日曜日は何度だって来るのだから



 今日が終わったら、明日からはまた学校。何も考えずに休めればいいのだけれど、日曜日はずっとそんな気持ちで過ごしてしまうから、なんだか全然休みって感じがしない。
 一番いいのは金曜日の夜、それか土曜日の朝。何でもできる気がしていた前日の気持ちと、学校に行かなくてはいけないっていう週初めの朝の気持ちに挟まれた日曜日は、大体憂鬱だ。もちろんこんな考え方は損だっていうのはわかっているし、この間も彼に言われたばかりだった。

 そんなこんなであまり好きではない、日曜日の午後。計画を立てないで過ごしてしまうと一日ベッドの上なんてことも十分あり得るから、特に予定はないけれどこの間買った色味のきれいなスカートを履いてみた。試着室で試した時、自分が映画の主人公にでもなったかのような気持ちなって、一瞬でワルツの鳴る舞踏会に連れていってくれた、そんなとっておきのスカート。
 鏡の前に立って、つま先から頭の上まで眺めてみる。スカートは買ったときのまま、やっぱりかわいかったけれど、髪の毛もちゃんとしていないし、顔だって起きて洗ってそのままだ。どう見ても浮いていた。ひとつため息をついて、ベッドの上の部屋着を手繰り寄せる。のそのそと着替えて、そのままシーツに寝転がった。椅子に掛けたスカートは私に履かれている時よりも鮮やかな気がしてまたため息が出る。
 大して興味もないマジカメのトピックを流し読みしていると、先程まで感じることのなかった眠気がおしよせてきた。このまま眠ってしまってもいいかしら。どうせ予定なんかないのだし。


 コンコン、と扉を叩く音が聞こえる。これはきっと夢ではなく現実で鳴っている音なのだと分かっているのだけれど、起きられない。意識は何となくはっきりしていても、目が開かないのだ。たいした用事でないのなら出直すだろうし起きなくてもいいか、なんてぼんやり考える。もう一度ノック音がした。大体私の部屋を訪ねてくる人など限られていて、というか、ひとりしか思い浮かばない。扉が開く音がする。

「おはようございます。全く、いつまで寝てるんですか」
 こちらへ近づいてくる足音と一緒に、聞きなれた声がした。
「アズール・・・・・・?特に予定もないんだから、寝てたっていいじゃない」
 瞼を擦りながら、ゆっくりと起き上がる。彼との距離が想像していたよりも近くて、小さく肩が跳ねた。一気に目が覚める。
「もう付き合って長いんですから、近いくらいで驚かないで貰えますか」

 そう言いながら眼鏡のフレームに触れる彼は今日も絵画から出てきたみたいに整った顔立ちをしていて、格好いいとか美しいとか、そういう言葉では最早表せない位に、素敵だった。
 勿論彼、アズールの魅力は顔の良さだけでは無いのだけれど、私は恋人になって二年経つ今でも、彼の顔をまともに見つめることが出来ないでいる。

「多分一生、無理だと思う」
「一生、・・・・・・」
「今のは、言葉のあやってやつ。それより、なんかあったからわざわざ来たんじゃなかったの?」

 それとなく乱れた襟や前髪を直しながら聞く。会いに来る時は事前に言って欲しい、と喉元まで出かかった言葉は飲み込んだ。見ていないけれど、スマートフォンに連絡が来ているはずだ。

「時間が空いたので、どこか出かけないかと、・・・・・・スマホの方には連絡したんですが、まさか寝ているとは」
 分かりやすく呆れた表情を浮かべる彼は、両手を広げてやれやれ、といわんばかりのポーズをとっている。
「休日に出かける相手なんてアズールしかいないんだから、そのアズールがいないとなれば私はもう寝ているしかないんだよ」

 堂々と言い返してはみたものの、我ながらなんて悲しいセリフなんだ、と自嘲的な笑みが漏れた。彼にこそ笑って馬鹿にしてほしかったのに、何も返ってこない。仕方なく、「今日忙しいって言ってたでしょ」と付け加える。

「最近あまり、会えていなかったので」
「いや、毎日会ってたじゃん」

 彼を見ると先程とは打って変わってひどく優しい顔をしているのものだから、胸のあたりがきゅっと締め付けられる。漂い始めた恋人らしい空気に戸惑いつつも逆らうことが出来なくて、ごく自然に絡められた指に少しだけ力を込めた。

「二人では、会ってなかったでしょう」
「確かに、……それで、来てくれたの」

 返事が返ってこなくて顔をあげる。彼の澄んだ瞳を見ているうちにそっと顎を持ち上げられて、数秒の沈黙。耐え切れなくて目を閉じると、彼がふ、と小さく笑うのが聞こえて、それから唇が触れた。三秒に満たないくらいの、短いキス。

「アズール、」
「なんですか」

 普段の彼からは考えられない、柔らかい顔。なんというか、隙がある。この表し方は語弊がありそうだし、もちろんいつもみたく上品な笑みではあるのだけれど、そこに他意はまったく無くて、とにかく私は、アズールがこの表情をしていると、私は彼の彼女なんだなあ、と思うのだ。誰にも伝わらなくても、それで良い。この顔はどうせ、私しか見られないのだから。
「なんでもない。それより、」
 気恥ずかしくなって、勢いよくベッドから降り立つ。それより、の後の言葉は何も考えていなかった。指で毛先をくるくると回して一言、何とか捻り出す。「散歩でも行かない?」



 街の外れの一番大きな川に沿うこの道は、私たちのいつもの散歩コースだ。特に夕暮れのこの時間は人が少なくて、空気が澄み切っている。ゆっくり深呼吸をするとまだ微かに夏の匂いがして、けれども冬のツンとくるような鋭い冷たさが私をハッとさせた。
 学園を出た頃には暖かかった手も歩いていくうちに冷えてしまっていて、そっと彼の服の袖を掴んでみる。前を見ていた彼と目が合う。お互い何も言わないまま、私は袖から手を離して、彼は宙に浮いた私の手を彼の外套のポケットへと押し込んだ。余裕があるとは言えないポケットの中で彼の指が私の指へと絡んでくる。指先からどんどん熱を含んでいって、肌寒いな、なんて気持ちはすぐにどこかへ行ってしまった。

 今年もまたこの季節。口元が緩んで、彼に悟られる前にひとつ、咳払いをした。寒くて手が悴んで、それを理由に、彼のポケットに入れてもらえる季節。もちろんただ手を繋ぐのも好きなのだけれど、この閉鎖空間での恋人繋ぎには言語化しがたい、なんとも言えぬ良さがある。

「こうやって散歩するのも、久しぶりだよね」
「そうですね」

 同じポケットに手を入れている分普段よりずっと距離が近くって、ほとんど真上から声が降ってくるような感じ。初めてではないのに、久しぶりだからかひとつひとつに動揺してしまって、私は何も言えなくなる。川沿いに続く石畳の間から伸びる色とりどりの花や元の世界では見たことのない形の草なんかをぼんやり眺めながら、なるべく彼のことを視界に入れないようにしてみた。
 けれど、動く度に擦れるコートからは彼の香りがするし、俯けば趣味のいい靴が目に入って、私より歩幅が広いはずの彼が合わせてくれているんだってわかる。今日はなんだか、全てが新しくて、特別に感じられる日だ。私の周りの出来事がひとつ残らず、はっきり縁取られている。

 無理に話をしなくても良いところが私達のいいところなのだと思い直して、話すのを諦める。皆の前では饒舌な彼も私といる時は静かで、向こうから何か話題を振ってくるのは稀だった。靴の音と川の流れる音、それから風の音が両耳に響く。どんどん人の少なくなっていく街外れの午後は静けさに包まれた緩やかな時間を刻んでいて心地良かった。最近は暗くなるのが早いから、毎日少しずつ、昼と夜が近づいている感じがする。

「あそこ、座りましょうか」

 彼の視線は数メートル先のベンチへ向かっていた。あのベンチは、普段はランニングやウォーキングをする人達の休憩スペースだったりするのだろうか。それとも、私たちのような恋人たちの安息の地? いずれにせよ、なんともちょうど良い場所にあるものだ。こういう公共のベンチだとか外灯だとかって、置く場所はどんな風に決まるのだろう。この世界にも元の世界と同じく役所があって、それから裁判所、国会、政治家だっている。来たばかりの時は何もかも違って見えたけれど、住んでみると案外仕組みや物は変わらないことの方が多いのだ。

 黙ったまま、彼に習ってベンチに腰掛ける。座る時も手は繋がったままで、そうなると自然と距離が近くなる。ポケットの中はカイロでも入っているんじゃないかというくらい熱くって、そろそろ手汗が気になってきた。肩や腕なんかはぴったり触れ合っていて、お互いの呼吸のタイミングすら手に取るようにわかる。
 今の私の中で唯一自由が許されているといってもいい両足を何となくぶらぶらさせながら川の向こう側に視線をやると、大きな犬、ゴールデンレトリーバーに見えるけれどもこの世界では呼び名が違うのかしら、とにかく犬と犬を散歩させているカップルのような2人が見えて、そのまま目が離せなくなった。なぜかは分からない。

 向こう岸といってもここからは結構な距離があって、顔や細かな服装なんかは全然はっきりしないのだけれど、日曜日の午後に散歩するふたりと1匹はこの上ない幸せの象徴に見えた。私が勝手に想像しているだけで、実際にはそんなこと、ないのかもしれないのだけれど。散歩にはこういう、他人の人生を垣間見れるような、正確には垣間見る余裕のある時間というか、そういう気持ちにさせてくれる魅力があるような気がして私はとても気に入っていた。
 いつも付き合ってくれているけれども実際のところ彼はどうなのだろう。渋々、と言った感じはしないし、前回の散歩は彼から誘われたのだから、嫌いということは無いはずだ。

「アズールはさ、散歩するの好き?」
「前までは、……というか最初は、歩くこと自体大変だったものですから、なぜ陸の人間は目的もなく歩くのだろうと思ってましたね」
 彼は一瞬だけ過去を懐かしむような表情をして、でも、と続ける。「あなたと付き合うようになってからは、少し好きになりました」
「……嬉しい。私はね、アズールとこうしてゆっくり外を歩いてる時、いちばん幸せだなって思うの」

 外套の中で指先に力を込めると、彼の指がそっと私の手の甲を撫でた。鼻からふっと息が漏れて、無意識に口元が緩む。

 その時ふと、私が向こう側のしあわせに目を奪われてしまったのは、そこに永遠の可能性があったからだと気がつく。偶然見かけた、景色の一部として映り込んできた人達。永遠。私たちに無くて彼らにはあるもの。もしかするとあのふたりはこのあとすぐ別れてしまって、二度と会うこともないのかもしれないけれど、そうでなく、これからずっと永遠に一緒にいられる可能性だってあるのだ。

「ずっとこうして、居られたらいいのだけれど」
「別れでも切り出すつもりですか」
「そんなわけないでしょ。でも、永遠に一緒に居られるかって言われたら、わからないから」

 彼の肩に頭を預けて、瞼を閉じる。付き合っているふたりの会話としては物凄く悲しいことを言ったはずなのに、なぜだか心は幸せなままだった。2年間ずっと、片時も忘れることなく思っていることだったからかもしれない。来年の今頃は皆研修に行って、それぞれ進学、就職の準備をする。
 3年生になって少し落ち着いた今、ホームルームの話題は専ら将来の事だった。そんな中ひとり考えるのは、元の世界に帰った時のこと、帰らなかった時のこと。このまま彼と居るか、彼と居ないか。
 アズール以外の誰にも、私がこの世界の人間でないことは言っていないけれど、もしこの先、あのオンボロ寮の監督生が帰るとなれば、話は別。そういう話だって、全くもって出ないわけではなかった。先生方が必死で探しているのだから、方法が見つかる可能性は大いにある。彼は一緒に帰れというだろうか、それともこのまま一緒にいたいと言ってくれるのだろうか。

「卒業したら、」

 徐ろに彼が口を開く。何か思い立った時ように、はっきりとした声だった。それと同時に繋がっていた彼の手がポケットの外へ出ていって、つられるように私も自分の膝の上へ手を置く。外気に触れた瞬間から火照りが冷めていくのがわかった。彼が距離を取るように座り直して、それから私と向き合う。
「……結婚、しましょう」

 え、と短い声が意識する前に零れて、膝に置いていた手が口元を覆う。彼と地面とを交互に見ること約五回、いくら待っても彼は「冗談です」なんて言ってくることなく、先程までと全く変わらない真顔、そうはいっても私といる時は大分優しい雰囲気の漂う真顔なのだけれど、そんな普段と同じ顔をしていて、さまよった私の視線は結局のところ、自分の靴へ注がれている。瞬きが止まらなくてよく見えない。

「これからもこうして、散歩しに来ましょう」
「いや、散歩は結婚しなくても、できる」
 絞り出すような声だった。掠れていて、可愛げなんてひとつもない。
「出来ないかもしれないじゃないですか、・・・・・・僕は、あなたが帰れなくなる理由が欲しい」

 唇にぎゅっと力が入って、鼻の奥がツンとした。目頭が熱い。靴も地面も川も段々ぼやけていって、息を吸い込むと閉まった喉が痛かった。顔を上げて彼を見る。
 眼鏡の奥の冷たくて優しい瞳。整えられたシルバーの髪。綺麗に弧を描く唇。全てが愛おしくて、泣けるほど美しかった。

「そうだね、私、アズールと結婚する」

 腕をすっと寄せられて、彼の肩に額がぶつかった。いつもの彼らしくない少し強引な抱擁は彼のプロポーズに至るまでの葛藤だとか不安だとかをわかりやすく体現しているような気がして、さらに涙が出る。私たちは人目も気にせず、しばらくそうして抱き合っていた。



「散歩するとさ、色んなこと考えちゃうんだよね。例えば……エレベーターの扉が空いた瞬間、間髪入れずに乗り込んでくる人達の人生とか」

 川の方を眺めたままの彼からはい、ともああ、ともつかない曖昧な返事が返ってくる。ポケットの中の手は徐々に温かさを取り戻していて、さっきからお互い握ったり離したり、指でなぞったりを繰り返していた。こんな付き合いたてのカップルみたいなこと、滅多にしないから照れてしまうのだけれど、周りからは何も見えていないのだし、と自分に言い聞かせる。それに今日はきっと、特別だから。

「どうして数秒待てないんだろうって思うんだけれど、きっとその人たちにも事情があって」

 聞いているのか聞いていないのか分からないな、と思いつつも続けると、出てきたばかりの時は青一色だった空から夕陽が差し込んでいるのが見えた。あと三十分もするとこのオレンジたちは夜に溶けていって、温かさから1番遠い色になるのだろう。今この時にしか感じられない景色たち。陽と風の匂い。
 彼の方に視線を移すと話の内容に見合わず真剣な表情をしているものだから、笑いそうになってしまう。

「他の人のことなんか考えたって分からないんだけれど、そういうのを考えているのが、好きなの」
「普段のあなたって、本当にどうしようもないことばかり考えてますよね」

 鼻で笑う、と表現すると感じが悪いような言い方に聞こえてしまうのだけれど、そうではなく、無意識にふっと息の漏れる、あの感じの笑み。私がどうでもいいことを話して、それを聞いた時の彼の返答の前は大体、こうやって鼻で笑われた後に行われる。私はそれが好きで堪らなかった。

「いいじゃない。こうやって散歩しながら意味の無いことを考えている時間ほど幸せな時なんて、少なくともわたしの中では無いよ」

 お気に入りのスカートがはためく。彼の目の色みたいだと思って買ったそれは今まででいちばん、もしかするとお店で見つけた時よりも、彩やかに見えた。

「だから、これからも一緒に来てよ」
「ええ。次も楽しみにしています」

 思えば彼から次、という言葉を聞くのは初めてだった。このままどこまでも歩いて行けるような、慣れ親しんだこの道がどこまでも永遠に続いて行くような気持ちになって、何となく歩幅が大きくなる。すぐに合わせられる歩調も繋がった手の温度もすべてが、言葉にならないくらいの幸せを伴っていた。誰よりも永遠の可能性を信じたいと思う、日曜日の午後だった。






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