夢見る雨の日



 雨の音って、聞いていると眠くならない?
 そうですかね。私はそうなの。そうですか。

 窓の外を見ながら彼に投げた質問は、失敗。私が続きを用意していなかったのも悪いけれど、何より、彼が私と話すつもりがないらしいのが要因である。つまらないなあ、と数秒前と変わらない天井を見つめても、気持ちはますます落ち込むばかりだった。海を思わせる水色の天井は綺麗だけれど、もう一生分は眺めた。さすがに飽きた。部屋にはひたすら雨が窓を叩く音と、ページを捲る音だけが響いている。

 オクタヴィネルは海の中にあるから天気なんてちっとも変わらないのかと思っていたけれど、そうでもないらしい。前に学園で、雨が降っているなあ、と思ったら、寮に帰ってきても窓の外は雨だった。どういう仕組みなのかは難しくてわからない。もしかすると、寮で天候が分からないと鏡舎に出てから困るから、なんらかの魔法で天気がわかるようにしてくれているのかもしれなかった。学園長がやっているのかしら。不思議。
 目線の先で大量の本と向き合う彼は一秒たりともこちらを振り返らず、もうずっと何かを書いている。彼のことも今日で一生分、眺めてしまったような気になっていたけれど、やっぱり素敵。見えるのが、後ろ姿だけだとしても。

「ねえ、それいつ終わるの」
 どうしても彼を振り向かせたくて、少し甘えるように言ってみる。耳の中で聞こえる自分の声になんとも言えない気持ちになって、彼から目を逸らした。今度はこれまた見飽きたベットカバーの柄が視界いっぱいに広がる。もう長いことこうしているから、来た時にピシッと整っていたシーツは所々皺くちゃになっていて、怒られるかしら、と思う。返事が無いことにやりきれなくなって転がると、壁にドンとぶつかった。

 私が部屋に遊びに来ているというのに、この放置のされ方といったら、ない。彼のベットで寝転がって駄々を捏ねている私は、彼にどう見えているのだろう。いや、何を言ってもこちらに一瞥もくれず作業しているのだから、見えはしないか。だんだん腹が立ってきて足でベットをバフバフやると、「埃が立つのでやめてください」と怒られた。なんだ、返事ができるんじゃないか。

「私、このまま寝ちゃうかもしれないなあ」
 独り言のように呟いてみても、やっぱりなにも返ってこない。冒頭の質問は失敗だと思ったけれど、二回も返ってきた分、まだ良い方だったのかもしれないな、と再び天を仰ぐ。海が広がった。
 このままこうしていても埒が明かない、とシーツと布団の間に体を滑り込ませると、途端にアズールの匂いでいっぱいになってしまって、わ、と声が出た。今までだって彼の部屋、彼のベットに居たのだけれど、こう、全部を包まれるのは、訳が違う。

「どうしました」数分ぶりに彼の声がした。
 私がした質問を全部無かったことにしたくせに、これには反応するなんて。ずるい、と思った。
「なんでもない。もう寝るんだから」

 ふんと鼻を鳴らして反対側を向いてみたけれど、やっぱり動く度に彼の匂いがして、落ち着かない。寝れるはずがなかった。気にしないようにするには他のことで頭をいっぱいにするのがいい、と思った私はどうにかして、彼と関係の無いことを思い出すよう努める。
 けれど、無理だった。彼と出会った日。彼と初めてデートした日。彼と初めて手を繋いだ日。結構な時間が経っているはずなのに、それらはすべて鮮明に脳裏に浮かんできて、驚く。私は本当に、彼が好き。

 今日だって、忙しくてなかなか二人で会えず寂しく思っていたら突然彼から電話がなって、ものすごく嬉しかったのだ。服をクロゼットから全部引っ張り出して、ああでもないこうでもないと鏡の前で合わせ、けれど彼を待たせる訳にも、二人の時間を減らす訳にもいかないからと何となく妥協して決めて、髪も梳かすにいいだけ梳かして、やっとここに来た次第である。朝のことを考えていると、部屋を滅茶苦茶にしたまま出てきたことを思い出した。片付けのことを思うと頭が痛む。今日はいっそ、ここに泊まってしまおうかしら。

「もう、寝ましたか」
 さっきよりも近くで、彼の声がする。目を瞑っているから見えないけれど、ベットが少し揺れたから端の方に座ったのだろうと思う。さっきまで後ろ姿を眺めるだけだった彼が、寝返りを打てば触れられる距離にいるかと思うとなんだか途端に緊張してきてしまった。無意識に、服の袖をきゅっと掴む。瞼にも力が入るのがわかった。

「すみません。どうしてもやらなくてはいけない仕事を、電話の後に思い出したんです」
 何も返事をしない私に向かって、彼は続ける。仕事を忘れていたなんて、普段の彼からは考えられない。余程疲れていたのだろう。さっきまでやたらに話しかけていたのが恥ずかしく、また申し訳ない気持ちでいっぱいになった。はやく謝りたいけれど、狸寝入りをしている以上どのタイミングで起きた振りをすればいいのかわからない。思えば私、だいぶ無防備なことをしたのではないか。いくらアズールが私のことを大切にしてくれているとはいえ、男の人の部屋で寝てしまうのは危険といえば危険な気がする。やっぱり思い切って起きてしまおうか、と思った矢先、目の前の影が濃くなった。

「起きてるの、わかってますよ」
 枕元に手を置かれておそるおそる彼の方へ向き直す。目が合った。数秒の沈黙があったあと、どちらからとも無くふ、と笑ってしまう。
「ごめんなさい。忙しかったのわかってたのに、声掛けたりして」
「いえ。全部、ちゃんと聞いてました」

 じゃあ答えてよ、と言いかけて、飲み込んだ。きっと、質問ひとつ答えたくても答えられないような難しい仕事だったのだ。自分の身勝手さには辟易してしまう。
「もう、終わった?」聞きながら、それとなく髪の毛を整える。寝転がったせいでヘアセットはもう跡形もなくなっていた。服のシワもぐしゃぐしゃの髪も、急に恥ずかしくなる。そっと起き上がると、彼との距離が近づいた。

「終わりました」
 言うが早いか抱きしめられるのが早いか、私は気づくと彼の腕の中にいた。すき、と小さく呟いてみる。何故だか涙が出そうになった。

「僕も、好きです」
「…さっきね」
「はい」彼がゆっくり私から離れて、隣に寝転がった。私ももう一度横になって、そっと彼の手を取ってみる。雨の音だけが、遠くに聞こえた。
「アズールと初めて会った日とか、初めて手を繋いだ日とか、そういうのを思い出してたの」

 言いながらまた、目を瞑ってみる。いつの彼を思い出しても、煌びやかで、美しい。
「それは、嬉しいような恥ずかしいような」
「考えてたら、好きだなあって思って」
 今の彼を見ようと、目を開ける。いつのアズールも素敵、と言おうとしたけれど、それは発せられることなく彼に飲み込まれた。
「すみません、急に目を閉じたのでキスして欲しいのかと。続きがあったんですね」
 どうぞ、と笑顔で促されるけれど、絶対に言わないでおこうと思った。彼はいつもこう。悔しい。

「やっぱり、寝ちゃおうかな」
「もう仕事は終わったって、言ったじゃないですか」
 少しだけ拗ねた声で彼が言った。いつもの大人びた彼からは想像出来ないような、私だけが聞ける声。特権。

「だって雨の音ってほら、聞いていると眠くならない?」彼の目をじっと見つめて、言う。
「そうですかね」
「私はそうなの」
 彼はふふ、と笑ってから
「では、一緒に寝ましょうか」と私の頭を撫でた。






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