秘密がバレたのでオクタヴィネルから逃亡します





 つい、うっかり。
 そんな言葉が一番当てはまる、なんとも間抜けな失態。かれこれ二年もぼうっと生きてきたのだから、仕方ないといえば仕方が無い。ただ、私はそんなついうっかり、でこれまで積み上げてきた膨大な嘘を陥落させるに至った。最悪。
ーーあ、その歌、わたし知ってます。
もう一度きちんと聴かせてくれませんか。

 何も意図せず私が口にしていた歌は、元居た世界の流行歌であった。開店前、ふとそのメロディが懐かしさを伴いながらよぎって、半ば無意識にふんふんと鼻歌を鳴らしながらモップで床を掃除していたのだ。そうしたら急に、入口の方から声をかけられた。

 今思えば、誰もいないと思って気を抜いていたのがいけなかったのだと思う。でも、開店前から客が列を成す看板メニューも今は特にないのだし、私の記憶では常連はいても、デパートのセールさながら開店ダッシュを決めるような、そんな熱狂的なファン、は居ないはずだった。多分。

 異世界から来た監督生の話は知っていたし、同寮の3人が仲良く(?)なった経過も見ていたけれど、まさかこんなタイミングで店に来るなんて。もっとも私だって、監督生が自分と同じ世界から来たかもしれない可能性のことは考えていたつもりであるし、以前と同じようにしてはいけないと、ちゃんと思っていたはずだった。気を付けていた。
 だからこれは本当に、つい、うっかり、なのだ。

「そう。音楽の授業で習った?それとも有名な歌だから、誰かが歌っているのを聴いたのかな。自信が無いからちゃんと歌ってみせるのは、恥ずかしいな」
 一息で言い切ると、モップを持つ手に力が入っていふのに気がついた。いま拭いている箇所で止まってしまって全然掃除が進まない。モップは、力を入れすぎると動かしずらくなってしまって苦手だった。この世界にもクイックルワイパーがあったらいいのにな。

「聞き間違いだったかもしれません。ごめんなさい、何だか懐かしくって。」
 監督生は照れたような、それでいて泣き出しそうにも見える、なんとも言えない表情を浮かべていた。
 私はキッチンの方を少しだけ気にして、
「ごめん、やっぱり嘘」持っていたモップをテーブルに立てかける。

 ふう、とひとつため息をついてもう一度入口付近を見据えると、監督生の肩に猫が乗っているのが目に入った。確か、彼の名前はグリム。
 最初は、喋る猫なんて!と思ったけれど、流石異世界。なんでもありらしい。私が動揺しているうちにみんなは当たり前のように受け入れていて面食らったのを、よく覚えている。昔読んだ小説に出てきた喋るカカシだって、この世界のどこかには存在するのかもしれない。なんだか夢が広がってしまう。
 現実から逃避したいあまりそんなことを考えてしまったけれど、とりあえずはこの、私のついうっかり、から発生した事件を片付けなくてはいけない。
「嘘ってどういうことなんだゾ!」猫が喋った。
 やっぱり未だ、慣れない。

「きっと監督生さんの元の世界、の歌なんだと思う。授業で習ってなんかない」
「先輩も、」こことは違う世界から、来たんですか。
 私が監督生の問いに答える前に、バタンと音が響いた。店の奥のほう。まだ仕込みの時間には少し早いし、誰も出勤してはいないはず。今日も私が一番乗りで出勤して、鍵を開けて、それから。行っていないのは、VIPルームの方だけだった。

「アズール先輩」「アズール!」
 監督生と猫…グリムの声が重なる。
 どうしようか考えるのが先か動いたのが先か、私はモップを掴んで監督生らの方へ駆け出していた。
「全部話す。乗って!」
 幸いにも、私は飛行術が得意だった。クラスで1番、とまではいかなくとも、アズールに比べれば断然。
 モップでもなんでも棒状のものなら飛べる。ここは室内だし、先生に見つかったら確実に怒られるのは免れないけれども、かといって、背に腹はかえられなかった。



「先輩、飛ぶの上手ですね」
「そうでしょう。といっても、これしかできないけれど」
 私は飛ぶことだけはなぜか最初から得意だったのだけれど、飛行術以外はからきしだった。中でも錬金術の実技は特に酷くて、テスト前はアズールが付きっきりで教えてくれたっけ。
 モストロ・ラウンジを出て、そのまま鏡舎へ続く鏡に飛び込む。モップごと。流石に飛んだまま鏡に突っ込んだのは初めてだったからどうなることかと思ったけれど、鏡舎に出たところでモップは一度だけ綺麗に旋回して止まった。

 そこで監督生(とグリム)を降ろして、モップを寮の鏡の横に立てかける。これだって勤め先の備品の一つである事に変わりはないから、この光景を見たアズールはきっと怒るだろう。願わくばこれから出勤のオクタヴィネル寮生が気づいて、私の代わりに戻して欲しかった。

「どこで話そう?」
 勢いで出てきてしまったけれど、行く場所がない。
「それでしたら、わたしたちの寮へ来ませんか。」
「噂のオンボロ寮。行ってみたかった」
「特に面白いものは無いですけれど…」
「元廃墟にゴーストが居るだけで、面白い」

 私が笑ってみせると、監督生とグリムは目を丸くした。最初の会話であまりにもつっけんどんな態度を取ってしまったから、怖い先輩だ、などと思われていたのかもしれない。そう思うと、申し訳ない気がする。私は怖くもなんともない、善良な学園生徒だと言うのに。
 特にグリムは、もっと騒がしい感じだと聞いていたのに全然話に入ってこないし、私の方を見ようとしなかった。ルチウスのように本物の猫(猫に本物も偽物もないし、これだとグリムが偽物ということになってしまうのだが)だったら、猫じゃらしだとかそういうもので分かりやすく機嫌をとったりできたのだけれど。
 もしかすると、監督生の元の世界の手がかりが突然目の前に現れたものだから、彼なりに遠慮しているだけなのかも知れなかった。とりあえず、と、歩き出した監督生について行く。



「こんなものしか出せませんが…」
 そう言って出てきたのは、カップに入ったお茶だった。真新しく見えるカップは、この古びた寮とはちぐはぐな感じがして、少し可笑しい。
 ありがとう、と受け取ると、その横でグリムはどこからかツナ缶のようなものを持ってきて開け始めた。そんなもふもふの手で、器用なものだ。

「ツナ缶が、好きなの?」
 恐る恐る、聞いてみる。猫に話しかけるなんて、昔の私が見たら笑ってしまうだろうな。
「オレ様の大好物なんだゾ!」
 なるほど、グリムの一人称はオレ様なのか。教えてもらった情報とはまったく違うことを思いながら、ふうん、今度持ってくるね、などと言ってみる。
 すると途端に「お前…良い奴なんだゾ」とキラキラした目で見られてしまうから、なんだか少しバツが悪くなった。この猫、単純で可愛いな。

「あの。先程の、話なんですけれど」
「ああ、歌。私としたことがついうっかり。」
 しかも目の前の監督生に同情して、あっさり嘘だと言ってしまったのだから本当にらしくない。でもあれは、アズールが後ろにいるなんて考えもしなかった時に発したものなのだから、仕方がなかったのだ。
 仕方がない。うっかり。らしくない。今日はそんなことばかりだ。

 先輩は、私と同じところから来たんですか。そうかもしれない。あの歌はいつ頃、聴いていましたか。ここに来る直前、だから2年前かな。私とグリムの他に、この話を知っている人はいますか。さっき初めて言ったから、いないかな……あ、アズールには聞かれちゃったけれど。

 矢次ぎ早に飛んでくる質問に答えながら、私は談話室を見渡す。天井が高くて、とにかく広い。ここに一人と一匹で住んでいるのは、寂しいだろうな。
 私はこの世界に来てからはずっとアズールが一緒に居てくれたし(彼と私の何が合って一緒にいるのかは、今も分からないけれど)、そんなに多くはなくとも他に友達だっている。寮の談話室にはいつも誰か居たし、夜中に起きてしまっても窓を開ければどこかは、明かりが付いていた。
 異世界にきてしまって、たった2人でここに住まわされて、色んな事件に巻き込まれて。大変だっただろうな、と思った。だからこそ、後先考えず早々に白状してしまったのだ。

「すみません、先輩」
 一瞬の沈黙があって、そのあと監督生が口を開いた。
「どうして謝るの?」
 冷たく聞こえないようになるだけ、ゆっくりと言う。後のことを一瞬でも考えてしまえば泣いてしまいそうだったから、それを悟られないようにするためでもあった。
「隠していたんですよね、アズール先輩に」
 監督生は俯いている。グリムも黙って聞いていた。
「ああ、そういうこと。もういいの」
「戻ったら、話すんですか?」
「話さない。というか、戻れないかも」

 目を瞑って、アズールを思い浮かべる。毎日綺麗に整えられた髪、端正な顔立ち、趣味の良い持ち物たち。こだわっていたコロン。私に勉強を教えてくれる時の、優しい声色。
 私は彼を、騙していたのだ。異世界から来たことも、まだ監督生には言ってないけれど、男ではないということも、彼は知らない。

 本当は監督生の話を聞いてから何度も、全て言ってしまおうかと思っていたのだけれど、言ってしまえば私と彼が築いた学園生活での何もかもは崩れてしまうような気がして、なかなか踏みきることが出来ずにいたのだ。けれど、毎日毎日夜になると押し寄せる、あのえも言われぬ漠然たる不安は確実に私を蝕んでいて、もう限界だった。
 思えば冒頭のついうっかり、はうっかりでなく必然であったのかもしれない。

「じゃあ先輩、ずっとここに居たらいいじゃないですか」

 監督生の発言に、私は思わず眉をひそめた。
 今日出会った名前も知らない私をここに?どこまでお人好しだというのだろう。それは申し訳ない、と断ろうとしたけれど、断ったところで、私には行くところがないのに気がついた。

「お世話に、なります。掃除とかは任せて。」
 幸い明日からは週末だった。 気持ちの整理が着いたらアズールの元へ戻って、それから全部話してみてもダメだったら、どこかへ行ってしまえばいい。今までは怖くて学園から出たことは無かったけれど、きっとこの世界は広いのだ。どうにでもなる。きっと。



 放課後。あれから3日が経って、私は思っていたよりもずっと快適に過ごしていた。夜に1度だけ荷物を取りに寮へ戻った時も誰にも会わずに済んだし、何回か入っていたシフトも友達に代わってもらうことが出来た。監督生とグリムとも、随分打ち解けた気がする。

 昨日から学校が始まってアズールと顔を合わせることになったけれど、特に話しかけられることもなく、というか意図的に避けられているような感じで、今まで全くもって関わらずに過ごしている。
 もう彼と話したり、一緒に勉強したり笑いあったりすることは無いのだろうな、と思うと授業中にも関わらず涙が出てきてしまって、辛かった。その時ばかりはクラスが別で良かったと初めて思って、後になって更に落ち込んだ。

 よそよそしい私と彼を、周りの生徒たちが噂しているのを耳にすることもあった。前までの私は殆ど毎日モストロ・ラウンジに出勤していたし(私にとってラウンジでの労働は、半ば趣味のようなものであった)、それが2日も姿を消したものだから、驚いたのだろう。

「先輩、行きましょう」
 教室まで迎えに来てくれた監督生に着いていくと、クラスがあからさまにどよめくのがわかった。
 昨日から、学園内がなんだか騒がしい。
「寮に帰るんじゃなかったの?」
 途中で監督生がオンボロ寮に向かっていないことにも、肩にグリムがいないのにも気がついて立ち止まる。どこへ向かうというのだろう。
「帰る方法が」監督生も立ち止まって、言う。
 私の方を振り返ったりはしなかった。
「見つかったと、学園長が言っていたので。話を聞きに行きます」


 あなたは、もういつでも元の世界に帰ることが出来るんです。
 学園長室で聞いた話は、何もかも唐突だった。監督生と一緒に入ってきた私を見た学園長は、
「てっきり一人で来ると思っていましたが、お友達連れですか」なんて一言で済ませてしまって、そのあとはなにも触れてこなかった。もしかすると全て気がついた上で言っているのかもしれなかったけれど、わざわざ自分から話す勇気も気力もなく、私はずっと黙っていた。

 帰るための鏡が見つかったこと。
 元の世界に戻るには膨大な魔力が必要だから、学園長や先生方に加えて、各寮長の力も借りること。実行は、ちょうど満月になって魔力が集まりやすい、明日の夜だということ。

 全て聞き終えて部屋を出ると、監督生は泣いていた。当然だと思った。元の世界に戻れる安堵も、こちらの世界への未練も、全てがごちゃ混ぜになった感情を理解できるのは私しかいない、とも思った。
 一度躊躇って、今自分がしようとしている馴れ馴れしい行為との折り合いをつけて、監督生を抱きしめる。本当ならば一緒に泣きたかったけれど、不思議と涙はひと粒も流れてくることなく、私の視界はいたってクリアなままだった。眼下には、無機質な壁がいっぱいに広がっている。



 夜。私はどうしても眠ることが出来なくて、オンボロ寮の付近を歩いていた。夜風が心地よい。
 あの日と同じ歌を、口ずさんでみる。今回は鼻歌ではなくきちんと歌詞をうたったのだけれど、なぜか上手く音が取れなくて、声が震えて、気付く。
 私は泣いていた。一度溢れた涙はなかなか止まらなくて、そのまましゃがみこんでしまう。寮長の力を借りると言っていた。アズールも聞いたはずだ。おそらく彼は、私も一緒に居なくなることに気が付いているだろう。

 監督生はグリムと最後の夜を過ごしているはずだった。それを邪魔できず、出てきてしまったのもある。どうせ会えなくなってしまうのなら、私も今日くらいは、寮へ帰っても良かったかもしれない。

「こんな夜中に、何をしているんですか」
 彼だった。私が一番会いたくて、会いたくなかった人。
 あの日は逃げ出してごめんなさい。寮へ帰らなくてごめんなさい。騙していて、ごめんなさい。
言いたい言葉は沢山あるのに、只のひとつも声にならない。彼は何も言わずに座り込んでいる私を引っ張りあげて、そっと寮服の上着を掛けてくれた。

「アズール、あの、私ね、」
 肩に掛けられた上着からは微かに、彼のコロンの香りがした。彼と話さなくなってから3日しか経っていないというのに、それだけでさらに涙が出る。
 手を思い切り握っても、唇をかみ締めても上手く話せなくてもどかしい。

「僕は、途中から分かっていました」
「そ、れはどういう」
 一生止まらないかもしれないと思っていた涙はすんなり引っ込んで、数回目を瞬くうちにすっかり乾いてしまった。

「最初から変だと思っていたんです。故郷のことは何を聞いても覚えていないと言うし、簡単な魔法を使う時にもおっかなびっくりで。」
 顔を上げる。明瞭になった視界で今日初めて捉えた彼の顔は数日前と何も変わっていないというのに、どことなく疲れの色が浮かんでいるような気がした。
 それにしてもアズールって、おっかなびっくりとか、そういう言葉、使うんだなあ。
 うん、と短く返事をすると彼が微笑んだ。

「ただの記憶喪失などではないと思っている矢先に、 あなたが男子トイレであからさまに目を逸らしているのに気がついてしまって」
 そこで耐えきれず、笑いだしてしまう。
「それからは、普段は何をするにも鈍くさ…ゆっくりなあなたが、着替えの時だけやけに素早いのにも納得しました」
「今、鈍くさいって言ったでしょう」
「言ってません。気の所為です。」
 絶対言ったわ、という私を制して、彼は続ける。
「僕は、開店前の掃除中に鼻歌を歌っているあなたを眺めているのが、好きだったんですよ」
「いつも気配を感じるけれど誰もいないから、ゴーストか何かいるんだと思って、怖かった」
 あの日もきっと、そうだったのだ。

「…帰るんですね」彼が言う。
 私は答えなかった。


 朝。あれから私たちは2年間あったことをひとつひとつ話して、笑って、たまに悲しくなった私が泣いて、それを彼が慰めて…といったふうに夜を過ごした。今まででいちばん、長い夜だった。
 オンボロ寮にもオクタヴィネルにも戻らず、外で朝日を浴びることになった私たちはどちらからともなくさよならをいって、別れた。最後の授業への支度をするために、寮に戻る。



 夜。鏡舎。私と監督生を中心に寮長と先生方が集まっていて、なんだか入学式みたいだった。全てのはじまり。
「それでは」学園長の声が響いた。
 私たちの前に、大きな鏡が置かれる。闇の鏡とはまた違った豪華な装飾を纏ったそれは、私には地獄への入口みたいに思えた。

 それでも、帰らなくてはいけない。この世界の人間ではない私に、ここに居る資格はないのだから。
 昨日会った時私を監督生のお友達だ、といった学園長はいつの間にか事情を把握していたようで驚いた。恐らく、アズールが言ったのだろう。彼は私の丁度真後ろにたっているから、顔は見えなかった。

 ごめんなさい、もありがとう、も2年分、きちんと伝えたつもりだけれど、最後はやっぱり彼の顔が見たいと思ってしまう。けれど一度でも振り向けば、帰りたくない、と口走ってしまいそうだった。そんなことは許されない。私が彼を好いていたことは最後まで言えなかったけれど、これでいい。
 きっと私はアズールのことを忘れられないけれど、彼は私を忘れて、他の誰かと楽しく生きていくべきだ。

「それでは、始めましょう」
 学園長がもう一度言い直すと、皆がペンを構えた。
 魔力が集まるのを肌で感じる。ピリピリ、ともビリビリ、ともいえない緊張感の束のようなものが毛羽立っていて、体が震えた。鏡は1人ずつしか通れないようで、私の前には監督生が立っていた。順番を決めていた訳ではなかったけれど、学園長が先に監督生の方へ呼ぶ仕草をしたのだ。

「すぐ閉じてしまいますから、監督生さんが通ったら、あなたもすぐに続いてください」

 鏡が光った。それから中が蜃気楼のようにぐらぐらと揺れたと思ったら、禍々しい黒い波が現れる。あの中に飛び込むのはなかなか勇気が要りそうなものだけれど、戻る方法はこれしかないのだから仕方ないだろう。

 散々泣いて涙は枯れたと思ったのに、次から次へと雫が頬を伝っていくのがわかる。ついに、私は帰る。
 やっぱり、最後に彼の顔を見ておく位、許されるのではないか。私が最後に見るこの世界の景色は、一番好きな彼とともにあるべきだと、思った。私は二年間も頑張ったのだ。
 帰る方法を見つけ出してくれた学園長もそれは、頑張ったかもしれないけれど、私だって最後に想い人と顔を合わせるくらいの権利は、持っているはず。

 監督生が鏡に吸い込まれた。遠くで、グリムが泣いている。隣にはハーツラビュルの後輩もいた。
 学園長が、先生が、寮長みんなが、私を見ていた。私は首だけ振り返るようにして、アズールを見る。


 彼は、泣いていた。真後ろにいたのにまったく気が付かなかったのが信じられないくらいの大号泣。
 美しい彼が顔をぐしゃぐしゃにして泣いている光景は私の動きを止めるには十分で、鏡へと伸びていた腕もそのままに私は彼に釘付けになっていた。
 目が合う。すべてが一瞬の出来事だと言うのに、私にはスローモーションのように感じられた。首だけ振り返るのでは足りなくて、私は鏡に背を向けて彼に向き合った。彼の所へ向かう以外もう何も考えられなくて、何も意識しなくても、私の足は前に向かって進んでいる。

けれど、数ミリたりとも彼には近づけなかった。鏡が、私を引っ張るようにして吸い寄せようとしているのだ。
 帰りたくない。口に出した、その瞬間。






「あの時はもう、ダメかと思った」
 談話室でだらしなくソファに沈みながら言うと、
「僕だって。ああ、あなたは帰ってしまうのだと、思いました」アズールは紅茶を差し出しながら、私の隣に座った。そのまま手を重ねられる。
「本当に?あの時に諦めているような人は、鏡の上に岩なんて、召喚しないと思うのだけれど」
 魔法の得意な彼にしてはものすごく不格好な召喚術だったな、と思い返して、私は吹き出した。暫く笑っていると彼の表情が少し曇ったものだから、怒らせたのかなとすこし焦る。


 あの時。アズールは、どんどん鏡に吸い寄せられていく私の手を取ってそのまま抱きしめた。
 それから聞いたことも無い呪文を唱えたと思ったら後ろでガラスが割れる音が響いて、次に振り向いた時には、鏡の代わりに私の背の丈ほどある大きな岩が鎮座していたのだから、もう何が何だかわからなかった。しばらく皆何も言わなくって、私はただ彼の腕の中でじっとしているしかなかったのだけれど、
「アーシェングロット!何をしている!」
という今まで聞いた中で1番大きなクルーウェル先生の怒号を聞いた時は、思わず飛び上がってしまった。
 その後はまずアズール以外の寮長が自分たちの寮へ帰されて、鏡舎には私とアズール、学園長と先生方だけになった。

「ええと…あなたは、帰らなくても良かったのですか?というかもう、帰れませんけど」
 学園長は岩を見つめながら(と言っても仮面で視線は追えないのだけれど、そちらを見ているような気がした)、私に言う。
「いいんです。滅茶苦茶に泣いているアズールを見ていたら、やっぱり帰りたくなくなっちゃいました。」
「僕のせいですか」彼は先程まで泣いていたとは思えないほど冷静な目で、私を見つめてくる。
それから、「いえ、僕のせいですね」と言い直した。

「これからもこの学園に置いてくれとは、言いません。もし許されないのなら出ていくつもりです」
 監督生は帰ったのだ。もしかしたらあの子だって、帰りたくなかったかもしれないのに。私だけそっくりそのまま学園生活に戻るのは気が引けた。

「仔犬。お前は実験でこそいつも失敗ばかりしていたが、授業態度もレポートも、クラスで一番だった。」
 アズールに怒鳴ってからずっと黙っていたクルーウェル先生が突如、私に向かって言う。突然のことに話が見えないけれど褒められたのは嬉しくて、頬が緩む。
「飛行術は実技もクラスで1番だった」
 次に口を開いたのはバルガス先生だった。
「…成績は振るわなかったが、ルチウスもよく懐いていたし、何かあれば誰より先に手伝いに来ていたな」
トレイン先生も、それに続く。

「そうですね…。色々と異例ではありますが、あなたがこのまま学園で学ぶことを、許可します」

 数秒の沈黙の後、学園長が言った。
 その後私たちは岩の撤去作業をして(魔法で一瞬だと思ったが、全然違った。わざとかもしれないが、岩を細かく砕いて少しづつ運び出すという原始的な方法を取らされた)、 私が事情を隠していたことやアズールが行った危険な召喚術を行ったことについて30分ほど説教をされた後、寮へと帰されることになった。

 長くなったが、今に至った経緯は大体こんな感じである。
「本当はあの夜、帰らないで欲しいと何度も言いそうになって」
「うん、気付いてた」
「それなら言ってください…いや、あれは言えないか。」
 怒ったり突如冷静になったり、彼の感情は忙しい。それに連動するかのように彼は私の手を握ったり離したりしていて、私はまた笑いだしそうになってしまった。

「もし、あなたが帰りたくないと言った時にすぐ行動できるように、用意していたんです。思ったより上手くいきませんでしたけど」
 上手くいかなかった、とはあのよく分からない馬鹿みたいに大きい岩のことを話しているのだろう。彼としては他の、それが何なのかは分からないけれど、彼の趣味の上品な感じのものを出す予定だったのだろうか。あんな緊急時にそんなことを考えているなんて、彼は本当に大したものである。

「ありがとう」
 全てを込めて、丁寧に礼を述べた。
「どういたしまして。…帰らないでいてくれて、ありがとうございます」

 目が合って、微笑まれる。彼の瞳のセレストブルーが煌めいた。あ、綺麗、と見つめていたら途端に距離が近くなって、触れるだけのキスをされる。
 一秒もしないで私から離れた彼は分かりやすく顔を赤らめていて、先程の大号泣といい、今日は珍しいところを沢山見てしまったな、なんて思った。それから、もう帰れないのだな、とも。

 でも、きっと、これで良かった。
 私だけの人生だと思っていたけれど、それを変えてくれたのは他でもない、この世界で一番大好きな彼なのだ。これからも私は、ここで生きていく。
 帰る場所などもうないのだから。
 







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