7月7日、晴れ



 また来ますね、と彼は言った。けれど、待っても待ってもお店に現れることはなくて、会えなくなってからもう三か月も経ってしまっている。

 彼は、毎週火曜日の夕方になると必ず一人でやって来て、本を一冊だけ買っていく。それも法律だとか、政治だとか、難しい本ばかり。彼が帰ったあとに同じ本を手に取って読んでみたりもしたけれど、言葉のひとつひとつが全部堅苦しくていまいちよく分からなかった。なんと言うか、目が滑る。

 年は私と同じで、この街から一駅先にあるナイトレイブンカレッジに通っている。知らないものはいない、名門の魔法学校。寮がいくつかに分かれていて、彼は2年生ながら寮長を務めているらしい。
 学校も寮もあまり馴染みがないから、彼からそれを聞いた時、すごいですね、としか言えなかったのが悔しい。なんの重みもない、浅慮のかたまりみたいな返事。この上なく浮薄。聡明な彼を前にして私の経験の少なさだとかお気楽さみたいなものがバレてしまっていくような気がして、それ以上は会話が続かなかったことを、覚えている。何がどう凄いのか、そもそもそれが彼の努力でどうにかなるものなのか、私にはわからなかった。

 ふと思い立って、彼が前に予約していた本の領収書を探してみる。名前が分かるかもしれないと思った。私は、彼の名前も知らない。奥の棚から分厚いファイルを出して、パラパラめくってみると、すぐにその時の控えが目に入った。ああ、と声が出る。この時は確か、店で使うレシピ本を注文してくれと言われた気がする。

 宛名は、モストロ・ラウンジとなっていた。明らかな会社名。ラウンジ、とあるからカフェか何かなのかしら。隅々まで見ても、そこに彼の名前はなかった。そこで、この宛名を書いた時も、名前が分かるのではないかと期待したことを思い出す。
ーーー領収書の宛名はどうしますか。ああ、モストロ・ラウンジで。スペルはこれで合ってますか?はい、大丈夫です。
 この時に聞いておけばよかったな、と思った。それから、名前など、彼がここに来てくれさえすればいつでも聞けたではないか、とも。

 よく晴れた夜空を見ながらシャッターを閉めていると、いつもより綺麗に星が見えることに気がついた。手を止めて、目を凝らしてみる。ベガとアルタイル、という言葉が頭をよぎった。誰かの名前のようだけれど、なかなか思い出せない。日付に関係していた気がする。

 向かいの店の休業日カレンダーで、今日の日付を確認した。今日は7月7日。ゾロ目か。なんだか縁起がいいような気がする。7月7日には地域によって色々な風習や逸話があるらしく、私の住んでいる国ではあまり浸透してはいなかったけれど、そういうのが好きな友達から少しだけ、聞いたことがあった。
 遠い東の国では、この日にタナバタという名前まで付いていて、伝説上の、一年に一度しか会えない恋人たちが会える日なのだと。多分、それだ。ベガとアルタイル。こんなによく晴れているなら、きっとベガとアルタイルは会えたはずだな、と思うと、なんだか幸せな気持ちになった。

 私も彼と会えたらいいのに。
 星でも、恋人でも、ないけれど。

 星々の煌めく夜空を十分堪能してから、店の中に戻る。留守電を閉店後仕様にしなくては、と電話を操作していると、昨日の夜のことが思い出された。
 昨日の真夜中、二階にある自室で寝ている時、店の電話が一度だけ鳴ったのだ。あまりにも短かったし時間も時間だったから夢かと思ってすぐに眠ってしまったのだけれど、今確認したらちゃんと、履歴が残っている。知らない番号。大事な用事だったらかけ直してくるだろうし、そんな時間にかけてくるような人も思い当たらない。というか、この電話は滅多に鳴らない。この電話、無くしてもいいんじゃないの、と常連のお客さんの言葉がよぎる。本当にそう思う。
 だからこそ、彼にこの店の電話番号を教えてくれ、と言われたのが印象に残っていた。

 もし、彼だったら。名前も知らないけれど、沢山お話したこともないけれど、一目見た時から私は彼が好きだった。古びたこの店に似合わない瀟洒な服装、丁寧な言葉遣い、優しい微笑み。ふわ、と香るコロンのような匂いも彼によく似合っていたし、そういえば、電話番号をメモしていた時の字も綺麗だった。

 彼だったらいいのに。今日は、タナバタ、だし。
 その時、シャッターの外からあの優しい、声がした。






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