修復



※同級生設定(2人とも3年生)
監督生が帰った後の世界線
※ハッピーエンドではありません!!!
なんでも許せる方のみどうぞ!!!

 彼に別れようといったのは、ほんの数日前のことだった。別れる時はわたしが彼に振られるものだとてっきり思っていたから、なんだかまだ実感がない。彼と付き合っていた二年半はわたしがこちらの世界で過ごした時間のほとんどを占めていた。何を見ても聞いても彼の顔が過って、泣きそうになってしまう。寮の談話室だとかモストロ・ラウンジだとか、彼がよく居るところには近寄ってもいないけれど、今のわたしにとっては教室さえも思い出の場所として映り、涙を誘う要因となった。

 監督生が元の世界に帰ったのは、二週間前。方法が見つかったのも帰ることになったのも突然のことであったため、普段から一緒にいた二人と一匹はもちろん仲の良かった寮長たちも大いに別れを惜しみ、中には泣いているものさえいた。わたしはと言うと、アズールの友達としてたまに挨拶を交わす程度の間柄であったから(監督生はわたしもまたこちらの世界の人間ではないということを知らないまま帰っていった)、特に最後の挨拶を交わすことも無く世間話の一環として周りから事の経緯を聞かされるだけで、彼がわたしといる時に空返事しかしないような状態になるまでは、意識もしていなかった。

 そもそも、正式に別れられたのかは定かではない。わたしが彼の部屋に別れてくださいとだけ書いた手紙(手紙というにはだいぶ質素で、書置きに近かったのだけれど)を置いて自室に籠るようになって数日何の連絡も来ていないから、これは承諾されたのだな、と勝手に思うことにしただけだ。祝日が続く連休はいつもならどこか遠出をしたりしていたのだけれど今回はそんな話も出ず、というか、最後にわたしと彼がまともに会話した内容なんて、まったく思い出せない。連休最終日の今日は朝からずっと雨が降っていて、わたしの気持ちをそのまま反映したかのような、鬱屈としたグレーが延々と続いていた。
 
 ☆
 
「アズール」
「どうしました?」
「……ううん、なんでもないの」呼んでみただけ。続けた言葉は床に落ちて、漂う。
 よく、その言葉は誰にも届くことなく落ちて消えた、なんて表現を聞くのだけれど今はそうではなくて、消えないまま、床に煙みたいにゆらゆら浮かんでいるのだ。そしてそれらはもうずっと、わたしにだけ見えている。この部屋は、……彼の部屋は、受け取り手が見つからないわたしの言葉たちでいっぱいだ。

「わたしはさ、……アズールが好きだよ」

 彼のベッドに顔を埋めたまま、独り言のように呟く。今度は返事もない。ひゅっと息が詰まって、目の下と鼻の先が熱くなった。ごまかすようにして、スマートフォンをつける。わたしと彼の映る待受画面は二二時三〇分を示していて、もう帰ろうかな、と努めて明るく言ってみた。
 彼はこちらに一瞥もくれず、分厚い本と向き合っている。

「今日は、自分の部屋に帰るよ」

 ベッドから立ち上がって、窓の外を見た。暗い海が、今にも泣き出しそうなわたしをぼんやりと映している。まだ夏だというのに肌寒くて、体が小さく震えた。

「……帰る? どうしてですか」

 上着が掛けてあるクローゼットへ向かおうとすると、椅子から立ち上がった彼に制された。突然のことに驚いているうちに肩を押されて、そのまま景色がぐるりと切り替わる。見慣れた天井と彼。何度か目を瞬く間に、押し倒されたのだと理解した。
 彼の目にはわたししか映っていないのに、どこかわたしを見ている気がしなくて、ここに居るのに居ない、近いのに遠い、そんな感覚がする。ようやく会えた休日の夜、わたしを占拠するのは、侘しさ。

「やめてよ」絞り出された声は掠れていた。「わたしは居なくなったりしないんだから」

 彼が何も言わずわたしにキスをして、いつもより雑に服を脱がせてきて、色んなところに触れられて、……その後のことは、あんまり覚えていない。全部いつも通りだったような気もするし、前とは何もかもが違ったような気もする。とにかく全部早く終わったらいいのにって、初めて思った。彼はその夜、一度もわたしの名前を呼ばなかった。

 朝。わたしが目を覚ましても隣の彼はまだ寝ていて、これはとても珍しいことだった。彼の寝顔を見るなんて、本当に久しぶりだ。あどけない、年相応の彼の寝顔に微笑ましい気持ちになって、自分の口角が上がるのがわかる。温かいものが頬を伝って、無意識に唇をぎゅっと結んだ。ひとつ深呼吸をする。
「一番好きな人を自分で満たせないっていうのはさ……なかなか応えるものなんだなって、わかったよ」彼の美しい髪に触れて、独りごと。
 ――おわかれ致します。昔大好きだった短編小説の書き出しが頭をよぎって、思わず目を瞑った。涙が止まらない。
 
 ☆
 
 切れ目のない灰色の雲を眺めていると、考えるつもりはなくても数日前のことが頭を巡った。一度考えてしまうともうだめで、暗い思い出たちが、彼に纏わるものからそうでないものまで次から次へと浮かんでは心の深い所へ落ちていく。どんなに身を乗り出して覗いても底の見えない谷、落ちていくわたし。ひとしきり想像してしまえば、胸の少し下のほうが鈍い痛みを訴えてくる。
 
 休日の図書館は空いていて、わたしの他には二、三人しか居なかった。同じ寮のひとも居るけれど、アズールが居ない今、挨拶することはかなわない。話しかけるなんて言語同断、会釈ですら無視された時点で落ち込んでしまうのが目に見えている。極端に友達の少ない学生生活を快適に過ごせていたのは間違いなく彼のおかげで、もしモストロ・ラウンジでのアルバイトも辞めてしまったら、わたしに話しかけてくれる人など誰も居なくなるのだろうな、なんて考えが過る。それから、いっそやめてしまおうかしら、とも思う。

 わたしには彼しかいなかったけれど、彼を変えたのはわたしではない監督生で、結局のところ、わたしは彼に何も返せていない。恋愛だとか友情だとか、……同情だとか、そういうものを全部考えないものとすると、本当に彼の隣にいるべきはわたしではなかったのではないかとすら思えてくる。あの二人がお互いに、わたしが嫉妬するような特別な感情を持っていたとは思わないけれど、それでもいまわたしは逃げ出してしまうほどに苦しいのだ。苦しくて、侘しい。

 例えば浮気であるとか、他に好きな人ができたであるとかそういう別れの要素、誰が見ても仕方ないと思える理由みたいなものがあったのなら、わたしはもっと楽に、単純に失恋をして、時間をかけて元に戻っていくこともできただろう。落ちるところまで落ちて、泣くだけ泣いて、彼のことを忘れる。そんな風に失恋できたのなら、よかった。今思えばわたしは、自分と同じ世界から来た監督生がこの世界に来たあの入学式の日からいままでずっと、彼がわたしから興味を失うことにおびえていたのかもしれない。わたしはまだ、彼が好きだ。
 
 窓の外は相変わらずの土砂降りで、それを見ていたらなんだか、小学校の授業で入ったプールを思い出した。プールそのもの、ではなくプールの前に浴びるぬるくて水圧の弱い広範囲のシャワーを、だ。今の雨にはバケツをひっくり返したような雨なんて表現は当てはまらない。それよりも、この世界の人たちには伝わらない、幼いわたしが級友たちと浴びたあのよくわからない空間でのシャワーに似ているのだ。今なぜこんなことが浮かんできたのかわからないし、誰と共有できるわけでもないのだけれど。懐かしい情景とともにぼんやり現れたかつてのクラスメイト達は、今どうしているのだろうか。わたしとはもう二度と会えない人たちで、いまどこかで監督生とすれ違っているかもしれない人たち。こんなことを思ってしまうのならともに帰ってしまえばよかったのだと、いまとなってはどうしようもない考えがちらついて、ため息。
 
 しばらく図書館でぼうっと過ごしてみたけれど、気分が晴れるわけもなく、天気もまったくもって変わらなかった。傘は持ってきていない。こういうとき、いつもならアズールが連絡をくれて、傘をもって迎えに来てくれたりしていたっけ。図書館から続く道に一瞬、しあわせなわたしと彼が並んで歩く姿が見えるような気がして、思わず手で顔を覆った。深呼吸をすると雨の音がより鮮明に、激しく聞こえてくる。もうすぐ雷も落ちそうだ。
 
 意を決して、屋根のある場所から一歩踏み出す。途端にわたしの身体と鞄はずぶぬれになって、それがなんだか心地よく感じられた。少しだけ濡れるのは嫌だけれど、ここまで全身水浸しになることなんてそうそうない。ドラマのラストシーンみたい、いまここが恋愛ドラマの世界なら、彼が雨の中走ってきて見事復縁、などという展開になるのかしら。ばかばかしい。

 いつもはランニングをする運動部の生徒であったり、帰寮もしくは校舎へ向かう生徒であったりで溢れて活気のあるメインストリートも今日は閑散としていて、さらに天気も最悪なものだから、よけい寂しく見える。明日になれば学校が始まってまたにぎわうのだろうけれど、そのなかで一人、この気持ちを引き摺ったまま過ごす自分を想像して、何とも言えない苦しさが胸に広がった。うまく息が吸えない。立ち止まってもこれ以上濡れることはないのだからと、その場にしゃがみ込む。
 
 髪から地面へ、次から次へと滴る水滴を眺めているうち段々と足先の感覚がなくなってきて、このまま全部、なにもかもわからなくなってしまえばいいのに、と今日何度目かのため息をつく。図書館にはまだ人がいたし、このままこうしていると誰か通りがかるかもしれない。立ち上がろうとした時、唐突に目の前の影が濃くなってハッとする。嗅ぎなれた香りが雨の匂いとともに立ち込めて、どうして今まで気が付かなかったのか不思議なくらいだった。

「アズール、なんで、傘」
 どうしてここに居るの、どうして傘をさしていないの、別れたんじゃなかったの。言いたい言葉は何一つ出てこなくて、全部全部中途半端なまま影へ吸い込まれていく。
「あなたがここにいるのが見えたので」
 彼はそう言って、わたしの方へ手を伸ばす。それを無視して立ち上がれば、気まずそうに視線を逸らされた。
「何かあったの」
「あんなこと一方的に伝えてきて、……どういうつもりですか」わたしの書き置きを思い出しているのだろう、彼のもともと明るくなかった表情はさらに曇っていく。
「どういうつもりも何も、ない。一緒にいるのがつらいの」
「僕にはひと言も、」
 目が合う。こんなに迷いのある瞳は初めてだった。
「それは、アズールが聞いてなかっただけ」ふ、と鼻から抜けるような掠れた笑い声が出る。「もう無理なの」
 彼がわたしを引き止める言葉を探しているうち、背中を向けて鏡舎の方へ歩き出す。雨に濡れて額に張り付く前髪が鬱陶しい。避けようと顔に触れればじんわり目元が熱かった。口惜しくてたまらない。寮が一緒なのだから帰る方向も同じなのだけれど、だからといって今、彼と話し続けるのは耐えられなかった。一歩踏み出すごとにどんどん早足になっていって、気がつけば走り出している。後ろを振り返る余裕なんてない。早く彼から離れたくて、姿を目に入れたくなくて、彼の元へ戻ってしまいたくなる気持ちごと置き去ってしまいたかった。
 
 
 泣きながら走る、そんな物語じみたこと、自分がする日が来るなんて。どこかまだ冷静な自分が居て、この状況ごと笑い飛ばしたくなってしまう。走って走って、結局足が止まったのは鏡舎が見える購買部前、地の底が揺らぐような轟音が辺りを包んだとき。こんな雨なのだから雷が落ちることくらい予想はしていたけれど、それでも普段聞くことの無い雷鳴はわたしの体を強ばらせるには十分だった。非日常の音。
 怖い。恐ろしい。ふたつの言葉がわたしを巡る。目の前が光る。こわい。おそろしい。
 
「やっと、……追いついた」
 後ろから痛いくらいにぎゅ、と抱きしめられる。振り向かなくても彼だとわかった。腕の中から抜け出そうとする心とは裏腹に、わたしの手は彼の手に重なっている。
「アズール、」
「僕は、……別れたくない」
 耳元をかすめる声は本当に彼の声なのか疑ってしまうほど自信の無いもので、こんな状況でもなかったら全てを許してしまいたくなるような、一種の色香とも呼べるようななにかを纏っている。哀しくて、それでいて艶やかで、ひたすらに切羽詰まった懇願。
「抱いてよ」

 顔を見なくても、彼が目を見開くのがわかった。え、と短い感嘆なのか言葉の始まりなのかわからないものがすぐ近くから洩れて、けれど何も続かなかったからそれはきっとただの驚きの記号みたいな、そんなものだったのだろうと解釈して、続ける。「名前を呼んで、……」
 最後に、という言葉は彼の唇に飲み込まれてしまって、目を瞑る。短くも長くもないキスの後瞼をあげるとスカイブルーとかち合って、劣情だとか憎しみだとか逡巡だとか、全部が綯い交ぜになったものが二人の間に渦巻いた。どちらからともなく手を繋いで、何も言わずに歩き出す。
 
 鏡を通る感覚はいつだって慣れない。平然と鏡を潜っていく周りを見るとき、ぎこちない動きのわたしをクラスメイト達が笑うとき。この世界からの拒絶が明確な意図をもってわたしに突き刺さるような感覚がして、そんなときわたしは、一番消えてしまいたくなる。
 転送される瞬間は、何て例えたらいいんだろう。溶ける、融ける、解ける、……どれにも当てはまらないこの感じ。毎回鏡の前で尻込みして、おそるおそる、片足ずつ踏み込むわたしを一度も笑わず、一緒に居るときは必ず手を握ってくれたのは他の誰でもないアズールだった。固く結ばれた右手の熱を感じながら、鏡へと踏み込む。
 
 どちらの部屋へ行くかは特に決めていなかったけれどわたしたちは寮長室の前で足を止めて、アズールが鍵を開ける間、わたしはずっとうつむいていた。無機質な床。革靴。濡れて色が変わったズボンの裾。そこから滴り落ちる、先ほどまでは曇天のなかにあった雨粒。落ちた先にできるちいさな水溜まり。目に入るものはどれも淀んでいてはっきり見えることはなく、抽象的な油絵に入り込んでしまったみたい、なんて考える。
 
 部屋に入ってようやく、手が解けた。わたしは羽織っていたカーディガンを、彼は寮服の外套とジャケットを脱ぐ。何も言わなくてもすぐにハンガーが差し出されて、彼のこういう紳士然としたところを見るのは久しぶりな気がするな、と思う。久しぶりといっても監督生が帰る前以来なのだから大した前ではないかもしれない、けれどわたしにとってはずいぶん前のことのように感じられて、つまりそれはこの二週間がわたしにとって地獄のような長い時間だったということをありありと示しているのだった。

「服、……着たままだと、風邪をひいてしまいます」
「うん、……」

 返事のあとも動かないでいると彼が手のひらで私の首に触れて、そのままなぞるように頬を撫でた。無意識に上げられた視線は彼の瞳へ吸い込まれてしまって、ガラス越しに映るわたしもまたこちらを見ている。何一つ表情を宿さない顔。
 彼の手はいつもよりずっと暖かく感じられる。けれど実際にはそう感じられるだけで、私の顔のほうが冷えているだけだったと気がつく。わたしは、どんな時も冷たいこの手が好きだったのだ。

 アズール、と名前を読んだら、まるでそれが合図だったみたいにキスが降ってきて、…そう、噛み付くようなキスっていうのはまさしくこういうのをいうんだと思う。だんだん深くなるうち、初めの頃は唇が触れる前に眼鏡が顔に当たってしまったり歯がぶつかったりして笑いあったこともあったっけ、とどこか懐かしい気持ちが湧いてくる。いつもは余計なことを考えている余裕なんてないのに、何故か今は頭の中で、過去の彼とわたしが浮かんでは消えてを繰り返していた。彼が私の襟元にふれて、ハッと意識が現在に戻る。自分で脱げるとだけ告げてボタンを外し始めると、彼はそれ以上私に触れることなく自分のシャツに手をかけた。
 
 恋人同士のように二人でシャワーを浴びて、恋人同士のように抱き合って。お互いもとから口数の多い方ではなかったけれど、今日は特に会話が少ない。ことが終わってから終始わたしを窺うような彼と彼のそんな様子について知らないふりをするわたしでは、話が弾むわけも無かった。抱きしめられる、キスをされる、髪を撫でられる、好きだと言われる。それらのことがらについて拒絶も言及もせずただ目をつぶっているわたしは、彼にどう見えているのだろう。
 
 朝。ベッドをを抜け出そうとして、彼の腕に捕まる。起き上がるのをあきらめて元居た場所へ戻ると、なぜか彼は戸惑ったような、言いたいことを隠しているような煮え切らない表情をしていて、思わず「どうしたの」と聞いてしまった。

「僕は、別れたくありません」彼の凛とした声が響く。
 何の隔たりもないスカイブルーの瞳は真っすぐで、気圧されるような純粋さがあった。言葉からも彼自身からも背を向けるようにして寝転がって、クローゼットの扉にかかるカーディガンに目をやる。一晩経って完全に乾いたそれは元の色を取り戻し、日常に溶け込んでいた。他の物もすべて。シャツ。キャミソール。クシャクシャに丸められたサラシ。ズボン。靴下。革靴。彼の恋人ではなくなった非日常のわたしだけが、この部屋から浮いている。

「わからないの。アズールがわたしの事を好きなのかどうか、……わからなく、なったの」
 このまま戻ってしまえばいい。全部我慢して、なかったことにして、元通り。心ではそう思っているのに、あの日届かなかった言葉たちがまだ、私のなかを揺蕩っている。
「物珍しさ」握られた手のひらに爪が食い込む。「わたしの価値なんて、最初からそれしかなかった」
 声が震える。息を止めていても我慢できなくて、涙が一粒頬を伝った。乱暴に手の甲で拭って、続ける。
「わたしは、アズールが一番大変な時に居なかった。望む言葉もかけてあげられないし、愛嬌もない、……それに、魔法の使えない可愛い女の子でもな、」「もういいです」

 彼はそう言うと同時にわたしの肩を強引につかんで、自分のほうへ引き寄せた。こんなことは初めてだった。驚いたあと、彼はきっと怒っているのだな、と思う。彼がわたしに触れるときはいつも例外なく優しくて、そのたびにわたしは、まだ彼の恋人で居られているのだという事実に安堵していたのだ。
「あなたが帰らなくて、良かった。居なくならなくて、……本当に、良かった」
「……そう」
 温度のない返事はいやに響き渡って、それからやっぱり、彼に届かない。
 
 数日前と同じように彼のクローゼットからわたしの部屋着を取りだす。その時、机の上の本に書置きが挟まっているのが見えて、彼もそれに気がついたのか、昨日雨の中でそうしたのと同じように、後ろから抱きしめられた。昨日から彼はことあるごとにわたしに触れて、腕の中に閉じ込めたがる。わたしは、居なくなったりしないのに。

「これ、そろそろ撤回してくれませんか」
「そうだね、……もう、いいかな」
 本の中から薄っぺらな紙を取り出して、ひと思いに引き裂いた。半分になって、さらに半分になって、最後は欠片みたいになった手紙はきっと死んだ想いの残骸。それらをぎゅっとまとめてゴミ箱へ抛るとき、わたしたちの間にあった何かがばらばらと音を立てて崩れていくのが見える気がした。
 
「別れるなんて言って、ごめんなさい」

 代わりでも二番目でも繋ぎでもいい。もとよりわたしには、彼しか居なかった。もう一度彼とベッドに沈んで、視界には天井の海。日常に溶けたわたしはもう二度と、彼のいちばん好きな人にはなれない。






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