消えゆく朝は午後へ向かって



いつからだったかはもう思い出せないけれど、こうやって彼の部屋を訪れてふたりで眠るのは、最早日課みたいなものになっている。毎日とはいかなくとも、かといって三日あくことはそうそうない。一週間の半分くらいはこの部屋で一日を終えて、新しい朝を迎える。高校生の男女がふたり同じベッドで寝て、しかもキスまでしているのにその先は何も、なんて、きっと誰にも信じてもらえないとは思う。それでも私たちはただ一緒に眠るだけで、付き合ってなんかいないのだ。この学園で、この世界で、唯一私の秘密を知る彼は、私のことを好いてなんかいない。ここにあるのは、同情、憐憫、……友情?

 目がさめて、隣に男のひとがいる。二年前までは想像もしなかったこと。すっかり彼で上書きされてしまった私の世界において、この光景は最も幸せで、それから残酷だ。

 窓の外をのぞけば海、日光を遮断するためのカーテンは存在せず、ここから月が見えることは天地がひっくり返ってもない。一年中ひんやり冷え切った寮には人魚たちが多く在籍していて、私の目の前で眠っている彼アズールも、今は変身薬で人間の姿になっているだけで本来は海を泳ぐタコの人魚だ。
 こんなこと、この世界に生きるひとたちのなかでは普通のことで、特別騒ぎ立てる事ではないのだけれど、私は今でも、すべて夢なんじゃないかって思う。

 最初、授業は知らない単語を辞書で引いているうちに終わってしまっていたし、魔法の使い方だって、小学校(この世界では外国式に、エレメンタリースクールと呼ばれている)で習うはずの事がクラスで一人だけできないなんてことも多々あって、夜は毎晩眠れなかった。夜に泣くと次の日の朝顔がひどいことになってしまうから、洗面器に水を張ってその中で泣く。声をだすと周りの生徒を起こしてしまうから、手のひらに思い切り爪を立てて押し殺す。そんな日々。二年目ともなれば大体の事には慣れてしまって、最初は変わり者みたくみられていただろう私はすっかり普通の生徒になっていた。
 
「アズール、おはよ」

 ん、とくぐもった声をあげた彼はゆっくりと瞼をあげて、よく見えていないのか目を細めながら、腕をこちらへ伸ばして私を引き寄せた。起きたばかりだと言うのに案外力が強くて、抜け出そうにも身動きが取れない。抜け出すのを諦めて、彼の襟のところに顔をよせる。

「今日は、何かあるの」
「夜はモストロラウンジに、……今日、あなたも出勤でしたよね?」
 この、普段よりも低くてすこし気怠そうな声が聞けるのは今のところ、私の特権となっている。
「うん」

 今日だけ。今だけ。この瞬間だけ。こんな言葉、何度心の中で繰り返したかわからない。彼の恋人でも、もしかすると友達でさえ無いかもしれないのに、私は今日もこうやって彼の腕の中にいる。彼の温度。彼の匂い。抱きしめる腕の感触。今日の私が当たり前のように享受している幸せは、もしかすると明日突然、初めからなかったかのように消えてしまうかもしれないのだ。

 こうしていられる時間は、あともう僅か。数分も経てば彼はすっかり目を覚ましてしまって、身支度を始める。下手をすると一日中横になって過ごしてしまう私とは違って、彼は休みの日でもきっちり朝から行動するのだ。たまに、もう少しゆっくりすればいいのになんて思うけれど、彼にはやらなきゃいけないことややりたいことが沢山あって、今の状態でも時間が足りないように見えるから、何も言えない。彼の努力家なところを素敵だと思う反面、だからこそ隣に並ぶべきは私ではないのだろうなと勝手に悲しくなってしまったり、それでも期待をしてしまったり。彼を中心に回る私の世界は目まぐるしくて、まるで恋をしているみたいだ。

 ぼうっと考え込んでいると不意に、名前を呼ばれた。彼はいわゆる腕枕というものをしてくれていて、更にもう片方の腕も私の首元に回っているものだからとにかく、距離が近い。顔をあげると色素の薄いブルーの瞳と視線が交わって、思わず何度か目を瞬いた。他の人たちよりはこの美しい顔や目を見る機会は多かったと自負しているけれど、何度見たって慣れられるものではない。彼と何食わぬ顔をして会話をしているクラスメイトやラウンジの従業員たちは今まで一体どんな環境で過ごしてきたのだろう。
 容姿端麗、眉目秀麗……どの言葉も似合うような気がするし、彼の美しさは言葉なんかで表現できるものではないのだという気もする。

「さっきから、何か考えごとですか」
「いや、アズールって綺麗だなあと思って」
「突然なんですか。僕の顔なんて見慣れたものでしょう」
「見慣れていても美しいものって、あるでしょう」

 例えばほら、夕日とか星空とか。あとは何だろう、お花とか?
 次々と挙げられていく具体例をしばらく不思議そうに聞いていた彼はついにちいさく笑って、それから私の頭をそっと撫でた。そのまま何度か髪を梳かした後、耳に触れて、その次は頬。恥ずかしくて目線を下にやっていると、熱を持った指先が首筋をなぞる。

「ア、アズール、……こんな、彼女にするみたいなこと、」

 彼は答えない。表情を窺おうと顔をあげたけれど、それがわかっていたみたいに抱き寄せられてしまって、見ることはかなわなかった。アズール、ともう一度呼んでみる。背中に回されていた手に少しだけ力が入って、私たちの間にあった数ミリの距離はすっかり埋まってしまった。くらくらするくらい彼の匂いで一杯になって、それなのに彼はまだ力を緩めない。別に痛くはないけれど、こうも強く抱き締められたことは今までなくて、なぜだか不安になる。唯一自由の利く右手を彼の背中に回せばもう一度髪を撫でられた。

「すみません」すぐ近くで声が響く。
「……どうして、謝るの。何もしていないじゃない」
「でも、」
「分かるよ、でも、アズールに謝られてしまったら、……私たちが過ごしてきた時間が、まるで駄目なことだったみたいに、思えてしまうから」
 友達でも恋人でも無い関係。誰よりも近くに居るけれど誰よりも遠くて、私たちはどこまでも他人だった。
 

 きっと彼は覚えていないだろうけれど、初めて一緒に過ごした夜のことを、私は鮮明に覚えている。
 この世界に来て、入学して、一ヶ月経った頃。寮生活といえどもなにかと自由が利くこの学園では、夜も談話室で喋っている生徒が多い。そんな中、私はいつも前日の課題を終わらせるのに必死で、折角馴染めそうだった同寮のクラスメイトたちの輪にも入れずにいた。今では顔を合わせても、挨拶程度の人たち。もとより話が得意なタイプでもないから、どのみち一緒に過ごす間に見限られてしまっていたのかもしれないけれど、それでも仲良くなるチャンスすら無いというのはなかなか辛いものである。この日も課題をひとつひとつ片付けているうちに日付が変わってしまっていて、気がついたら目から溢れた涙がノートに染みを作っていた。

 つかれた、と独りごとが口から洩れて、とりあえず目の前のノートを閉じる。教科書も全て積み上げて、端へと追いやった。そのまま姿勢を崩して、ため息とともに机へ突っ伏す。
 帰りたい、漠然と心に浮かんだ願望を打ち消して、ため息を吐いた。帰りたいといっても、どこに。ここで生まれ育ったなんてことあるわけはないとは思っているけれど、かといって元いた世界の記憶もあやふやなのだから、最早どうすることもできない。記憶が戻りますように、と願うことも、いつか帰ることが出来たら、と希望を持つことも、目まぐるしく過ぎていく毎日の中では、無意味のような気がした。

 今日のぶんは諦めて寝てしまおうかしら、とベッドに寝転がったところでノック音がする。ぐしゃぐしゃになってしまった髪の毛を整えながらドアを開けた。

「夜遅くにすみません」
「ア、アズール、……どうしたの」

 アーシェングロット君、と言いかけたのを何とか飲み込んだ。入学してからずっと彼のことはファミリーネームに君を付けて呼んでいたのだけれど、最近、クラスメイトだから、だとかオクタヴィネル寮の同級生だから、だとか色んな理由を付けて名前で呼ぶよう説得された。私はもともと男の人に慣れている方ではないから逆らうことも出来ず、ただ従っている状態。彼には入学式の日からお世話になってばかり居るのだから、もとより拒否権なんてないのかもしれないけれど。

「今日の課題、もう終わりましたか?」
「……まだ、だけど」

 後ろの机にある課題の山に目をやって、それから俯く。私が課題をやっていなくたって彼には何のデメリットも生じないのに、なんだか後ろめたかった。ぼんやり眺めていた彼の足元と部屋の床がどんどん滲んでいくのがわかって、慌てて指を目の下へと滑らす。

「ごめん、なんだか目の調子が悪くって」思い切り声が震えてしまって、さらに涙も止まらない。拭いきれなかった涙が頬を伝って、服へと染みていった。
「そんな見え透いた嘘、つかないでもらえますか」

 突き放すような口調とは裏腹に、彼は私の肩をそっと引き寄せた。良いのかな、と一瞬躊躇したけれど、これはきっと彼の優しさなのだと思うことにして、彼の胸へと頭を預ける。今までひとりで泣いていた分こうして人に抱きしめられてしまうと涙が止まらなくなってしまって、しばらくそのまま泣き続けた。
 

「僕の部屋で課題、一緒にやりませんか」

 私が泣き止んでいても彼の声色は優しいままだ。ベッドに座っていると先程投げ出した課題が目の前に差し出されて、何も言えずに受け取った。泣いたあとってどうしてこんなにぼんやりしてしまうのだろう。ノートや教科書を開こうとした手は彼に引かれてしまって、私は為す術なく彼の部屋へと招かれることとなった。
 
 初めて入る彼の部屋は想像通りきちんと整頓されていて、だらしがないところなんてひとつも無い。一センチもずれることなくピッチリと並べられたコインのコレクション。見るからに重そうで頑丈な金庫。シワのないシーツ。海を思わせる家具たちの色。すべてが、彼らしさで満ちている。

「アズールの部屋、初めてだから緊張する」
「……別に、何もしませんよ」

 彼の形のいい唇の端がキュッと上がるのを眺めて、この悪戯っぽい顔は少年らしくて良いな、なんて思いかけてからようやく、何を言われたか理解した。繋がれたままの手がじんわりと熱を持っている。「そ、そういう意味じゃ、」
「分かっています」

 そう言った彼はもういつもの余裕ある笑みに戻っていた。手もあっさりと離されてしまって、机の方へと案内される。勧められるまま椅子へと腰かければ次々にノートが積まれていって、試しに一番上のものを捲ってみるとそれはどうやら私が苦戦している単元についてまとめられたものらしかった。二冊目は他の教科の、やはり私が苦手とする範囲。どうしてわかるの、と目線で訴えれば、「あなた、自分が思っているより顔に出やすいタイプだと思いますよ」なんて淡々と述べられてしまう。顔に出やすいタイプ。人生で初めて言われた言葉だった。

 ノートを見ながらさらに隣で彼が解説を挟んでくれて、課題は私がひとりでやるより何倍ものスピードで片付いていった。
 ときどき私が彼に謝って、その度に彼が大丈夫です、と普段よりも素に近いのであろう抑揚の抑え目な返答をして、そんななか夜は少しずつ深くなって、だんだんと朝に溶けていく。

 窓の外の海はどこからか差し込む朝日に照らされ煌めいている。一面海に囲まれたこの寮は決して急ではない、それこそ深海から浅瀬に浮上する時みたいな緩やかな変化をたどって、夜から朝に変わっていく。眠れない夜ひとりで見るにはこの上なく孤独を感じさせる光景で、嫌になるほど綺麗なもの。

「あとは明日にして、そろそろ寝ませんか」
 一区切りついたところで、彼が口を開く。そろそろ寝るといってももうすっかり朝になってしまっている上、数時間もすれば学校が始まる。眠れても一時間ないくらいだ。
「今寝たらきっと、起きられなくなる」
「……本当に疲れていたんですね。明日から週末ですよ」

 少し疲れた顔で、彼が笑う。慌てて手帳を確認すれば彼の言うとおり明日からは週末で、当然学校も無い曜日だった。
「や、休み……、それならどうして」
「休みの日も勉強しているから、外に出ていないんですよね?」
 今日のうちに終わらせておけば、週末出かけられるかと思いまして。ノートや筆記用具を片付けながら言う彼の声色には優しさが充ちている。
「だから今は、このまま寝ましょう」
 

 あの夜、というか朝の記憶は眠たかったはずなのにどこまでもはっきりとしていて、今でもほとんど完璧に思い出せてしまった。一緒のベッドで彼と眠って、確かそのあとは街のカフェへと赴いたはず。その直後にテストがあって、モストロ・ラウンジのオープンを聞かされた時はものすごく驚いてしまった。今思えばあの時カフェへ行ったのは下調べというか同業者へのリサーチというかそういった類のもの、もしくは気まぐれなんかだったのかもしれないけれど、理由や目的がなんであれあの時の私は間違いなく、アズールに救われた。

「また、考えごとしてました?」
 しばらく何も言わずにいた私を不思議に思ったのか、彼が訊ねてくる。直前に何を話していたのか一瞬わからなくなって、それから、彼に謝られたことを思い出す。

「うん。アズールと初めて寝た時のこと、……」
「……語弊のある言い方ですね」
「事実しか言ってないもの。最初はこの部屋で勉強を教えて貰って、そのまま寝てたんだったね」
 そうですね、と答える彼の声色はやはり、どこまでも柔らかい。そっと肩に頭を寄せてみる。
「女だって話しても態度を変えないでいてくれて、嬉しかった。沢山助けて貰っちゃったし」
「あなたは本当に、鈍感というかなんと言うか」

 どういうこと、と思わず顔を離せば、彼も私から少し距離をとるようにして体勢を変えた。布摺れの音がして、目が合う。
「ただの親切で優しくされたと思っていたんだとしたらもう少し、人を疑うことを覚えた方がいい」あの時と同じ、悪戯っぽい笑みだった。「僕はずっと、あなたが好きです」
 うそ、口から零れた言葉はほとんど声になっていない。
「本当は、あなたが帰る方法を全て絶ってから伝えようと思っていました」
「す、全て絶つ…?」
「それまで繋がっていられれば、何だって良かった。寂しさにつけ込んで、一緒に寝て、……キスをしてしまったのは、申し訳ないと思っていますが」

 彼の表情からは申し訳なさなんて微塵も感じられなかったし、むしろ今まで見たことの無い狡猾さだとか計算高さだとかが透けて見えるような気がする。恐ろしいほど美しい、裏切りの微笑。
 彼の指が一本ずつ、頬をなぞっていく。魔法にでもかけられたみたいに体が動かない。瞳のライトブルーはただひたすらに冷たく、私だけを映していた。彼がそっと体を起こして、私の足と足の間に割り込むようにして膝をつく。横に置かれた両腕で視界が狭くなって、彼しか見えなくなる。
「ま、待って、」
 伸ばした手は掴まれてしまって、そのままシーツへと押し付けられた。アズール、と小さく呼ぶ声は空気を含みすぎていて、彼に届いたか定かでない。途中で唇が触れる。この状況に似つかわしくないくらいの優しいキスだった。瞼を閉じていると何度か口付けられて、そのあとで思い切り抱きしめられた。さっきよりも強く、まるで何かに怯えているみたいに。
 
 
 
 長いハグのあと彼は一言謝って、それから私に背を向けた。謝られた割には拗ねているような感じというか、これではまるで私が彼の機嫌を損ねてしまったみたいだ。
 何気なく彼の背中へ手を伸ばして、なぞってみる。一瞬肩が小さく震えたけれど、特に反応はない。

「私も、アズールが好きだよ、……たぶん、ずっと前から」
 光沢ある銀色の髪の先を目で追いながら、噛み締めるように告げる。
「ずっと前、……僕はきっとそれより前から、好きです」 
 彼がこちらへ向き直す。いつから、と聞きたかったけれどそれを聞いてしまったらきっとまた、この関係に名前がつく機会を逃してしまう。

「アズール」名前を呼んで、自分からキスをした。さっき彼がしてくれたのには程遠い、幼くて短いキス。分かりやすく驚いた表情をする彼が新鮮で、離れてすぐ笑ってしまった。思えば私からキスをしたのは、初めてかもしれない。

「ちゃんと言って、欲しい」
 目が合って、彼もふ、と小さく笑った。
「僕と、付き合って下さい。それから、」
 続きの言葉は聞かなくても分かる。方法を全て絶つなんてことさせなくたって、私の気持ちは決まっていた。
「アズールと、ずっと一緒にいる」
 言った途端、涙が出る。彼は私をぐっと引き寄せて、思い切り抱きしめてくれた。泣いたのは、あの夜以来のことだった。
  
 今日はふたりで初めての二度寝をして、起きたらまた、今度は恋人として私からキスをしよう、なんて思った。曖昧な関係にようやく名前がついた朝、特別な朝。窓の外の海が煌めいて、眩しかった。






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