雪色へ染まる



 見渡す限りの白。といっても、純白より銀色に近い。降り注いだ陽が雪の地面に反射して、目が焼けるようだった。鋭い空気に鼻の奥がツンとする。本当に寒い時って涙が出そうになるけれど、あれはどういう理屈なんだろう。皆がそうなるんじゃなくて、わたしだけなのかしら。少なくとも目の前の彼は平気そうにしているし、けれど彼はそもそも人間では無いのだった、そんなことを考えながら一歩一歩、まっさらな地面を踏んでいく。足跡はひとつもなくて、それがなんだか気持ちよかった。無地のキャンバスに最初の色を付ける瞬間。新品のシャツのボタンを外すとき。アイスティーにミルクを入れる瞬間。新雪をぎゅっと踏みつけるときはそのすべてを集めて凝縮したみたいな、そんな気分になる。
   
「ちゃんと前を見て歩かないと、転びますよ」

 次々に現れる靴のスタンプを目で追っていたら、彼がわたしの腕をそっと掴んだ。ポケットの中の手に力が入って、肩がびくりと跳ねる。頬に熱が集まる。彼とこうして出かけることは決して珍しくないし、隣を歩くくらいだったら普通にしていられるようになったけれど、急に触れられるのは訳が違った。赤くなっているであろう顔を見られたくなくて、彼から視線を背ける。けれど、マフラーを頬の辺りまで引き上げようした手が彼に捕まってしまって、絡め取られた。そのまま、所謂恋人つなぎに変わって、彼との距離が一気に近づく。

「アズールがいれば転ばないでしょ、……だからいいの」
「あなた陸で生活して何年目ですか? 僕が支えてもらいたいくらいですね」 
 真面目な表情の彼が可笑しくて、ふふ、と笑う。「たしかに」 
 
 学園の中は本当に広くてまるでひとつの街みたい、と思う。入学して二年経った今も、構内で迷って彼に探し出してもらうことは割と頻繁にあるし、わたしを一人で歩かせるとそうなることが分かっているから、彼は大体の時間一緒にいてくれる。ウィンターホリデーは皆が帰省してしまうからきっと彼も実家のある海へ行ってしまうのだろうな、と思っていたけれどそんなことはなく、毎年学園に残っていた。

何でも流氷が邪魔をして帰りづらいとかで、入学してすぐに迎えた最初の冬、当時一年生だったわたしは人生で初めて流氷に感謝してしまった。春は彼も帰省してしまうけれど、今度は冬に帰っていた友達が寮に残ったりしてくれて、なんとかやり過ごしている。それに、寮の自室で海にいる彼を想う時間も、わたしは好きだった。

「もう三年生かあ、……」

 下を向いたまま、独り言のように呟く。そこまで大きな声で言ったつもりは無かったのに、雪がわたしの声を弾いたかのように辺りに響いてしまう。顔を上げて、座ろっか、と誤魔化すように続ければ、何事も無かったかのように「そうですね」と返ってきて、余計に恥ずかしい。

 
 鏡舎から少し歩いた先にある広場のベンチはわたしたちの中で定番のデートスポットみたくなっていて、特にこういう雪が降った次の日は必ずと言っていいほど訪れている場所だった。

「何か、悩みごとでも?」

 冷えた指先が手の甲に押し付けられて、思わず彼の方を向いてしまう。今日初めて見る硝子越しの瞳は柔らかく澄んでいた。流氷の間からのぞく深くて暗い海とその上に広がる晴れた空の色をごちゃ混ぜにして溶かしたみたいな、どこまでも静かな色。ぼうっと眺めていたら唐突に白いものが舞って、首や顔、それから手にひんやりとした感覚が訪れた。彼の周りに降り注ぐ雪は何かの羽のようにも見えて、目が離せない。視界がスローモーションみたいにゆっくりとしていて、彼は絵の一部を切り取った様に、作り物じみた美しさを放っていた。まつ毛にふわりと乗った雪が瞼の熱で溶けて、彼がぼやける。

「あっという間だったなあ、って思って」目元を拭って俯く。「来年の今頃は、一緒にいられないんだよね」

 研修。留学。四年生になったらいろんな選択に迫られて、彼とわたしはきっとバラバラに生活することになる。そうして四年生の冬も夏も過ぎていって、卒業、……その時にわたしは皆がしなくていいもうひとつの決断もしなくちゃいけなくって、即ちそれは彼と別れるか別れないかに直結する。
 
「確かに、そうですね。あなたと僕じゃ進路も違うでしょうし、……」
「うん。同じには、ならないと思う」思っていたより自分の声が落ち込んでいて、取り繕うように続けた。「でも、卒業してからもたまにこうして会えたら、嬉しい」

 数秒待っても、彼は答えない。表情は見えないけれど、なんとなく周りの空気が冷たくなったというか、温度が下がったように感じる。気まずい雰囲気に耐えかねて、ピッタリくっついていた肩を離した。繋がっていない方の手で頭やコートについた水滴を払ったり、地面の雪を削ったりして、それでもまだ彼は何も言わないから、困ってしまう。スマートフォンで時間を確認すれば外へ出てから三〇分くらい経っていて、通知はひとつも来ていなかった。
 
 
「寒くなってきましたし、もう寮へ戻りましょうか」

 彼がおもむろに立ち上がって、つられてわたしもベンチから腰を浮かせる。立つだけの動作でもやっぱり品があって、彼が素敵でない時なんてこの世に存在するのかしら、なんて思った。今までの人生で出会った人のなかで、最も美しいひと。最も好きなひと。

「アズール、」彼の方へ向き直して、唯一触れていた右手を離す。ぴたりと閉じられた脇腹と腕の間を縫って背中に手を回せば、冬とコロンが混ざったような匂いが鼻に広がる。「やっぱり、ずっと一緒にいたい」

 思えば、わたしから彼を抱きしめたのなんて、初めてかもしれない。キスだっていつも彼からしてもらっていたし、告白も彼からだ。さっきと同じく彼は何も言ってくれなくて、あたりは真っ白な静寂に包まれている。
 
 
 しばらくして(といってもそう感じただけで、きっと数秒のことだったのだろうけれど)、彼がゆっくり、何かの確認みたくしてわたしのことを抱きしめ返した。たどたどしくて、まるで初めてのハグみたい。はずみで髪から雪のしずくが首に滴り落ちて、寒さからくるぼんやりが一気に霧散する。ずっと一緒にいたいなんて、何を思いあがってしまったんだろう。いつまで彼のそばに居られるか分からないくせに。取り残されるのは自分ではないのに。

「ごめん、……違うの、言ってみただけで」
「言ってみただけ、で済まされるようなセリフでは、なかったように感じますが」

 背中に回した手を下ろして彼から離れようとしたけれど腕で動きを制されてしまって、結局そのままになる。諦めて彼の肩に頭を預ければ何度か優しく撫でられて、意識するより先に謝罪の言葉が零れ落ちた。「……ごめんなさい」
「ずっと、一緒に居ればいいじゃないですか」

 耳が冷たい。足先が冷たい。なのに顔と彼に触れているところだけが身体とは別物みたいに熱くって、海に浮かんだとき顔だけ出して太陽に焼かれるあの感じに似ている気がした。海水浴なんてこの世界に来てから一度もしていないからそれは昔のわたしの感覚で、このたとえが適当なのかも的はずれなのかも分からないのだけれど。

「でも、そんなこと、」

 顔を上げると想像してた空はそこになくて、代わりに彼のスカイブルーとかち合った。波の少ない、空と一直線の海。

「……そんなに、信用出来ませんか。来年になっても、卒業しても、……僕はあなたを離したりしない」

 ついに涙が頬を伝って、目を瞬く。睫毛が水分を纏って視界がぼやけた。俯きかけたわたしの顔を彼の長い指が捉えて、そのまま上にぐいと持ち上げられる。表情を窺う間もなく唇が触れて、慌てて瞼を閉じた。触れるだけの短いキスを何度もされているうちに涙は止まっていて、唇が完全に離れたとき、どちらからともなくふふ、と笑みが洩れる。

「…そうだよね、アズールに叶えられないお願いなんてないもの」揶揄うように言ってみれば彼もいたずらっぽい笑みを湛えていた。狡い微笑み。この顔が好きだ、と心の底から思う。
「これからもずっと、一緒にいて」

 契約もかわさず彼にお願いするのはきっと、わたしだけの特権だ。いつの間にか晴れた空は足元を照らしていて、やっぱり目が焼けるほど、眩しかった。






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