ハッピーバレンタイン!2022




 昼下がり。わたしはポオさんと並んで、ソファに座っている。ふたりとも買ったばかりの本を読んでいるところだった。昨日は珍しく外でデートをして、帰りに本屋に寄ったのだ。

 わたしが読むのは大抵恋愛小説だけれど、彼が読むのは難しい専門書だったり外国のミステリだったり、ちょっと覗いてみたところで全然分からないものが多い。けれど、それでよかった。もちろん同じものを共有するのも素敵だけれど、わたしたちには今くらいがちょうどいい、と思っている。というのも、彼の読んでいるものはあんまり重要じゃなくて、わたしは読書中の彼を眺めるのが好きなのだ。伏せられたひとみ。まつ毛の影。文章を追う真剣な表情。どれをとっても魅力的で、わたしは自分の読んでいた本のことも忘れて彼のことを見つめてしまう。

「……そんなに見られると、集中できないのである」
 ポオさんが本を閉じて、ちいさく笑った。たまにこうして気づかれてしまうこともある。目が合って、わたしも笑った。「ごめんなさい。本読んでるときのポオさん、素敵だから」

「ナマエ」彼は意外そうな顔をして、それからわたしの名前を呼んだ。どちらからともなくみじかいキスをする。瞼を上げてすぐ、彼のやわらかい微笑みが目に入る。彼の恋人になってだいぶ経つけれど、こういう特別な瞬間には慣れられそうにない。最初は彼も緊張している様子だったのに、ここ最近はわたしばかりがどきどきしている気がする。

 ポオさんがカールを抱き上げて、膝に乗せる。手を伸ばして、ふわふわの毛がきゅっと集まる首の後ろをゆるりと撫でた。わたしが撫でている方向に頭が傾いてくるのが可愛らしい。夢中になってカールを撫で回していると、ポオさんの手がわたしの髪の毛に触れた。そのままするすると髪を梳かされて、心地良さに手のほうへ傾きそうになる。「わたしはカールじゃないのに」

 もう、と拗ねたふりをしながら、顔を上げる。わたしを見つめるポオさんのひとみがやわくきらめく。そのあとに続けようとしていた言葉は、またたく間にどこかへ消えてしまった。彼はときどきはっとするくらいわかりやすく、わたしに愛を伝えてくれる。全身で。

「……紅茶でもいれようかな」
 ひとりごとのように言って、立ち上がる。このまま彼と見つめあっていたら、どうなるかわからないと思ったからだ。数日前からの計画も今朝の早起きも、無に帰してしまう。
「では我輩も、」
「ううん、座ってて」

 彼の膝に触れて、少し迷ってからキスをした。一秒にも満たない、ほんとうに触れるだけのもの。すぐに背を向けて、キッチンへ駆け出す。靴音がわざとらしく響く。頬に熱が集まるのを感じる。



 なんでもない風を装って、テーブルへ紅茶とケーキを置く。彼をすこし窺って、となりへ座った。
 家でゆっくりしているときはこうしてよくお茶をする。けれどいつもは市販のクッキーとか、たまに和菓子とかを一緒に食べていて、だからお昼のティータイムにケーキが並ぶのはなかなか珍しいことなのだった。彼はお金持ちだけれど、毎日高級なものばかり食べているわけではない。あんまりこだわりがないだけなのかもしれないけれど、わたしは彼のそういうところも好きだった。

「こういう行事って、あんまり気にしないできたけれど」いつも料理をする時よりも数倍気をつけて切り分けたチョコレートケーキを見る。数日前からレシピ本を読み込んで研究しただけあって、わたしにしては上出来だった。
「急に思い立って、作ってみたの。その、……バレンタイン、みたいな」
「これを、……我輩のために?」
「そう。朝、ポオさんが新作の続き書いてる間に焼いた」

 カールを抱きあげて、床へ下ろす。動物にチョコレートは危ないから、しばらくはソファへ乗せられない。ごめんね、と呟くと、カールは早々に諦めて自分のベッド──犬用のもので、なかなか座り心地がいい──に丸まった。

「そんなに凝ったものじゃないけれど」
 言いながら、ケーキにフォークを刺す。わたしが食べ始めてから少しして、ポオさんもお皿を持ち上げた。しずかに一切れずつ、口へ運ぶ。彼がどんな顔をして食べているのか見たい気持ちもあったけれど、それと同じくらい不安な気持ちもあって、わたしは結局自分の分を食べ終わるまで、話すことも彼を見ることも出来なかった。

「……美味しかったのである」
 ありがとう、と声をかけられて、ようやく彼のほうを向く。
「ほんとう?良かった」

 空になった皿がテーブルへ置かれる。背もたれに体重をかけて、天井を眺める。ここ数日身体の周りをたゆたっていた緊張が解かれて、ため息が出た。

「また、来年も」
 手が触れて、指が絡められる。至近距離で見つめられて、息をするのも忘れそうだった。
「作ってくれないだろうか」

 グレーのひとみには、わたしだけが映っている。彼にこんな風に言われて、断れるわけがなかった。喜んだ顔が見られるなら、頼まれなくたってきっと、作るのだけれど。

「もちろん。ずっと、ポオさんだけに作るわ」

 チョコレートの香りに包まれた、バレンタインの昼下がり。わたしたちはゆっくりと見つめあって、それから溶けそうなくらい甘いキスをする。






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