So high



 

 それは本当に唐突で、まさしく瞬き一つしている間に、といった感じの出来事だった。
 いつもの帰り道。私たちはアルバイト先あるいは職場──モストロ・ラウンジの階段を降りたあとにある曲がりくねった道路をふたりで歩いていた。一応は隣に並んでいたのだけれど、あの道は何度通っても下を覗くと怖くなっていけないから、今日も真っ直ぐ前を見てやり過ごす。当然ながら視線は合わない。それでもテストや今後の経営についてたわいもない話をして、今日もこのまま、一日が終わるのだと思っていた。
 "あの瞬間"だって、部屋に戻ったら本の続きでも読もうかしら、なんて彼とは全然関係の無いことを考えている最中だった。

 私と彼は多分、友達だった。
 多分、というのは、仲が良いと言い切る自信が無いという訳でも彼と対等でないという訳でもなくて、彼の幼馴染の同級生が自分たちは友達ではない、と言ったことから、それなら私も友達と言える確証なんてないのではなかろうか、と思ったから。

彼と出会ったのは半年と少し前で、クラスも寮も同じだった私たちは、気が付いたら一緒にいるようになっていた。それまでは、彼が彼の幼馴染の双子(先程は幼馴染とだけいったけれど、双子である)と三人で行動しているのを私が傍から眺めていたのが、クラスの授業でペアになってからは何となくご飯を共にしたり、休日街に行ったりするようになったのだ。
 彼と居る時は、絶え間なく話題が移り変わっていっていくら時間があっても足りない、といった風にはならず、どちらかというと、無理に話をしようと考えなくても沈黙が心地よい、といった感じで、私にとっては少し新鮮な気分だった。今までの友達とは、なんとなく違う雰囲気。すごくウマが合う、というよりかは、気が楽。彼にとっての私は友達ではなかったのかもしれないけれど、私にとっては気の置けない友達、と記すのが一番合っている気がする。

 クラスも寮も同じの私たちは最近、職場まで同じになった。半月ほど前から彼が経営を始めたカフェ、モストロ・ラウンジは私達が所属するオクタヴィネル寮のなかにあって、そこで彼と私は経営者と従業員、という関係で働いている。まだオープンから少ししか経っていないというのに、毎日大盛況で忙しい。

 それまで食堂や購買の他に学園の中でご飯を食べれるような場所は無かったし、オシャレなカフェなんて以ての外だった。初の試み、それも生徒自身による経営がどうやって学園長のお許しを得たのか私には検討もつかなかったのだけれど、とにかくオープンが決まった時は嬉しくて、一緒に働いて貰えないかと言われた時は二つ返事で了承した。もちろん、彼に頼られたことが嬉しかったのもある。

 そんな私と彼は今日、お友達ではなくなった。いや、もしかすると彼はまだ、関係を変えたつもりなどないのかもしれないけれど、私にとっては全てがひっくり返るような大事件で、大変なことだった。彼がこんなことを誰にでもするような人だとは到底思えない。でも、だからといって自分が特別なのだとはそれこそ到底、思えなかった。

 中庭の木々が色付きだす秋の初め。
 皆が寝静まった夜、寮の裏口。
 私は彼にキスをされた。そこに脈略などは何も無くて、本当に突然のことだった。青天の霹靂。寝耳に水。そんな感じだ。私が驚きで目を瞬いているうちに、彼はまた明日、などと言って先に寮へ入っていってしまう。今のは、夢? 私から離れたあとの彼があまりにも普段通りに挨拶をして裏口に消えていくものだから、そう思ってしまいたくなる。
 けれど、夢ではない。彼はいつも部屋の前まで送ってくれていた。それなのに、こうして裏口で別れて私を残していったのはきっと、彼なりに動揺を隠したかったから。なにもわからないけれどきっと、そのはず。

 許されるのならいつまでも佇んで居たかったけれど、そうもいかない。仕方なく、部屋にも向かって歩き出す。急ぐつもりは無いのに気持ちがはやっていて、気が付いたら小走りのようになってしまう。
 明日からのことを、彼のことを、考える夜。


 自室に着いてまず、締め切ったままのカーテンを開けた。
 窓が夜の海で満たされて、星の代わりに波が揺らめく。つめたい空気を胸いっぱいに吸い込むと、少し気持ちが落ち着いていくのがわかった。

「私、アズールのことが好きなのかしら」
 誰に言うでもなく呟くと妙に納得できるようなものがあって、私はまた、そうかもしれない、と独り言に答える。
 だからといって、どうするというのだろう。彼に告白されたわけでもないし、私が今後、彼に想いを打ち明けるとは思えない。
 これは自分の事だから分かることだけれど、普段何も考えずに楽しく生きているからこそ、変化はおそろしいことだと思っている節が、私にはあった。

 彼は人と話す時大抵饒舌で丁寧で、本音を隠すような、そんな態度ばかりしているけれど、ふたりで居る時は大体寡黙で、話したい時だけお互い話すような穏やかな時間が流れているような気がする。彼の中で私が特別だなんてやっぱり、露ほども思っていないけれど、その時間だけは少しだけ、特別なのだと思いたい。
 ふと、彼が私のことを好いてくれていて、その結果があのキスなのだとしたら、という考えがよぎる。

 すぐに打ち消す。友達でいい。あんな素敵な人の横に並ぶのが、こんな平凡で世間知らずな私であっては、いけない。
 気付いてしまったこの気持ちは日記にでも記して、それからどこかに仕舞っておこう。窓を覗くと、階下の部屋から明かりが漏れているのに気がついた。きっと、アズールの部屋だった。

   ☆

 今日は一日、なんとかやり過ごすことが出来た。
 授業の時も昼食の時もそれなりに自然に会話出来ていたはずだし、放課後も幸いシフトは入っていなかった。昨日のことについては、何も解決していないけれど。

 電気を消して、ベットに座る。さあ寝よう、と思ったところでドアからコンコンと控えめな音がして、私は枕元に置いたスマートフォンの画面を確認した。ちょうど、二十二時を回ったところだった。さっと髪を整えて、消したばかりの灯りをつけて扉を開ける。古い木製の扉は、音を立てないように開けるのが難しい。

「遅くにすみません」
「うん、まさしく寝るところだった」

 どうしたの、とは聞かなかった。これくらいの時間に彼が訪ねてくる時は決まって、夜の散歩へのお誘いだから。何も言わずに椅子にかかる外套を取りに行くと、後ろで静かに扉が閉まる音がした。彼が閉めたらしい。

「今日はどこに?」
「裏の森の方へ、行こうかと」
「そう。冷えるかな」
「どうでしょう。先程会った寮生が厚手の上着を着ていたので、少し寒いのかもしれません」

 そういう彼は昨日のことなど無かったかのようにいつも通りの声色をしていた。私だけが意識しているのが途端に恥ずかしくなってくる。
──裏の森。初めての散歩で行った場所。わざわざそこを選んだことに意味はあるのかわからないけれど、あんなことがあった次の日に行く場所なのだから彼なりにきっと意図を持って、選んだはずだった。先週おろしたコートを羽織って、彼のもとへ歩き出す。


「やっぱり、少し寒いね」
 鏡舎を通って外に出ると、地面に少しだけ霜が降りていた。ふと、夜の底が白くなった、という一節を思い出す。もちろん、あれは雪が積もっている様子を詩的に表現しているものなのだ、とわかっては居るのだけれど、目の前の霜におおわれた道が森へ続いている光景は異世界じみていて、それがなんだかあの小説の冒頭を思い出させた。

「我慢できなくなったら言ってください。僕の上着、貸しますから」
 隣の彼は今日も優しい。それが友達としてなのか、そうでないのかはわからなかった。
「…あのね、昨日のことなんだけれど」
 敢えて彼の言葉には答えずに言う。
「どういうことか、分からなくて」

 ひとつひとつ噛み締めるようにゆっくりと言葉を発して、それから隣の彼を窺うようにして微笑んだ。怒っている訳ではない。ただ単に、理由を聞きたいだけなのだ。
「……すみません。忘れて、くれませんか」
 少しの間逡巡の色を見せた彼は、立ち止まって言った。つられて歩くのをやめる。
「それは、」
「今日は謝ろうと思って、誘ったんです」

 私の言葉を遮るように発せられた彼の言葉はすこし震えていて、緊張しているのがこちらにまで伝わってくる。こんな風に緊張しているところなど今まで見たことがなかったから、私まで息が詰まってしまいそうだった。

「謝るって、どうして?私は理由が聞きたかっただけなのに」
「怒っているわけではないんですか」
「アズールが訳もなくあんなことするような人じゃないって、わかってるもの」

 そういってから、久しぶりに発した彼の名前はやっぱり綺麗でいいな、とこんな状況であるのになんとも脳天気なことを思ってしまった。私はいつもそう。彼が難解で私からは想像もできない大変なことをやって退ける間も、何も考えないでこうやって、お気楽に、生きてきたのだ。彼の横に並ぶのにふさわしいのは、きっと私ではない。

「あなたは、僕のことをどう思っているんですか」
 それはもう、大層立派で素晴らしい人だと思ってる。とは、言えなかった。友達だ、とも。
「私、アズールのこと、好きだよ」

 彼に関する形容の全てを放棄して、私は言った。
 どうにでもなればいい。彼がこんなことを聞いてくる時は、決まって何か不安なことがあった時だ。散歩に誘ってくる時もそう。思えば前回の散歩はモストロ・ラウンジの立ち上げの最終段階だったから、彼なりにプレッシャーだとかストレスだとかそういうものを何となく抱えていたのかもしれない。

 不安でどうしようもならない時、誰かに一人にでも肯定されたら、それだけでやっていける時だってあると思うのだ。もちろん他人に何を言われてもダメな時だってあると思うし、あってもいいと思うのだけれど、やっぱり好意を伝える言葉は、言わないよりは、言った方がまし。それが私の考えだった。

「……それは友達としての、意味でしょうか」
 視線を逸らしながら返ってきた質問はこれまた自信なさげで、勿論今までそんな事、したことはないのだけれど、私は彼を抱きしめてしまいたくなった。

 友達としての好き、と、それ以外。
 それ以外とはなんだろう。人間としての好き?

 私は確かに友達以前に彼の人間性(彼は正確には人間では無いのだけれど)を好きだと思っていたけれど、きっと今問いかけられているのは、そういうことではない。「友達としての好き、じゃないほうがいいの?」

 はっきり聞いてみるべきだと思った。もし彼に何かあって、いつものように不安になってしまっただけなのだとしたら、ごめんなさい。でも、直感でしかないけれど、今日の彼は何かあったのでなくて、私に伝えたいことがあるような気がしたのだ。彼はもともと誰かに気を使って遠回しな言い方をするような性格ではないし、今までだって特に、私に遠慮するようなこともなかった。そういう所が、好きだった。

 彼は案の定困惑していた。私に質問で返されるとは思っていなかったようで、眼鏡のフレームに手をやって考え込んでいる。
「アズール、」やっぱり、撤回して謝ろうかしら。そう思って、声をかける。
「僕は、あなたが好きです。だからあなたに友達として見られているのでは、困るんです」

 今度は私が困惑する番だった。
 アズールは、私のことが好きらしい。それも、友達としてではなく。

「あまりにも意識されていないからその、昨日」
「だからといって、キスするのは違う」
「謝るつもりだったって、言ったじゃないですか」

 キス、と口に出すと急に恥ずかしくなってきてしまって目をそらす。言い争っているのに何故か彼は少し嬉しそうだった。思えば、こんな風に話したのは初めてかもしれない。

「もう一度言います。僕は、あなたが好きです。付き合って、貰えませんか」

 告白の場面にお誂え向きの、美しい星たちと月あかり。彼が私を真っ直ぐに見据えている。硝子越しの瞳は澄んでいて、明け方の空を思わせた。
 ──努力家で聡明で、誰より美しい彼が私と恋人同士になるなんて。私は世間知らずでお気楽な、ただの一生徒でしかないというのに。

「……よろしく、お願いします」

 言いながら、小さく頭を下げる。今彼を見たら、泣いてしまいそうだった。私は友達としてでもなんでもなく、アズールが、好き。俯いた先にあった影が近づく。思わず顔を上げるとすぐ目の前に彼の端正な顔があって、気がついた時にはまた、私は彼にキスされていた。

 目を閉じる。昨日より前からずっと、私は彼の特別だったのかもしれない。









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