揺れて波立つ星空



 一面の砂浜、たくさんの水、貝がら。要素はほとんど揃っているのに、それでも海でないってのは、不思議。弱いけれど潮の匂いがして、目を瞑ると波が寄せる音だけが響く。日中なら見えていたであろう向こう岸も空の黒に溶けていて、月明かりと星々に照らされる水面はいつか写真で見た真夜中の海を思わせた。

 違いは他にもあるけれど、とりあえずは周りを陸で囲まれていたら湖、ということらしい。
 着いたそばから疑問を投げかけたわたしにそんな回答をくれた彼は、やっぱり博識で、それから格好良い。さすがになんでも知っているというわけではないけれど、私が発する大抵の思いつきや質問は、彼によってその場で解決されるのがほとんどだった。

「部屋から見るよりずっと綺麗。それに、消灯時間を過ぎてるっていうのが、また良い」

 背徳感の伴う夜というのは、なんて素敵で楽しいものなのだろう。夜中に皆の元から抜け出して、好きな人とふたりきりになる。まだ宿泊研修が始まって一日目だというのに、こんなに自分に都合の良いことが起こって良いものなのだろうか。
 寮も部活も違うクラスメイトたちと四六時中一緒にいる特別感。旅のしおりに沿って足早に進む時間。どこを見たって、普段とは違う景色たち。そんな非日常から更に抜け出した非日常、は目が眩むほどの強い輝きと淡い痛みをもってわたしの胸に染み渡った。

「消灯時間を過ぎているから良いって……変わってますね」
「変わってるかな。アズールがこういう、学校のルールみたいなのを破ってわたしと居るってだけで、良い」
わたしがそう言うと、彼は、
「あなたがどうしても直接見たいと駄々を捏ねたから、仕方なく来たんです」と少しだけ不満そうな顔をしてポケットからスマートフォンを出した。

 写真でも撮るのかなと思ったけれど、どうやら時間を確認しているらしい。
 砂浜に腰を下ろすとさらに潮の匂いが強くなって、ますます海に来ているのか湖に来ているのかわからなくなってくる。けれど、耳を澄ますと遠くから聞いたことも無い鳥の声と木々のざわめく音がして、確かに陸に囲まれているのだと感じる。すぐ横で小さく風が立って、それから嗅ぎなれたコロンの香りが漂ってきた。気がつけば、隣に彼が座っている。

「さすがに、寒いね」 
 夜は冷えるからとブレザーを羽織ってきてはいたけれど、予想以上に風が強く、体が冷え始めていた。
「上着、貸しましょうか」
 少しの間があって、アズールが自分のブレザーを脱ごうとしたけれど、
「いや、大丈夫」断ってから彼の方へ近づく。

 彼の腕と脇腹の間にすっと手を通して、それから肩に頭を寄せると、彼は一度だけわたしの方を見てから、視線を湖の方へ戻した。
「こうしていれば、暖かいもの」
 身体を寄せたまま彼を見上げれば、瞳の中に星空の煌めく湖がそのまま映し出されていて、気がつけば「わ、きれい」と言葉を発していた。
 最初は湖のことを言っていると思っていたらしい彼も、わたしのあまりに熱っぽい視線に気が付いたようでこちらへ向き直す。こんな暗がりでも彼の顔立ちは実にはっきりとしていて、見慣れているはずなのにその美しさに驚きそうになってしまう程である。

「……あなた、本当に僕のこと好きですよね」
 普段からこういう会話、具体的には、わたしがアズールを好きだということが二人の中で共有されていて、さもそれが当たり前だというような会話はよくしていたから、あんまり考え込むことなく、わたしも返事をした。「うん、好きだよ」

 きちんとした告白をする気も、付き合いたいだとかそういう気持ちもたくさんは持ち合わせていなくて、わたしは隣にアズールがいてくれるだけで幸せだった。そうして毎日何事もなく、今まで過ごしてきている。
 もちろん、彼がわたしをどう思っているのか、わたしの好きをどういう気持ちで聞いているのか、気になる時もある。わたしのこと嫌では無いのだろうな、でも、ものすごく好きだとか恋人にしたいとか、そういうのではないのかもしれない…彼の気持ちを色々考えて、わたしなりに推察してみたりもするのだけれど、結局のところ分からずじまいだった。彼が一緒にいてくれるのならなんでも良くて、永遠に分からないままでもいいような気もする。

 今みたいに友達同士としては近すぎる距離も、もうすっかり慣れてしまった。二年間、彼と休みの度に出掛けたり、時には彼の部屋で勉強を教えて貰って、そのまま一緒に寝たりもした(寮長室のベッドはそれなりに大きいので特段気を使わずとも二人並んで横になれたし、もちろん何も起きなかった)。寮が同じな上わたしは彼の経営するカフェでも働いているから、一緒にいない時の方が珍しいかもしれない。

 だからって好きが日常化するのはどうなのかとも思うけれど、わたしの「好き」には恋愛的な意味以外にも、いつも助けてくれてありがとうだとか話してくれてありがとうだとか、恩人へ向ける感謝の念、または友達的な好意も含まれていて、それを彼もわかっているからこそ、お互い照れることも無く消化することができるのだと思う。
 学校行事というのはなんだか特別感に溢れていて、そんな中でふたり、こんな素敵な湖畔に連れ立って来ているのだから、今日は何かいつもとは違うことになるのかしら、と、思わないことも無い。けれどわたしは彼がここまで連れてきてくれただけで、十分満足だった。

「三日もバイトがないって、なんだか変な感じ。落ち着かない」

 彼に預けていないほうの手で顔にかかった髪をよけながら、言う。前髪から一本だけ飛び出した髪の毛というのは、どうしてこうも煩わしく、撫でつけても耳にかけても現れるものなのだろう。髪を切ったときだって、セットするときだって、確かにそろえたはずなのに、毎日毎日どこからかやってきては、わたしの気分を害してくる。
 彼がこんな一本の髪に惑わされているところなど見たことがないし、いつ見てもヘアセットは完璧。顔が良くて成績も良くて、おまけに髪の毛まで従順とは、この世は不公平だ。

「あなたは働きすぎです。居ない日のほうが珍しい」
「そうかなあ。アズールだって、毎日いるでしょ」
 呆れられるかなと思い、先回りして「まあわたしとアズールじゃ立場が違うけど」と付け加えた。
 一バイトが支配人と同じ、なんて、おこがましいにも程がある。

「僕がいるからって出勤しなくても、学校とか寮とか、……いくらでも会えるでしょう」
「別に会いたいだけじゃないんだよ。好きなの。ラウンジも、仕事も」

 アズールの役に立てているのが嬉しい、とも言おうとして、やめた。そういうことをいうと、急に彼との距離が開くような気がする。別にわたしは彼の都合の良い女になりたいわけでもないし、考えなしに心酔しているというわけでもないのだ。ただ、好きなだけ。
 会話はそこで終わってしまって、辺りはふたたび、真っ暗な空と澄み切った静寂に包まれた。風が冷たい。

 途切れることなく会話の続く友達、恋人……そういうのに憧れないこともないけれど、わたしはアズールとの間にたびたび発生する、沈黙が緩やかに流れていく空間というか、何か話さなくてはいけないという気持ちを持つことの一切ない信頼された時間がなにより尊いものだと思っていて、こういう波長が合う瞬間があるからこそ、彼はわたしと一緒に居てくれるのだという自信みたいなものも持っていた。

 わたしには何の特技もないし、彼の嫌いな運頼みも良くするほうである。テスト勉強だっていつもぎりぎりに終わるし、よく考えてから行動する彼とは正反対に、考えるが早いか行動するのが早いか、といった感じで生きている。それでもこうして、一緒に居ることができるのは、このなんとなく過ぎていく静かで透明な時間、があるからだと思うのだ。

「せっかくだし湖の上、箒で飛んでみる?」
 きらきらと波打つ湖を眺めていたら、もっと近くで見たくなってきて、言ってみた。これもいつもの思い付き、だ。
「何言ってるんですか。……あなた飛行術の成績、僕と変わらないでしょう」
 彼の言う通り、わたしの飛行術の成績は下から数えた方が早い。
「そうだけど。なんか今日は、いける気がするの。それに落ちてもまあ、どうにかなるでしょう。アズールと一緒だし」彼から離れて立ち上がろうとすると、
「僕のことなんだと思ってるんですか。絶対に嫌です」
座ったままの彼に勢いよく手を引かれた。
 そのまま逆戻りするかたちで、仕方なく座り直す。わたしはとっくに飛ぶ気をなくしてしまっているというのに、彼は全然手を離す気配がない。何気ない感じを装って彼の方を見てみたけれど、表情はいたって普通だった。ただ離し忘れているだけなのだろうか。

 わたしから彼に触れることはあっても彼からわたしに触れてくることはめったにないというか、記憶では一度もなかったはずだった。珍しい。そのまま黙っていると、わたしの手の甲を掴んでいた彼の手がゆっくりと動いて、一本一本、指が絡められた。え、と声が出そうになるのを必死で我慢して、ひたすら前を向く。彼と繋がっている指先から、砂浜に投げ出された足の先まで力が入る。とてもじゃないけれど、彼の方は向けそうになかった。

 これは所謂、恋人つなぎ、というものだ。こちらの世界でもその名称なのかはわからなかったけれど、確かにこれは、恋人つなぎ。この世界では、友達ともするのかしら。だとしたら、アズールのこの異様なぎこちなさは何なのだろう。
 何か言わなければ、と思えば思うほど、何も出てこない。わたしたちの間には、先ほどまでの慣れ親しんだ静寂とは違う、どこもかしこも緊張感で溢れた空気が漂っている。

「あの」耐えられず目を瞑って俯いていると、彼がわたしに声をかけてきた。
「な、なんでしょう」
 背筋を伸ばして、それでも彼のほうは向かないようにして、返事をする。何故か敬語になってしまった。彼の話し方が移ったのだろうか。

「そんなに緊張しないでもらえますか。何も僕に、取って食われるわけじゃないんですから」
「アズールになら、何をされたって良いんだけれど」

 わたし何を言っているんだろう、と気付いた時にはもう遅かった。繋がれていた手は思い切り離されて、どこにそんな俊敏さを隠していたのか聞きたくなるほど素早く、距離を取られてしまっていた。

「いまの、忘れて……お願いだから」

 ひと一人分のスペースを開けて佇む彼におずおずと話しかける。表情からして怒っているわけでは無さそうだけれど、かといって楽しそうにも見えない。

「忘れられるわけが無いでしょう…。あなた、自分が何を言っているのかわかってるんですか」
「あの、ごめん」
 彼の声色は表情よりも冷たくて、思わず声が震えた。わたしは今まで、アズールと喧嘩したことなど一度もなかった。
「意味がわかっていない上での謝罪など、いりません」

 わたしからの直接的な好意が疎ましかったのだろうか。それとも、こういうことを誰にでも言う軽薄な女だと勘違いして、怒っているのだろうか。こんなに長く居るのだから、軽薄だと思われた、とは、思いたくない。好意が疎ましい、というのもなかなかに辛いことだけれど。
「なんで、怒ってるの…忘れてって、言ったじゃない」

 何か余計なことを言って怒られる前に、聞いてしまうべきだと思った。自分で考えているより声が出ていなくて彼に届いているか不安になるけれど、きちんと届いたらしく、横から視線を感じる。怒っているアズールにはなんともいえない凄みがあって、怖い、というか、わたしがこんなにも怒らせているのだという事実に、気を抜くと泣きそうになる。

「ほんとに、わからないの。わたしはアズールが好きだけれど、……そういう意味での好き、が嫌なんだとしたら、もう言うのをやめる」

 夜空を見上げて、続ける。上を向いていないと涙が零れ落ちそうだった。真っ暗、というよりは紺色の空には変わらず無数の星が輝いていて、先ほどよりややぼやけたそれが余計に涙を誘った。目頭も頭も熱い。彼に聞こえないよう、静かに鼻を啜る。

「あなたがいずれ帰ることになるかもしれないということを考えれば考えるほど、僕の気持ちを伝えるわけにはいかないと、そう思っていました」
 彼の声はさっきよりずっと落ち着いていて、優しい。それでも彼の方に向き直す気力はなくて、わたしは視線をそのままに、相槌を打つ。
「だというのに、あなたは僕のことを好きだと何度も言ってくるし、……一緒に寝たときだって、本当は気が気じゃなかった」
 そこで、彼が少しだけ笑ったのが分かった。彼の部屋に泊まった日のことを思い出しているのだろう。
「それは、ごめん」謝ってから、彼のほうへ視線をやる。「これは、意味が分かったうえでの、謝罪」
「僕だって、…あなたのことが好きなんです、ずっと」

 わたしに向かって話す彼はなぜか少し拗ねた表情をしていて、告白とはもっと格好つけてするものなのではないか、と茶々を入れたくなってしまった。もちろんそんなこと、言えるはずもなかったけれど。
 こんな時でもわたしたちはひどく落ち着いていて、知らない人が見たら世間話でもしているのかしら、と思われるほど淡々と話している。つい先程まで泣きそうだったというのに目の熱はすっかり冷めてしまって、アズールとわたしの間にはいつも通りのゆったりとした時間が流れ出していた。

「わたしさ、帰るかどうか決めてない、けど。でも、どっちだっていいかなって思ってる。帰りたい気持ちがまったくないとは言えないけれど、帰れなくてもいい。アズールと過ごした二年間が本当に、大切だから」
 今度は彼のことをまっすぐ見つめて、言った。
「……そっちに行っても、いいですか」

 どうぞ、と返事をすれば、すぐに彼が立ち上がって、わたしの隣に座り直した。近さは彼がわたしから離れる前と変わらないはずなのに、彼から香るコロンの匂いや時折触れる肩を意識してしまって、今度は私の方から退いてしまいたくなる。

「湖、きれい。いまさらだけど、アズールと来れて良かった」
 意識していることを誤魔化すように告げる。少しだけ声がうわずった。

「そうですね。僕も、あなたと来られてよかったです」
「問題は、どうやって戻るかだよね」
「先生方の見回りの時間は確認しておきました。大丈夫です」
「それは、さすがとしか言いようがない。……普段はともかく、こういう学生らしいズルをする時まで、抜け目ないとは」
 彼の用意周到さには驚いてしまった。まさか、そんなことまで把握して宿泊研修に臨んでいたとは。

「あなたが夜、ここに来たいというのは大体想像できましたので」
 わたしのことよくわかっているなあ、と思うと同時に、一緒に過ごしてきた二年間を想って言葉に詰まる。わたしが好きだ好きだと伝え続けた二年間。アズールがわたしのことを考えて、想いを伝えずにいた二年間。

「アズール、」いてもたってもいられなくなって、アズールの方へ思い切り飛び込んだ。
 そのまま彼とともに砂浜になだれ込む。制服が砂だらけになるとか、彼が嫌がるかもしれないとか、そんなのどうでもよくなってしまって、とにかく、わたしは彼を抱きしめたくなったのだ。

「うわ、急になんですか」
 半ばわたしに押し倒されるようにして寝転ぶ彼の声色は不満げだけれど、それとは対照的に表情は明るくて、呆れたように笑っている。どこか幼い笑みは少年の面影を残すようでかわいらしかった。彼の瞳には月明りが煌めいていて、わたしはまたきれい、と言いそうになるのを抑える。

「……好きだなあ、と思って。そしたら、こうしたくなった」
 ふふ、と笑いながら彼を見つめる。目が合った、と思ったら視界が暗転して、次の瞬間にはわたしの視界は彼と紺色の空だけになっていた。陰になっていて、彼の表情は見えない。

「髪、砂だらけになるじゃん」
「僕はもうなりました」
 普段のアズールなら気にしそうだな、と思ったけれど、そんなに気にするそぶりはない。
「確かに。考えてなかった」
「どっちでもいいなら、このまま僕と居てください」急に顔が近づけられて、わたしは息を飲む。間近で見る彼はやっぱり美しくて、何も言えなくなってしまう。

「嫌ですか」
「そうじゃなくて、見惚れてた」
「あなたはほんと、ぶれないですね」
「そうでしょう。長所かもしれない」冗談めかして言ってみる。その後で、「アズールが言うなら、帰らない」と続けた。
 わたしの返答を聞いたアズールはなにも言わずにわたしのことを見つめてきて、そのままどちらからともなく、といった感じで短いキスをした。途中、頬に添えられた手が冷たくて、夢みたいに幸せでどこまでもきれいなこの空間も、現実なんだな、なんてぼんやり思った。

 どっちでもいい、なんてずるい言い方をしてごめんなさい。本当はアズールの居る世界を離れる気なんてさらさらなかったのに、試すような真似をしてしまった。帰らないで、と言われたかった。もしかすると彼はそんなわたしの考えまでお見通しで、ほしい言葉をくれたのかもしれない。でも、なんだっていい。このままどこへでも、たとえ海の底だって、わたしは彼について行く。

 目を瞑っても瞼の裏には真っ暗な湖に映る星空が鮮明に揺らめいていて、都会の喧騒の中にいるときには想像もできない、自然の音たちだけが耳に飛び込んでくる。波の音、木々のざわめく音、鳥たちの小さな鳴き声。静かに、たくさんの音がする。
 しあわせで満ちた宿泊研修一日目の夜。髪を撫でる手と何度も降ってくるキスに、わたしはまた、好き、を告げるのだった。






- ナノ -