秋の休日に




「今度アズールとさ、どこか行きたいなあ」

 すっかり通い慣れてしまったVIPルームでくつろぎながら、言う。いかにも高そうなソファは、体重を掛けたぶんだけどこまでも沈んでいくような気がして落ち着かない。きちんと背もたれがあるというのに、気を抜くとひっくり返ってしまいそうだった。そんなつもりは無いのに姿勢が悪くなる。

「あなたはいつも唐突ですね」

 そうかなあ、と返事をして足の方に力を入れる。トン、と音を立ててローファーを地につければ、向かいに座る彼との距離が少しだけ近づいた。出されたアイスティーをストローでクルクル回しながら、続ける。

「せっかく友達になったんだから、お出かけしたいとか、思うでしょう」

 部屋には、氷がグラスにぶつかる小気味いい音だけが響きわたっている。彼が読んでいた本に栞を挟んで、こちらへ向き直した。
 友達。彼と私は最近、友達になった。もともと同じクラスで、話したことも無いわけではなかったのだけれど、授業以外だとアズールはいつもあの双子の同級生と一緒にいるし、特に仲良くなるきっかけも無いまま、1年が経っていた。
 ただ、私としてはそれまで全く彼に興味がなかった訳ではなくて、頭が良くてすごいなあ、だとか、あの年でカフェをオープンしちゃうなんて尊敬ものだなあ、だとか、遠くからささやかにファンをやっていた、みたいな表現が一番しっくりくるような、そんな感じの感情で彼を眺めていることが多かった。密かなファン歴、1年。
 なぜ私と彼が急に友達、なんていう近しい関係になったのかと言うと、それは2ヶ月前の事件に遡る。





 錬金術の実験で、彼とペアになった。
 確かに彼に憧れを抱いていたけれど、それは話しかけるのも烏滸がましい、だとかそういう神格化しすぎるようなものではなくて、あくまで一クラスメイトとして、いいな、くらいのものであったから、その時の私は純粋に嬉しくて、舞い上がっていて、結果的に実験を滅茶苦茶な失敗に導いた。

「本当にごめん…」
 彼が表面上優しく見えるだけでその実悪徳ともいえる契約を繰り返していることも私は知っていたので、思わず震え上がってしまう。下手したら、学園生活が終わる。
 数少ないお友達のみんな、残念ながら私はここでお別れのようです。お元気で。

「あの…」
 なかなか返事をしない彼に痺れを切らした私は、恐る恐る声をかける。
「ああ。別にこれくらい、大丈夫です。そんなに、怯えないでください。」
 彼はハッとして顔を上げると、人好きのしそうな笑みを浮かべて私に何かを差し出した。
「これは…?」
「どうやら錬金術が苦手なようなので、もしよろしければこちらのノートを使用されてはいかがかと」

 本当のことを言うと私はその日アズールとペアになったことで気が散ってミスを連発したのであり、別にとりわけ錬金術の成績が振るわないわけではなかった。だからといって、彼と1位争いをする程のものでもないけれど。しかしせっかく彼が親切で差し出してくれたものをそのまま返してしまうのは申し訳ないような気がしたし、なによりもったいないな、と思ってしまう。

「あ、ありがとう…」

 ペラペラと数ページめくっただけで教科書並みに、いやもしかするとそれ以上に分かりやすく図解や色分けされた解説が目に入る。

「50位以内に入ること」

 ノートに見入っている私を満足そうに一瞥した彼が、更に何か紙のようなものをこちらへ手渡す。金色のそれには外国語が書かれていて、私は一瞬なんのことかわからなかったのだけど、すぐに理解した。
 これは、契約だ。私は契約に誘われているのだ。

「それが、条件です」

 数秒置いてそう付け足した彼は、見れば見るほど端正な顔立ちをしていて、ちょっと怖いくらいだった。顔のパーツなんかも、丁寧さが違う。神様に作られたときの、丁寧さ。

「全教科入らなきゃ、ダメかな」
「いえ…あなたにお渡しするのは錬金術だけですから、一科目のみで大丈夫ですよ。ご希望なら、全科目分用意することもできますが」
「そう。なら、お願いする」

 初めてのちゃんとした会話が契約かあ、と思わないでもなかったけれど、これは元々私の失敗から始まったことなのだから、後には引けない。
 そうして、私は得意魔法をひとつ彼に差し出して(普段から喧嘩をするようなタイプではないから、特段なくとも困らない)、契約を結ぶに至った。


 テスト返却の日。結果から言うと、私は晴れて50位以内に入ることが出来て、彼との契約は終了した。解答用紙が返ってきた時点で分かっていたから廊下には見に行かなかったけれど、教室にいても聞こえるくらい、皆がいつも以上に騒がしくて落ち着かない。休み時間になった途端教室から殆どの人が消えてしまったものだから、私はアズールと2人きりになった。

「まさか、満点を取るなんて」

 自分でも少し意外だったけれど、目の前の彼にはもっと意外な事実だったらしい。
あのあと、改めて確認した彼のノートは今まで見たどんな学術書よりも分かりやすくて、私はとんでもないものを手にしてしまったな、と思った。あの準備の良い様子からするに、契約した生徒が他に沢山いることは大方予想出来たし、なにより憧れていた彼にノートを貰っておきながら下手な点数を取るのが怖くなり、範囲でないところまでそれはもう徹底的に、予習した。

 皆は魔法を取られてしまうとか、彼の言いなりになるだとか、契約の大きな代償に怯えて勉強をしていたのだろうけど、私の場合はどちらも違う。
 ただ単に彼に幻滅されたくなくて、必死だったのだ。理由はなんにせよこうして結果が出ることは嬉しく、頬が緩んでしまう。

「意外?私、ちょっと頑張ったんだ」

 あのノートがあれば全員満点も夢ではないと思ったが、そう簡単な話でもないらしい。廊下からは物凄い叫び声だとか、泣き声だとか、その全てが混じったような騒音が響いてくる。

「全科目合計で50位以内にならなくてもいいのか、とわざわざ聞かれたので、他の科目はてっきり手を抜くものかと。随分と頑張りましたね」

 彼はスマートフォンで何かの画像を開きながら、時折こちらを窺うようにしている。もしかすると誰かから順位の写真を送って貰って、それを見ているのかもしれなかった。彼の口ぶりからするに、私の名前もそこにあるらしい。

「錬金術ばかり勉強していたら飽きちゃって。ついでに他の科目もいつもより多く勉強したの」

 50位以内と言われてもなんだかピンと来ない。今まで無縁だったのだから当然と言えば当然なのだけれど、折角だし、後で見に行ってもいいかもしれない。

「それに、私の他にも沢山いるんでしょう、契約した人たち。負けられないと思うと、やる気が出た」
 平均点を聞いてほぼ確実になったことを聞いてみると、
「皆が皆、あなたのようだったらいいんですけれど」彼に微笑まれる。

「それは、商売上がったりじゃない」
「あなた、ぼーっとしてる人だと思っていましたけど、案外性格悪いんですね。あの人たち、これからどうなるのか分かってます?」
「心外だなあ。どうなるかは、なんとなくわかるよ。まあ、努力不足で魔法を取られたって、自業自得だと思うけれど」

 彼のことを正当化するわけではなくとも、契約の全てが不条理であるとは思えなかった。
 あのノートの完璧さといったら、ない。相当な努力によって作られたはずだ。

 もし彼に好きな人が出来たら、ノートを対価なしで渡して、見てもらえばいい。彼の性格と底知れぬ努力を具現化した結晶のようなそれを一目でも見ようものならきっとその人だって、アズールのことを好きになるに違いない、なんて思う。
 本当に頭の良い人は誰かにものを教えるのが苦手だと言うけれど、彼の場合は全然違った。読む人のことしか、考えていない。たかがノート、されどノート。あんな知性と思いやりに満ちた文章を書ける彼はやはり素晴らしいな、と再度尊敬してしまった。

「とにかく、ありがとう。次もお願いしようかな」
「次こそ、あなたもイソギンチャクにされてしまうかもしれませんよ」
「イソギンチャク?」

 イソギンチャクそのものは知っているけれど、意味がわからない。首を傾げていると、
「いえ。では僕はそろそろ、行きますね」
 彼は私を一人残して、教室を出ていった。
 その日の会話はそれきりで、というか、彼はしばらくイソギンチャク(もとい契約者たち)を操るのに夢中みたいだったから声をかけられなくて、そのまま1週間がたった。




「今回は何も失敗しなかったでしょう。私とペアだって分かった時のアズール、面白かったなあ」
 今日の最後の授業だった錬金術を終えた私たちは、教室に戻るべく廊下を歩いていた。隣の彼はなんだかずっと不服そうな表情を浮べている。

「私、なんか失礼なこと言った?それとも見えないところで失敗したりとか」
 彼が密かに私のミスをフォローしてくれる場面を想像するのは、容易であった。
「別に、何もありません」
「じゃあ、どうしてそんなに不機嫌なの。もしかして私のこと、嫌いとか」
「そういう訳では」

 そう言いながらも、先程から彼が全然目を合わせてくれないことに疑念を抱いた私は、彼の前に立つようにして、下から覗いてみる。普段ものすごく身長の高い双子の同級生と一緒にいるものだから、そんなに背の高いイメージは無かったけれど、こうして見るとやっぱりかなりの身長差があった。
 一瞬目があって(というか合わせに行って)、また直ぐにそらされる。偶然を装ってそらす、とかそういうのじゃなくて、思い切り。なにも横の壁を凝視することはないと思うんだけれど。

「あなたが、」頭上から彼の声が降ってくる。
「あまりにも変わらないから」
 変わらない?最初は何のことか分からなかったけど、彼の顔を見上げてそういうことか、と思う。

「別に気にしていないもの」
「それどころか、前より馴れ馴れしい」

 多分彼は、あのオーバーブロット事件のことを気にしているのだ。無理もない。寮の異なる私の所にまで情報が来ているのだから、学園内では(とりわけ彼と同じ学年の生徒たちの中では)かなり、有名な話になっているはずだった。
 それで、契約が無くなった今も、恐ろしい記憶から未だに彼のことを遠巻きにするようなクラスメイトも何人か、いた。かく言う私はというと、今の態度は特に事件に関係なく、ノートを見て勝手に彼と共に勉強したかのような気持ちになり、いわばなにか素晴らしい小説を読んで、文章に共感しているうちに作者のことまで愛しくなってしまったような、そんな感じで彼に馴れ馴れしくしてしまっているだけであった。
 友達になれたらいいな、なんて。

「あのノート、すごいなって思ったの。どうやって作っているか見たくなった。企業秘密、なのかもしれないけれど」

 馴れ馴れしい、と言われたのは完全に無視して、彼の横に並ぶ。立ち塞ぐものが無くなった彼はまた歩き出して、私もそれに続いた。

「見に来ても、いいですけど」
「本当に?やっぱりもう、次のを作っていたりするの」
「ええ。」
「でも、もう契約とかそういうのは」
「モストロラウンジでスタンプカードを始めて、それと引き換えに願いを叶える制度に、変えました」
「それは…商魂たくましい、としか言いようがないね。尊敬する。作者がこんなにすごい人だと思ったら、ますますあのノートが愛しくなってしまいそう」

 腕に抱える教科書を抱きしめる仕草をしながら言うと、彼は少し驚いたような顔をして、それから笑った。その笑みはいつも人前で見せる感情をさっと隠して距離を取るような、そういった他人行儀なものではなく、本当に素の、高校生の笑顔だったから、私は面食らってしまう。
 こんな素敵な顔を見てしまったが最後、最早密かなファン、などではなくて、彼が好き!と大声で叫び出してしまいたくなるような、そんな衝動に駆られてしまった。
熱狂的なファン歴、1日。




 今日に至るまで、私は本当にアズールがノートを作っているところを見に行ったり、それまで行ったことのなかったモストロ・ラウンジで友達とお茶をしてみたり、その後それが決まりであるかのようにVIPルームに行ってアズールと話し込んだり、といった感じで着々と、友達なるものに近づいていった、ように思う。
 彼は思っていたよりもずっと話しやすかったし、たまに冗談も言ったりして(その中には余りにも真実味を帯びていてとても冗談とは思えないようなものもあった)、話すのが日課のようになってからはよく、笑うようになった。
 そんなことが2ヶ月間続いたから高を括って、友達なんだから、などと言ってしまったのだけれど、もしかすると思い違いをしていたのかもしれない。

「友達…。そうですね、僕とあなたは友達ですから」

 彼は一旦真顔になって考えこんで、それからドラマの台詞か何かを言うみたいにしてわざとらしく、言った。それがあからさまに諦観の色を含んでいたものだから私はいよいよ彼がわからなくなって、黙ってしまう。
 2ヶ月前までは大した話もしたことのなかった私から突然どこかへ行きたい、なんて我儘を言われて嫌になってしまったのだろうか。
 もしかしたら彼はただ都合の良い話相手が出来たくらいにしか思っていなくて、私のことなどさして好きでもなかったのかもしれない。もとより好かれていると断言出来る自信などないけれど。

「あの、嫌だったら別に」いいよ、とまで言いかけたところで、彼がスマートフォンの画面を差し出してきた。
「これは、」写真に映っているのはカフェのようだった。
「ちょうど、偵察に行きたいと思っていて」

 なるほど。写真をよく見ると、そこは最近学園生徒の間で密かなブームになっている所謂マジカメ映え、を意識したカフェだとかで、雑誌でも大層華やかなカラーリングで特集されていた記憶のある場所であった。

 短い時間のために外出許可を貰いに行くのも大義だし、ということで放課後は相変わらずモストロラウンジに集う生徒が多かったけれど、偵察と言われてみれば確かに、週末は街まで出向くひとたちを前より多くみかけるようになっていたことを思い出す。少なからず、客足に影響を受けているのかもしれない。

「競合店調査、かあ。なんだかわくわくするね」

 彼が私と出かけることをどう思っているのかは依然としてわからないままだったけれど、とりあえず断られることはなくて、ほっとする。
 そればかりか私の関心はもう彼との未来の予定に移っていて、我ながら調子の良いものだなと可笑しくなってしまった。
 いつだってお気楽。目の前のことしか考えられなくて、楽観的。そんな自分がさすがに嫌になるときもあるけれど、彼と正反対なところを彼に買われている節も何となく感じていることもあってその都度、なんともいえない気持ちになった。

「あなたがそれでいいなら今週末にでも、行きましょう」

 彼がスマートフォンをポケットにしまって、それから作業していた書類と読みかけの本をカバンに纏め始める。
 ふと時計を見ると閉店時刻が近づいていて、私は
「わかった。楽しみにしてる」
とだけ言って立ち上がった。
 もうすっかりホールもキッチンも顔見知りになってしまっているから、このアイスティーのグラスは自分で提げてしまおう。



 週末。彼と私は寮が違うから、鏡舎での待ち合わせとなった。この鏡をくぐったら、彼が居るかもしれない。まだ約束の15分前だというのになんだかそわそわしてしまって、寮の鏡の前まで来てしまった。そうして柄にもなく、何度も鏡に映る自分を見てはああでもないこうでもないと、前髪をいじったりセーターの胸元を正したりしている。

 そして約束の丁度10分前、私は意を決して鏡に飛び込んだ。辺りが白くなって、自分の身体がまるでチョコレートみたいに溶けていく感覚がする。湯煎されて、牛乳の中に溶かされる。これは経験した人でないと分からないと思う、独特な感覚。
 数秒立って、閉じた瞼の先が暗くなるのを感じる。鏡舎は仄暗くて、いつでも夜みたいだった。
目を開けたままだと、鏡舎に着いたあとも奥に残った光がチカチカと現われてくるから、私はいつも瞼を閉じたまま鏡を通るようにしている。

「早いですね。まだ10分前です」
「アズールこそ。ちょっと早いけど、もう行こうか」

 開けた視界の先には壁に寄りかかるようにして立っている彼がいて、飛び上がりそうになってしまった。動揺を押し殺して、なんとか彼の元へ駆け寄る。

 外に出ると街はすっかり秋の色に染まっていて、少し肌寒かった。冬になってしまえばある程度寒さへの覚悟があるから、外套も思い切り厚手のものに代えられるけれど、この時期は夏物を着るには寒すぎるし、かといって冬物を着ると季節感の無いような気がしてくるし、なんて中途半端で、体感では却っていちばん寒い季節であるような気がする。景色が綺麗なのは秋だと思うけれど、服選びにおいては苦手な季節である。

「もう秋。この間まで夏だと思っていたのに」
「早いものですね。この時期はアウター選びに時間がかかって、困ります」
「やっぱり、そうだよね」

 私が考えていたことと同じようなことを彼に言われて、ふふ、と笑ってしまう。嬉しかった。
 陸で生活するにあたってファッションを勉強したという彼の出で立ちは、今日もやはり素敵なものであった。一言で言うと、品がある。
 若者らしさと格調高さ、それから持ち前の趣味の良さが同居していて、一目見るだけで、彼のセンスが伺えた。私服の彼は新鮮である。これだけで今日、来た甲斐があった。

「海の中にもさ、秋とか夏とか、そういう概念はある?」

冬は流氷という指標があるにしても、季節によって咲く、または散る花や色付く木々は海にはないはずだった。陸に来て初めて四季の移り変わりを見た彼は、どう思ったのだろう。

「景色は、あまり変わりません。でも水の温度だとか魚たちの移動だとか、皆各々そういうものから感じ取っていた、という感じでしょうか。暦はもともと、陸と変わりませんし」
「そうなんだ。なら、海の中の人達が陸で秋をみたら、びっくりするだろうね」
「それは、そうでも無いかもしれません。陸の様子を描いた絵や写真は、意外と浸透しているんです」
「へえ。私は海の中を情報として知っていても、実際に行ったら感動しそうなものだけれど。どうだろう」

 私は海に行ったことがなかった。見たことはあっても、アズールの故郷みたいな本当の海中、深海の街、そういったものに触れたことがない。

「今度、行ってみますか」
「いいの」

 思わぬ提案に、私は目を丸くした。瞼が持ち上がるのが自分でわかる。最初に契約して以来、彼からなにか提案されるのは初めてだった。ノートを作るところを見たいと言ったのも私、今日出かけたいと言ったのも私。日課のようにして彼の元に通っていたのも私から、だった。

「僕たちは友達、なんでしょう」
「友達っていう時、少し不服そうなのはなんでなの」
 口に出してから、さっきから質問ばかりだなと思った。
「あんまり、そう思っていないので」
「ひどいなあ。」思ったより間延びした声がでた。

 友達と思っていないなんて本当にひどいことを言われているはずなのに、腹が立ったり悲しくなったりすることはなくて、不思議である。彼があまりになんてことないような顔をして話しているからかもしれない。とても、落ち着いた声だった。

「僕は、」彼が立ち止まる。
 人気の少ない裏路地に唯一響いていた足音まで消えてしまって、それだけで時間が止まったみたいだった。秋口の美しい静寂が、私の身体にすっと染み渡った。

「僕は、あなたの考えたそばから全部口に出してしまうところだとか」
 そこで目が合って、私はとりあえず相槌を打つ。
「色んなことに、無頓着なところだとか」
 この枕詞たちは後に、そういうところが嫌い、に続くのだろうなと覚悟して、もう一度頷く。

「かと思えば、契約はきちんと履行してくるし、ノートを宝物のように扱っている」
 彼がふ、と笑った。
「そういうところが好きです」
 あの日と同じ、年相応の、私の好きな笑顔だった。
「嫌い、ではなくて?」
「ええ。でも、友達としてではありません」
 彼は私のことを真っ直ぐに見据えて、言う。

「…意味が、わからない。どういうこと?」
「大事なところで察しが悪い所は嫌いです」

 やれやれ、とあからさまなジェスチャーをされたけれど、彼の望むような返答が私から出てくるとは思えなくてあきらめる。真逆彼が私のことをそういう風に好いているなんて思えないし。

「そうだ、この間偵察とは言いましたけど、あの時僕にはもう客足を取り戻す打開案が3つほど浮かんでいましたので」実際行ったところで何か変わるとは思えないんですよ、と続けた彼が言いたいことは、やっぱり分からない。

「だから。今日はただの…その」

 デートだと思って。
 そこから先の言葉は更に小声になっていて、聞こえなかった。意識する前に、え、と出てしまっていたけれど、彼はそれに反応せずにまた歩き出す。慌てて後に続くと、少し速度が緩んだ。

「もうすぐ着きます」

 照れているのを隠すように前だけ見て歩く彼は、心做しかいつもよりも柔らかい雰囲気を纏っているように見えて、それには私といることも関係するのかな、なんて思ってしまう。きっと、勘違いだと思うけれど。

 鮮やかな秋の空はどこまでも澄んでいて、きれい。絶好のデート日和ね、なんて彼をからかえば、私に合わせてくれていた歩調が乱れた。再び、少し置いていかれるような形になる。皆が思っているより、彼はずっと分かりやすくて、可愛いのだ。
 私はこれからへの期待を滲ませながら、彼の元へ歩き出した。火照った頬を撫でる風が冷たくて、心地よい。寒さも全部引っ括めて、秋を好きになる予感がした。 










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