。「帰るまでに買い足そうか」
 本当は明日にでも買いに行こうと思っていた。彼がいつ来てもいいように。まさか、今日来るなんて考えもしなかったのだ。
「じゃあそこ寄って。君の奢りだからね」

 しずかな夜に似つかわしくない光のもとを指さして、乱歩が方向転換する。慌てて横断歩道のボタンを押した。赤信号のゲージがひとつずつ減って、青に近づいていく。

「食べちゃったからね。それは奢ります。むしろ、奢らせていただきます」

 普段は乱歩の食べものに手を出そうなんてまったく思わないのだけれど(誰かが間違えて食べようとしているものなら全力で止める。後々面倒くさいのを知っているから)、お酒の力っておそろしい。まだ全然慣れないけれど、楽しく酔えるタイプだということはわかってきたところだ。
 乱歩はわたしの言い方が可笑しかったのかふっと表情を緩めて、横断歩道を渡っていく。

「こういうときさ、白いところだけ踏んで歩きたくなっちゃうんだよね。今でも」

 コンクリートに規則正しく塗られた白を踏み越える。子どもみたいに、ここから出たら死ぬ、だとかそういうルールを設けているわけではないけれど、なんとなく続けてしまっている習慣だった。

「そんなことして楽しいの」

 莫迦だなあ。口には出されなかったけど、表情で十二分に伝わってきた。それでも彼の革靴は白線の上を進んでいる。嬉しくなって彼を見て、けれどすぐに横断歩道は終わってしまった。肩から落ちかけたカバンを持ち直す。上機嫌で先を行く後ろ姿を追いかける。車のライトに縁取られた彼の横顔が、あのうつくしい翠のひとみが、目の奥に焼き付いていた。



 ドライヤーで髪を乾かしながら、そっとリビングをのぞく。乱歩は襟のついたシャツみたいなパジャマを着て、わたしが買ってきたお菓子を食べている。帰ってくるなり人の家の箪笥をあけ、お風呂に直行したのだから本当に驚いた。風呂が面倒くさいといって駄々を捏ねていた彼が懐かしい。朝になったらもっと面倒くさいんだから。何度も言った台詞を思い出す。それにしても寝間着なんて、いつの間に置いていったのだろう。引越しの当日、彼はここに居なかった──どうして僕が行かなきゃいけないの、と手伝いを頼む前から断られた──のだし、わたしの家の収納なんてわたしでさえまだ把握しきれていないのに。ずっと、今日は泊まりに来るつもりだったのだろうか。

 冷蔵庫からラムネを出して、シンクの中で栓を抜く。わたしは乱歩といる時しか飲まないけれど、だからこそ特別なもののような気がして好きだった。彼の横へ座って、ラムネの瓶を差し出す。意図を理解した彼もまた、自分の瓶をわたしへ向ける。乾杯。何に、なのかはわからないけれど。高くて涼し気な音が鳴る。ガラスのなかで透明な炭酸が波打つ。

「本当に泊まっていくの?」
「さっきからそう言ってる。明日は非番だし、君だって構わないだろ」
 わたしはラムネを一口飲んで、
「うん、まあそうだね」
 広げられたスナック菓子を手に取る。夜のお菓子は禁止していたけれど(お酒を飲む時は別)、今日くらい良いか、と思う。乱歩が泊まりに来てくれる、こんな特別な夜なのだから。

「今日だけじゃない。明日もそうするかもしれないし、まあ僕の気分次第だね。いつでも来ていいって、君言っただろ」
 ということは、毎晩特別な夜になってしまうかもしれないのか。ラムネと彼を交互に見る。「嫌だなあ、太っちゃう」
「ハア? 僕が来るのと関係ないだろ」
「……ああ、違うの。なんでもない」
 テーブルの下に放っていたリモコンを手繰り寄せて、テレビをつける。
「ふうん。まあいいけど」

 乱歩がわたしからリモコンをうばって、すぐに電源を消す。もうそろそろニュースが始まる頃だからつけたのに。言いかけて、そんなのは彼の推理の範疇か、と飲み込む。

「ねえ、なんか面白い話して」
「無理だよ」

 テレビを消してまで聞かせるような話は持ち合わせていない。大抵のひとはそうだと思う。彼の日常に勝る刺激的な話なんて、聞けるものならわたしが聞きたいくらいだ。
「ちょっとは考えてから答えなよ」
 もう僕寝る、と立ち上がりかけた乱歩の手を掴む。一瞬目が合って、それから、彼がわたしのとなりへ戻ってくる。

「じゃあさ、……窓開けない?」

 お菓子の袋を片付けて、ベッドから毛布を下ろす。電気をぎりぎりまで暗くして、常夜灯だけにする。どんな返答が来ても強行するつもりだった。面白い話は出来ないけれど、好きなことを共有することは出来る。

「ハア?嫌だよ。寒い」
「家主はわたしだもん。嫌なら帰って。それかコート着て」
「君ってほんと莫迦。ありえない」
 乱歩はしぶしぶ、といった様子で近くにあった毛布を羽織る。
「それわたしの」
 きっとこうなるから、コート着てって言ったのに。不満を飲み込んで、窓を開ける。全部を開け放つ勇気はないから、半分くらい。
「今度乱歩のも買っとくよ。毛布」

 諦めて、彼のとなりに腰を下ろす。清冽な冬の風の匂い。懐かしくて、でも親しさはそんなになくて、これを嗅ぐときの気持ちってどう表現すればいいか分からない。不思議なことに、外で感じるものとは違うのだ。家のなかと、外の世界。暖かくて安心出来る家のなかで冬を感じるとき、わたしは自分を孤独に思ったり、寂しくなったりすることはない。乱歩が近くにいると、それらはもっと遠いものになる。

「要らない」
「ええ、じゃあわたしは毎回取られるってこと」

 彼がまた家に来てくれる保証は無かったけれど、つい毎回という言葉が出る。ふたりで居ると子どものときに戻ったみたいで、彼がずっとそばにいてくれるような気がしてしまうのだ。

「そもそも窓を開けなければいい。それに」部屋ごと冷蔵庫になったみたいな風に、乱歩が顔をしかめる。「別に一枚でいい」

 ばさりと音がして、彼を包んでいた毛布が開かれる。手を引かれて、わたしはそのなかに取り込まれた。ありがとう、という声に驚きも動揺も全部が滲み出ている気がして、俯く。

「……たまに、こうして冬にね、窓を開けるのが好きだったの。ひとりのときに」

 夜、誰も起きていないのを確認して、しずかにカーテンをひらく。それから鍵を外して、少しずつ窓を開けていく。外の匂いがする。あの瞬間。ひとりきりの思い出たち。

「それくらい知ってたけど。おかげで僕の部屋まで寒くなってたし」
「ええ、そうだったの? 言ってよ」

 毛布のなかで手が触れて、すぐに引っ込める。昔なら気軽に手を繋いだりしたものだけれど、今はそうはいかない。わたしは一社員で、彼は探偵社が誇る名探偵なのだから。

「言ってもやめないだろ」
「やめないけどさ。でも、あのときのわたしもこうして乱歩と一緒に居られたら、もっと楽しかっただろうなって」

 空は夜に染まりきらず、紺を薄めたみたいな淡い色合いをしていた。もちろん星も月も見えなくて、あるのは分厚い雲だけだ。辺りはしっかりと暗いのに、空は闇色にならない。変な感じだ。

「ふうん」乱歩のひとみのなかで、雲が流れていく。まばたきの度に睫毛の影ができていた。「君ってほんと僕のこと好きだよね」
 乱歩の話はいつも唐突だ。けれどわたしはそれにもすっかり慣れていて、だから意図や考えも、大体はわかってしまう。

「それ、自分で言う? まあ、乱歩らしいけど」

 意識しないうちに口角が上がって、頬が緩む。こんなことを言い合えるのは、きっと大人になった証拠だった。
 同じ姿勢で居るせいで肩が痛くなってきて、毛布のなかで身動ぎする。部屋がしんと冷えて、あたらしい空気に満ちている。

「ずっとそのままで居てよ」また、手がぶつかる。今度は避けなかった。わたしも、乱歩も。
「……言われなくても。おかげで万年、彼氏いない歴イコール年齢だよ」

 乱歩がいたずらっぽく笑う。黙っていれば本当にうつくしいひとなのに、とも思うけれど、彼のこういうところ──他の人に誤解されるような、普段の言動とはまた違った──に触れるとき、心の底の方が焦がれるような、そんな気持ちになるのも事実だった。

「何笑ってるの。これでも、結構声掛けられたりとか」
 はあ、と演技がかったため息をつく。すぐに笑ってしまったから、あんまり意味はない。
「へえ」彼の長い前髪が、風を受けて微かになびく。
「わたしだっていつか結婚して、」
 どっかの社長とか、ああ、警察の人とか。もしかすると依頼で出会った人とか。指をおって数えていくわたしの手を、今度ははっきりとした意図を持って、乱歩が掴む。本人に聞いたわけでも彼が何か言ったわけでもないけれど、まさかたまたま掴んでしまった、なんてことはないのだから、多分そうなのだ。

「……まあ、でも」振りほどくのも気が引けて、そのままにする。「いまは探偵社の仕事がすべてだから、すぐじゃないよ」
「そういうことじゃない」

 君ってほんと莫迦だな、と呟くようにいって、乱歩はわたしから離れた。ゆっくりと窓が締められる。鍵をかける音が、やけに大きく響いた。機嫌を悪くしたのかと思って見上げても、彼の表情は見えない。私も立ち上がる。支えを失った毛布が、パタリと落ちる。

「あのね、わたし……乱歩の前から居なくなったりしないよ」結婚だって、と続ける。「乱歩がどうしても嫌だって言うなら、きっとしない」

 わたしが乱歩に甘いのは元からだ。今に始まったことじゃない。……それに。普通の幸せ、みたいなものを望めるようになったのだって、彼のおかげなのだから。

「僕はそんなこと言ったりしない」しずかな声色だった。口角はすっと下がっている。「でも、」

 続く言葉をじっと待っていても、乱歩は何も言わなかった。床に向けていた視線を持ち上げる。彼の顔がすぐ近くにあって、後退りしそうになる。びっくりした。伝える前に、肩に彼の手が触れた。
 ペットボトル一本分の距離。どこかで聞いたことがある。一秒、二秒、三秒。心の中で数える。目が合ったまま、ふたりともうごかない。「あ、六秒」

「……何、数えてたの」
 こんなときに。彼がうすく笑う。呆れたような、それでいてどこか愛おしげにも見えるような、そんな顔。
「ううん。……いや、数えてたっていえば数えてたのか」
「言いたいことあるなら言えば」
 どう考えてもそれはこっちの台詞なのだけれど、あまりにも素っ気なくていつも通りの彼に、反論する気も起きない。

「好きなドラマでね、言ってたんだ」これを聞いて、乱歩はどんな顔をするのだろう。「恋の六秒ルール。こうして六秒見つめ合ったら、それはもう恋に落ちた証拠なんだって」
 沈黙。その間も、乱歩のひとみにはわたしだけが映っている。
「……ふうん」
「思い出しただけだから。その、……他意はないっていうか」

 本当に一瞬のできごとだった。まばたきをするうちに、という表現が当てはまるくらい、ほんの短い時間。くちびるが触れて、離れるまでの。

「当てにならないね。今に始まったことじゃない」
「……そうかもね」ちいさく言って、微笑む。上手く笑えているかわからなくて、窓に映る自分を見た。思った通りのちぐはぐな表情をしていて、今度はふふ、と声が洩れる。「こういうの慣れないから、どういう顔していいかわかんない」
「別に、僕も知らないけど。でも笑うのは変だ」
「変って何。恋は名探偵の専門分野じゃないでしょ」
「君よりは分かるね」
「ええ、それはない」
 ハア?と言い返しかけたところで、乱歩も笑う。莫迦莫迦しい、と顔に書いてあった。わたしも同じ気持ちだ。でも、こんな風に笑っている時がいちばん、乱歩を近くに感じる。

 忘れたくないな、と思う。友人としての乱歩を。こんな風に過ごす、普通の今夜のことを。

「ずっと一緒にいてくれて、ありがと。どんなときも乱歩が居てくれたから、頑張れた」

 どんなときも。それは、今日だってそうだ。今日だって、誰も来ないのをわかっていて、こうしてわたしのそばに居てくれるのだ。わたしが寂しくないように。ひとりにならないように。

「それは、僕だって同じだ。社長が、ナマエが、探偵社の皆が居なかったら、……」

 乱歩のことをそっと抱きしめる。彼もまた、わたしの背中に手を回して、軽く力を込めた。それは家族がするような、または親友同士のハグだった。わたしたちにとってただ自然なことだった。 

「探偵社、上手くいってよかったよね。もちろんこれからも、大変なことは沢山あるだろうけど。……でも、よかった」

 彼の肩に額をつけたまま、言う。息を吸い込む度嗅ぎなれた彼の匂いがして、涙が出そうになる。すっかり世界が変わっても、きっと彼だけは正しくて、清らかで、変わらない。そう思った。

「うん」
 ただひと言相槌をうって、乱歩はもう一度わたしを抱き寄せる。それはどこか、幼い子どもが親とする抱擁に似ていた。

▽▽▽

 夜が明ける。開けっ放しのカーテンの束が、乱雑に端へ寄せられていた。朝焼けが部屋をいっぱいにして、ひかりをそこかしこへ放っている。それはシーツの皺にもテーブルのラムネ瓶にも彼の髪にも均等に降り注いで、一日のはじまりを告げていた。やわらかくて手触りの良いベールのようにも見えた。

 身体をわずかに起こして、乱歩のことを眺める。昨日からどこも変わっていない。彼によく似合う寝間着も、わたしが長すぎると思う前髪も。片手で頬杖をついて、そっと髪に触れる。何度か撫でたり梳かしたりするうちに目が開いて、
「おはよ」はっきりした口調で言われる。彼は寝起きが良いのだ。
「……おはよう」

 ぐっと手を引かれて、彼の腕のなかへとじこめられる。戻れない、と思った。それで良かった。
 わたしはずっと覚えている。きっと、乱歩も。もうこない昨日の夜のことを。







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