今度は月を見に行こう



 夏の終わりは、こんな朝だと思う。冷たくて、すべてが透明な朝。夏の終わり、なんていうと星々の煌めく真っ黒な空であるとか、波の打ち寄せる音とともに響く級友の笑い声であるとか、……そういうのを思い浮かべるものだけれど、わたしの中ではどれも違う。
 朝起きて、昨日寝る直前までそこかしこにあった熱がなくって、胸の奥がすっと寂しくなる。小さい頃夢中で自転車を漕いでいて、はっと振り返ったら夕方。夏の気配が消える朝は、あの夕方に似ている。世界が切り替わる瞬間。小さい頃に感じた寂しさが輪郭を持って、再び迫ってくる。
 けれどこういうのって、誰に伝えるわけでもないし、なんだか詩的すぎて気恥ずかしいというか、何かあったわけではないから、話そうとも思わないというか。こういうとき日記でも書いていたらいいのだろうな、と思うけれど、もしいつか私が居なくなった時、自分の書いたものだけが彼の手元に残るなんて、そんな悲しいこと、想像しただけで嫌になってしまって、やめた。

 一日中気分が上がらなくて、何もできなくて、何もしなかった自分にまたむなしい気持ちになって、そんな夜。朝起きて、もう秋だな、なんて思ったけれど、この芯から冷たくなるような鋭い空気は確かに冬を予感させて、恐ろしくてたまらなくなる。こういう時、窓に季節を感じさせるものが一切映らないというのはとてもいいことのような気がするし、そうでもないような気もするのだけれど、どっちだっていい。わたしのなかでいちばん大事なのは、彼が隣に居るかいないか、それだけだ。

「どうかしましたか」

 体重をかけた分だけどこまでも沈んでいきそうな彼のベッドは座り直すたびに大きく弾んで、並んで座っていた彼との間に少しだけ距離ができる。

「なんでもないの」窓に広がる真っ黒な海を見つめながら言うと、
「なんでもない時のあなたは、こういうことはしないと思いますが」
 彼がわたしの右手と繋がれた左手をすこしだけあげて、それから微笑む。
「今日、寒いなあって思って」
「確かに、急に寒くなりましたね」
「季節の変わりめってなんだか、寂しくなったりしない?」言ってからすぐ、アズールはそんなこと思わないだろうな、と思う。

「……そんなことないか」
「僕はあまり、そういうことは思いませんが」彼が繋いでいないほうの手で私の髪を一束すくって、そのまま梳かす。「あなたがそういうタイプなのは、なんとなくわかってきました」
「そういうタイプって、何」急に近づいた距離に驚きつつも、なんとか平静を装う。

 付き合いたてというわけではないのに、彼の端正な顔立ちやふとした時に香るコロンの匂いはいつもわたしをハッとさせて、それから、恋人、という二文字を実感させてくる。

「感傷的、というか、感受性豊か、というか」
「それは、褒められてるのか、けなされてるのか」わかんない、と笑えば、
「一緒に居て面白いです」彼もふ、と笑ってわたしの方を見た。

「そう。それはよかった。わたし、アズールが一緒に居てくれたら、寂しいのも全部忘れられる気がするの」
 こんな風に目が合ったまま話すのは恥ずかしくて、うつむいてしまう。
「……そうですか」
「それにね、秋はほら、月も綺麗だし」
 そう言って窓を指さしてから、この部屋から月が見えることはないのだったな、と思い出す。「どこか見に行ったり、とか」

「そうですね、次の週末は、どこか見に行きましょうか」

 うん、と返事をして、彼の肩に頭を寄せる。
 朝の寂しさがどこかへ消えていることに気が付いた、秋の始まり。






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