夏/手紙/教室で



 猫は、居る。まだ見たことはないけれど、きっと犬も。空が青くて、芝生は緑。授業はいつだって眠たいし、課題は面倒くさい。学生の本分は勉強といえど、ほとんどの子どもが結局遊んでばかりいるっていうのは、どこの世界も変わらないんだな、と思う。廊下は走っちゃいけないし、授業中に手紙を回すのは、だめ。

「本当にごめん。圧倒的に私が悪いから、成績に響いたりは、しないと思う」

 10対0で私が悪い、交通事故とかでよくあるでしょう、ジューゼロってやつ。ジューゼロで、私の過失。
そこまで言ってから、交通事故なんてこの世界には無いのだったな、と思う。車が走ってないから、車同士でぶつかることも無ければ、人に当たることも無い。横断歩道。手押し信号。歩道橋。この世界には、何一つ存在しないし、不要なものである。どうやらマジカルホイール、という乗り物はあるらしいのだけれど、私はまだ見たことがない。箒で飛んでいる人とぶつかってしまったら、どうするのだろう。保険はきくのだろうか。自動車保険ならぬ、箒保険。

「言っていることはよくわかりませんが、別にそこまで怒ってはいません。まあ、僕が廊下に立たされることなんてもう、二度とないでしょうけど」

 私の隣に立つアズールは確かに、ものすごく怒っているようには見えない。でも、かといって上機嫌でもないのがわかるような、絶妙な声のトーンだった。最後のほうで少しだけ口角が上がっていたけれど、それは何か楽しいことがあったというよりは、なんというか、自分の状況と私の間抜けさを鼻で笑うような、冷笑。そういう感じ。

「ごめんなさい」

 あまりに彼に似つかわしくない状況に唇を噛みながら、謝る。気を抜いたら笑い出しそうだった。水のいっぱい入ったバケツを両手に持って廊下に立つなんて、漫画みたい。私の居た世界ではせいぜい先生の手伝いとか、反省文提出とか、そういう怒られ方がスタンダードだったのだけれど、この世界では、これが普通?…そうだとしたら、おもしろすぎる。私もアズールも、座学では先生に怒られるようなタイプではないから、何が普通、なのかはわからないけど。

「それにしたって、暑いよね。暇だし、しりとりでもする?」
 中庭にゆらゆらと浮かぶ陽炎を眺めながら、言ってみる。風はあっても生ぬるくて、シャツが汗ばむのが分かる。教室を追い出される前にジャケットを脱ぐべきだったな、と思った。
「しません。罰を受けている最中だというのに、よくそんな呑気なこと言っていられますね」

 今度は確実に、鼻で笑われた。あなたが呑気なのはいつものことですが、と続ける彼は、たとえ両手に持っているのが掃除用のバケツでも様になっていて、美しい。絵画にしても良さそうだな、と思ったけれど、バケツと美少年というのは、どこに需要があるのだろう。やっぱり、却下。

「だって、私たち結構序盤に追い出されたから、まだ三十分はあるでしょう」
「そうですね」私と話す気をなくしたのか、彼の返事はそっけない。
「陽炎って、夏に発生するイメージだけどさ」
 気にせず、続ける。
「実は春の季語、らしいんだよね。びっくりじゃない?」
 私としては結構な衝撃の事実だったんだけど。前どっかの本で読んだんだよね。いくら続けても、彼からの返答はない。さすがに冷たくないだろうか、と彼を見る。

「キゴ…とは、なんでしょう」
 交通事故だとか季語だとか、今日は元の世界のことを思い出してばかりだ。俳句の文化自体ないのだから、知らなくて当たり前。
「その季節の言葉、みたいなやつ。元の世界ではそういう言葉の分類…が、あって」

 きっと正しい説明ではないけれど、俳句のことを全部話すには時間がかかるし仕方ないのだ、と、心の中で言い訳をした。あまりにもスムーズに言葉が通じるものだから、ここが違う世界なのだということをすぐに忘れてしまう。スマートフォンだってあるし、車はないけど電車はある。電車があるということは、信号はなくとも踏切はあるのかもしれないな、と思った。それが踏切と呼ばれているのかはわからないけれど。

「季節ごとに分かれた言葉…。ほかにも、あるんですか」
「そんなに詳しくはないの。ただ、バケツに季語の分類はないっていうのは、わかる」
「それはそうでしょう」

 あまりにも真面目な顔で返されてしまって、ついに笑い出してしまう。少し水がこぼれて、足にかかった。冷たくて気持ち良い。

「本当に暑い。もう、これ全部かぶりたいくらい」
「…ちゃんと持ってもらえますか。今、僕のほうにもかかったんですけど」
 見てみると確かに、彼の足元にも水がかかっている。ごめん、と謝ると、
「すぐに乾きますし、あなたに謝られるのも飽きました」バケツを持ち直した彼が言う。

 私たちがこんなことになった経緯は、今から五分前くらいに遡る。魔法史に飽きた私が、前の席に座っていたアズールに手紙を回したことが発端だった。
 お昼明けの授業の眠さ、教科書のつまらなさ、出席番号でいけば、今日は絶対に当てられないという安心…そういう、さぼりたくなる要素、みたいなのが沢山重なって、気が付いたら私はノートの切れ端に手紙を書いていた。

 小学生の時はよくこういうことしたなあ、なんて懐かしい気持ちを伴って書かれたそれは、彼に届くことなく、いまだに私のポケットに入っている。紙飛行機みたいにして投げた直後にトレイン先生に見つかって、没収されそうになったところをさっと隠したのだった。読み上げられたり、言及されることがなくてよかった。

「あの手紙、何書いてたんですか」
「え、ここで言うの?」
 それは恥ずかしいな、なんて彼を窺うと、無言で見つめられた。もともと私のせいで立たされているのだから、逆らえない。
「授業、眠くない?ところで次のデートどこにしよう…って…ごめん」
 口に出して言うとくだらなさすぎて、ますます居心地が悪くなった。謝られるのは飽きたと言われたばかりなのに、口癖のように謝ってしまっている。

 よくよく考えれば、こんなの読み上げられたら私の学校生活は一巻の終わりである。また呆れられるんだろうな、と俯くと、石で造られた床が目に入った。バケツの取っ手が手のひらにくい込んで、痛い。

「授業が終わってから聞けばいいでしょう、わざわざ手紙で言うことでも無い」
「だって、授業に手紙を回すってなんだか、学校生活って感じするじゃない」
「え、そうですか」

 彼は心底不思議といった表情で、考え込んでいた。いつもならこういうとき、眼鏡のフレームに触れるのが彼の癖なのだけれど、今はそれが出来ないこともあって、バケツの取っ手を持ち直している。
「私の中では、そうだったの」
 言い終えた瞬間、手にかかっていた重みがすっかり無くなって、え、と声が出た。
 気配を感じて振り向くと、トレイン先生が立っている。本当に重たかったし水だってちゃんと冷たかったのに、あれらはすべて、魔法で作られた幻だったとでもいうのだろうか。この世界のことは、本当に分からない。

 授業が終わるまでずっと立たされるのかと思っていたら、違ったらしい。私たちは案外すんなりと教室に戻され、追加で怒られたりすることはなかった。こういうとき、素行がいいって便利だ。
 あれだけ意識を遠のかせていた眠気もすっかり覚めてしまって、仕方なく教科書の文字を追う。やっぱり面白くない。時計を何回みても一、二分しか経っていないし、これなら廊下でアズールとお話していた方が良かったかも、なんて思った。そんなこと言ったらまた呆れられるのは目に見えているから、絶対に彼には言えないのだけれど。

 黒板をぼんやり眺めていると、資料が配られ始めた。これは本当に些細で、なんてことない幸せなんだけれど、アズールの後ろに座るとプリントを渡される時に必ず、目が合う。私はその瞬間が愛おしくて、よくプリントが配られる授業では絶対に後ろに座るのだ。錬金術なんかで得意げに実験をしている彼を横で眺めるのも好きだけれど、真面目にノートを取っているところを後ろから眺めるのもまた、いい。
 プリントを待つだけでこんなにしあわせな気持ちになっているのはきっと、この教室で私だけだ。

 彼が振り向いて、プリントをこちらへ手渡してくる。
 やっぱり、目が合う。ガラス越しのブルーは、今日もよく澄んでいた。いつもは渡したらすぐ戻ってしまうのに、今日はやたらと見つめられてしまって、少しだけ照れてしまった。下睫毛、長いなあ。

 渡されたプリントに目をやると、教科書に出てきた国の詳しい地図のようなものが描かれている。
裏を確認しようとして、1枚分余計な厚みがあるのに気がついた。もう1枚重なっていたのかな、と捲ると、下にあったのは明らかに紙質の違う、罫線の入った紙だった。もしかして、手紙?と文字を探せば、端の方に小さく、彼の字が見つかる。成程これなら先生に見つかってもわからなそうだな、と感心した。

 下に小さく返事を書き足して、折りたたむ。本当はすぐに渡してしまいたかったけれど、今日の私は確実に目をつけられている。一日限定の問題児。お返事はもう少し経ってから出すことにして、意識を授業に戻した。

地上は暑くてかなわないので、今度の休みは海に行きましょう。
ーーお手紙ありがとう、楽しみにしてる。

 口に出したら三十秒もしないでできる会話も、手紙、それも授業中に文通となると、ものすごく特別感がある。もしかすると、こういうのを青春っていうのかしら。でも、青春している人たちは今青春してる、なんて思うことはきっとないのだと思うから、いまのところこれは、私と彼の些細な思い出、だ。

 彼とのデートのことを考えているだけで、ただ退屈だと思っていた授業さえもなんだか楽しく、頑張れるような気がしてくる。なんだか元の世界のことばかり思い出してしまう一日だったけれど、私今度のお休みは、避暑地を求めて海に行く、らしい。見に行くのではなくて、中に。

 これはこの世界でしか出来ないな、と思うと実感が湧いて、また幸せな気持ちになる。猫が居て犬が居て空は青くても私の世界とは似て非なる、この世界のことが、好きだ。彼がいる世界が、好き。
 楽しみだなあ、と心の中で呟くと、窓から生ぬるい風が吹き抜けた。もうすぐ、二度目の夏。






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