ハグの日!



 天気の話なんて一日に一回すれば十分だというのに、私たちはもう何十回、今日が暑いということについて会話したかわからない。もちろん、もっと面白い話だとか、最近の出来事だとかそういう話をした方が楽しいってのは、わかっている。
 それでも口から出てくるのは、本当に暑いね。そうですね。今日暑くないですか。暑いよね。……そんな会話ばかり。

「……何か面白い話とか、ないんですか」

 シャツの袖を捲りながら言う彼は心底不快そうに顔をしかめていた。陸生活二年目にしてこんな猛暑に見舞われるとは、災難である。

「四六時中一緒に居るのにアズールの知らない面白い話ができるのなら、私は小説家にでもなったほうがいいんじゃないかなあ」
「確かに。あなた僕以外に友達もいませんしね」
「失礼だなあ。居るかもしれないでしょう」

 友達がいないのは事実だけれど、面と向かって馬鹿にされるとちょっと腹が立つ。ベッドに座る彼の隣にわざと肩がくっつくようにして腰掛けた。

「暑いって言ってるじゃないですか。……離れてください」
「嫌だ。どうせ私にはアズールしか友達いないんだから、優しくしてよね」
「気にしてるんですか」
 私から離れかけていた彼の肩が静かに戻ってきて、少し笑いそうになった。彼は本当に優しい。
「別に、…アズールがいればいいかな」

 足元にあるお茶を取りながら、何気なく言ってみる。恥ずかしいことを言っている自覚はあるから、とてもじゃないけれど彼のほうは向けなかった。そのままお茶を飲む。

 ベッドの上で飲み物を飲むなんて、と前に彼に怒られたことを思いだしたけれど、今日は注意してこないようだ。これだけ暑いのだから仕方ない、と許してくれたのだろうか。返事のない彼を窺うと、あからさまに視線を逸らされた。

「アズール、照れてるの」膝に置かれていた彼の手を取って、「珍しいね」と続ける。
 いつも冷たい彼の手はびっくりするほど温かった。思わず持っていたお茶を差し出してしまう。

「お茶、飲んだら。熱中症とか、怖いし」

 彼の返答はない。やはりベッドの上で飲むのは嫌なのか、と思って戻そうとすると彼の手に捕まって、わ、と声が出た。両方の手が彼と繋がっていて、熱い。

「社交ダンスでも始まるの、これ」

 隣に座りながら両手を取り合っている私とアズールの恰好は滑稽で、それでいて彼は何も言わないものだから、痺れを切らして口を開いた。
 彼の部屋で二人、至近距離で見つめあって、手をつなぐ……、言ってから気が付いたけれど、これは結構いい感じの雰囲気、というやつだったのではなかろうか。ムードのかけらもない人ですね、とか、言われないといいのだけれど。

「あの、アズール…」
 おそるおそる、といった感じで彼の名前を呼んでみる。
「あなたは本当、ムードのかけらもない人だ」

 彼は私の手からお茶を取り上げて近くの机(ベッドのわきにある小さな机は、ベッドサイドテーブル、という名前があるのだっけ)に置くと、役目を失って降ろされようとしていた私の手をもう一度掴んで、こんどは引き寄せた。
 バランスを崩しそうになったところをそのまま抱き寄せられて、視界が暗くなる。彼の匂いがふわ、と香って目の前がチカチカした。

「そういえば、今日はハグの日、らしいですね」
 至近距離で彼の声がして、体がこわばるのが分かる。彼の伸びやかで良く通る声はいつもきくものと変わらないけれど、こんな近くで聞いたのは初めてだった。

「ハグの日、……そんなの、あるの」
「八月九日。語呂合わせで、ハグの日、です」
「へえ…。元の世界ならまだしも、こっちにもそんな文化が」

 抱きしめられていることに驚きつつも、彼はそういうの馬鹿にしていそうなタイプに見えるけれどそうでもないのかしら、なんて冷静な自分がいて、笑ってしまう。
 付き合っていないのにこんな風に抱き合っているのなんて、なんだかふしだらな気もするけれど、好きな人が抱きしめてくれているのを振り払うことなんて、できない。

「なんだか、親近感湧いちゃうね」
 服が汗で張り付くのを感じながら、独りごとのように言う。
「この世界に、ですか」
 そう、と短く返事をすれば、無言で髪を撫でられた。こんな、恋人にするみたいに優しくするのはずるいと思う。

 顔をあげてアズールのほうを見ようとしたけれど、思いのほか腕から抜け出すのが難しくて、諦めた。服に顔をうずめたまま、
「……さびしくなった?」と訊いてみる。

 今日の彼は本当に無口だ。もともと二人の時はそこまで沢山話したりはしないけれど、こんなに何も言わないのは珍しい。今度は返事のかわりに、ぎゅ、と少しだけ強く抱きしめられた。世界に親近感がわく、なんて言葉、この世界に住んでいる人間は言わない。

「思っていたより似ているから、住みやすいのかなって、…そういう意味だよ」
「そうですか」
「うん。それに」彼の背中にそっと腕を回す。「そんな寂しがってもらわなくたって、わたしにはアズールしかいないからね」

 私たちはしばらくそのままでいたけれど、だんだん暑さに耐えられなくなって、どちらからともなく離れた。それでも彼のほうにある手はしっかりと繋がれていて、私は依然として緊張したままだった。

「あの」静かな部屋に突如、彼の声が響く。普段よりかなり控えめな音量であったのに、私は肩が上がるほど驚いた。「……僕と、付き合いませんか」

 一瞬何を言われたのか理解できなくて、え、と声が出る。
 僕と、付き合いませんか。彼の言葉を頭の中で反芻してみた。どう考えても行動と言動の順序が逆な気がする。抱きしめられたと思ったら、告白された、らしい。
 起こったこと全部、この慎重で思慮深い彼からなされたことだと思うと、信じられない。

「アズールが恋人になったら、私は友達ゼロ人かあ」
 いいよ、とかわいらしく答えるつもりが、口をついて出たのはそんな、いい意味でも悪い意味でも普段通りの、私らしい言葉だった。
「さっき僕がいればいいって、いったじゃないですか」
 恋人でも友達でも変わらないでしょう、と続ける彼もやっぱりいつも通りの彼で、私はそれがなんだかおかしくて、吹き出しそうになる。そんなことしたら怒られてしまうのは目に見えているから、我慢するけれど。

「冗談だよ、私、アズールのこと好きだから」
 彼の目を見つめて言うと、数秒の沈黙の後、思いきり逸らされた。
「……僕も、好きです」

 しばらくして、繋いでいない方の手で眼鏡のフレームをあげる彼が言う。そういうことは目を見ていってほしいものだけれど、なにせお互い初めての告白なのだから、仕方ない。
「もう一回、抱きしめてほしい。……ハグの日、だし」
 遠慮がちに彼の手を握り直すと、彼はベッドから立ちあがって、それから私の手を引いた。恥ずかしそうに腕を広げられたので、そのまま飛び込む。それなりに身長差があるから、私は彼の腕にすっぽり収まってしまった。こんなに暑いのにくっついている私たちは、なんて馬鹿なのだろう。

「今日は本当、暑いよね」
「……そうですね」

 暑いとか寒いとか、それから眠たいとか……そういうのが自分じゃどうにもならない境地に来てしまうと、何回言ったって、意思とは関係なく口から出てしまうものだ。
 もっとも、天気の話だって、彼となら何回してもいいのだけれど。私たちは次のハグの日も次の次のハグの日もきっとこんな風に、どうでもいい天気の話をして、それから抱きしめあう。私はずっと、ここにいる。






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