こいのはじまり



 ドアを閉めて、プレートを掛ける。今日の最後の仕事。一息ついてスマートフォンの電源をつければ彼からメッセージが届いていて、無意識のうちにつばを飲み込んだ。内容はシンプルで、何も緊張することはないのだけれど、最近のわたしは彼と話しているときも電話しているときも、ぎこちなさがにじみ出てしまっている自覚がある。

 1年半もの間友達として過ごしてきて、寮生活という性質上、それは学外の友達と過ごすよりもずっと濃い時間だったのだけれど、わたしは特に彼の事を恋愛的な意味で意識することはなかった。
 彼の事は格好良いと思うし、勉強が出来るところも尊敬している。なによりわたしにはうんと優しくしてくれるし(彼以外の友達に話しても大体信じてもらえないのだけれど)、支配人としての働きだって高校生とは思えないくらいだ。けれど別に、恋人になりたいとかそういう感情は、持っていなかったのだ。
 中から鍵をかけて従業員出口へ向かえば彼が待っていて、慌てて駆け寄る。

「ごめん。遅くなって」

 メッセージを見て、髪や服装を直しているうちに5分程経ってしまっていたのを思い出す。彼が怒るとは思えないけれど、こういう普段のちょっとしたことでもまずは謝っておくのが良いと、わたしは思う。どんなに親しい友達だって、小さな積み重ねから仲違いしてしまうこともあるからだ。塵も積もれば山となる、親しき仲にも礼儀あり、だ。

「帰りましょう」彼の声色は柔らかい。

 並んで歩きだすと、わたしたちの靴音だけが廊下に響いて、この空間に二人きりなのだということを知らしめてくるようだった。忘れていた緊張が全身に巡る。

「…なんでそんなに緊張しているんですか」
「してないよ、……わたしはいつだって自然体だもの」
「あなた、僕以外と話すときは全然自然体じゃないでしょう」彼が口角をキュッとあげて、わたしを見る。「でも最近は、僕と話すときの方が緊張しているように見える」

 何か後ろめたい事でもあるんですか、と言わんばかりの鋭い視線に、わたしは何も言えなくなる。ここでわたしが好きだと言ったら、彼はどうするのだろう。友達としてしか見てませんから、と冷たく突き放されるのだろうか。……多分そうだ。わたしだってつい最近までは、ただの友達だと思っていたのだ。

 きっかけは、飛行術の授業だった。わたしは得意でも不得意でもないといった感じで、成績は中の上くらいなのだけれど、彼は違う。ほとんど飛べていない、というか、きちんと飛んでいるのを見た事が無いくらいだ。そんな彼をみて何気なくわたしが発した、「可愛いなあ」が、すべての発端。横で聞いていたクラスメイト達に大笑いされ、しまいには可愛いと思ってしまうのは好きの最終段階、なんて意見まで頂戴してしまった。
 格好いいとあこがれているうちは幻滅する可能性があるけれど、可愛い、はもう手遅れ。どうせいつも一緒にいるのだし、付き合ってしまえばいい。アズールの恋人になって自分がした契約を取り消すようお願いしてほしい。これらが、2−Cの級友たちによる見解だ。契約の取り消しは、すぐにお断りしたけれど。

 アズールの事が好き。口に出すと妙にしっくりくるものがあって、恋を自覚するまでにそう時間はかからなかった。格好いいと思うのも、わたしだけに優しいことをうれしく思うのも、好きだったから。

「……アズールは、好きな人とかいるの」

 何か違う話題を、と思ったのに、口をついて出たのは今一番聞きたいことで、聞きたくないことだった。
アズールの好きな人。ここは男子校なのだからそもそもいないのかもしれないし、わたしが知らないだけで、学外には居るのかもしれない。たくさんの時間を過ごしてきたけれど、思えば恋愛の話なんて、したことがなかった。

「好きな人、ですか」
「そう、好きな人。ちょっと気になって」

 友達として気になったってだけで、特別な意味はありませんよ、世間話の一環ですよ、なんて風を装いたかったのに、少しだけ声が上擦った。小さく咳払いをして、ひとつ息を吐く。彼の方から目線を逸らして、ゆっくりと景色を見渡した。窓の外一面に広がる海は今日も変わらず綺麗で、どこまでも澄み渡っている。
 返答が来るまでの時間は永遠に続いていくのかと思うくらい長いものに感じられたけれど、案外あっさりと終わりを迎えた。

「居ますよ」それがどうしたんです、と続けられて、言葉が出ない。

 居るか居ないかの2択。半々。五分五分。どっちも予想していたはずなのに、いざ居ると言われてしまうと、動悸が止まらなくなる。一瞬で自分の部屋まで帰って、それから布団に包まって、あの暖かで安全な場所にずっと潜っていたくなった。自分から聞いたくせに、情けない。考えたくないのに、わたし以外の女の人と並ぶアズールまで想像してしまって、顔を顰める。

「へえ、……そうなんだ」
 なんとか絞り出した声は誰が聞いても明らかに落胆と焦り、それから悲しみを含んでいて、彼に届く前にどこかへ消え去ってくれたらいいのに、なんて思った。
「誰、とは聞かないんですね」
 彼は何故か愉快げに笑みを浮かべていて、その余裕がなんだかわたしを苛立せる。

「聞いて欲しかった?」投げやりな言い方になってしまったな、と気が付いたけれど、訂正するほどのことでもない。
「いえ。でもクラスメイトたちの間では話題ですから」
「な、なにが話題、なの」

 クラスメイトたちが話していたのは彼のことなのかわたしのことなのかは分からないが、もしわたしならたまったものではない。何かと目を引く彼とは対照的に、わたしは目立つのがあまり好きではなかった。大した魔法も使えないわたしでは、他の生徒たちに絡まれたところで対処できない。

「僕があなたの事を好きだと」
 彼の言葉を聞いて、息を飲んだ。何度か目を瞬いてから、何とか声を絞り出す。「それは、逆ではなく」
「逆?あなた、僕のこと好きなんですか」
「い、いやそういうことではないけれど」
 彼が立ち止まる。わたしもつられて歩くのを止めた。目の前には談話室が見えていて、廊下へ明かりが漏れている。他の寮生の気配もあった。

「へえ」怒っているのか楽しんでいるのか、なんとも真意の読めない声だった。「そうですか」
「じゃあ、アズールはどうなの」
「僕ですか」
「そう、僕」わざとおどけたように言って、彼の方へ手のひらを向ける。

 彼がふ、と笑った。それを見て、ここ最近の好きな人に対するふわふわした心地だとか、肌がピリつくような緊張感だとかはすっかりどこかへ消えてしまっているのに気がつく。いつものわたしと、いつものアズールだった。

「どうだと思いますか」
「わかんない。ま、わたしはさ、・・・・・・好きだよ」

 全くもって言うつもりはなかったのに、気がついたら口に出していた。なにかの魔法かしら、なんて思ってしまうほど、自分が信じられなくなる。アズールといる時はなんだか嘘が付けなくって、けれどそれがわたしにとってはすごく楽で、心地よいのだった。ずっと分かっていたことだったのに、たったいますごく実感した。だからといって勢いで告白じみたことをしてしまったのは、少し後悔しているけれど。

「さっきは好きじゃないって、言ったじゃないですか」
「あれは、その、焦っただけだって」どうしていいか分からなくなって、何となく、毛先の方を梳かしてみる。「それより、アズールはどうなのって話」
「僕は・・・・・・僕も、好きですよ」

 あなたのこと、と続いた言葉は小さくて、でも確かにわたしのところまで真っ直ぐ、飛んでくる。アズールがわたしのことを、好き。

「どうして、こんな話になったんだっけ」
「それはあなたが、」彼がまた少し、笑った。
「好きな人いる? って、聞いたんだったね」
 わたしもつられて笑う。

「それにしても、あなたよく気が付きませんでしたね」
 何を?と聞こうとした時、談話室から見知った顔が数人こちらへ向かってきて、そのままわたし達の前まで歩いてくる。そのうちのひとり、同じクラスの男の子が(男子校だから、いちいち男の子が、というのはおかしいかもしれないけれど)わたしとアズールとを交互に見たあとで、わたしだけに手招きをして「どう、契約、取り消してくれそう?」なんて聞いてきた。
「まだ付き合ってないし、もともと無理」
 ほとんど声に出さずに言うと、なんだ、とがっかりしたような、けれどどこか面白がるような返答が来て、思わず心配してしまう。「今からでも、頑張った方がいい」

「なんの相談ですか」
 わたしとクラスメイトの間に割り込むようにして、アズールが話しかけてくる。あ、余所行きの顔だ、と思った。嘘の笑顔。愛想笑い。……悪い顔。でも、この顔も好きだな、なんて眺めていれば、彼の表情はどんどん訝しげなものになっていって、気が付いたらわたしは手を掴まれてアズールの方へ引き寄せられていた。

「え、なに」
 わたしの声に、彼は答えない。
「なんだ、やっぱり付き合ってるんじゃん」
 ちゃんと頼んどいてよ、とだけ言い残して、クラスメイトとその友人たちは廊下の奥へ消えていく。頼んどいてと言われても、どうしようもないじゃないか、とぼんやり思った。彼と繋がったままの右手が熱かった。

「アズール、あの」
 少しでも動けば、彼に触れてしまう、という距離。右手は繋がっているから、正確にはもう触れているのだけれど、そうではない。誰が見ても、友達の距離では無い、そんな近さ。談話室の明かりが1本の束みたく伸びて、わたしたちの間にある数ミリの余白を埋めている。真っ白なひかりの線は暗い廊下によく映えて、いつまでも辿っていたくなるような美しさを持っていた。

「ちょっと、上を向いて貰えますか」
 上って、どの程度の上なんだろう。天井に何かあるとは思えないし、顔を上げてもアズールの顔しかない。けれど、ずっとこうしているわけにもいかないから、とりあえず、と視線を持ち上げてみた。彼の青とも薄いグレーともつかない瞳がわたしの戸惑った表情をそのままうつしているのが見えて、恥ずかしくなる。

 瞳の中のわたしを眺めているうちに、彼の顔がそっと近づいてきて、それから左の頬に手を添えられた。手袋越しのひやりとした感触に上手く息が出来なくなる。わたしの顔に触れた手から、熱だったりドキドキと音を立てる鼓動だったりこの先の期待だったりが彼にそのまま届いているんじゃないか、なんて今まで考えていなかったことが一気に押し寄せて、瞬きをしたり鼻からゆっくり息を吸ったりしているうち、そっと、唇が重なる。急なことではなかったはずなのに、目を瞑る余裕なんてなかった。

「付き合っても、人の契約を取り消したりなんてしませんよ」
 初めて交わしたキスの後の台詞がそれか、と、先程のクラスメイトの存在が少し疎ましく思えた。彼には全てお見通しのようだった。
「それは、わかってる」

 わざと拗ねたような口調で言うと、頬に添えられていた手がするりと外されて、それからもう一度、キスをされた。今度はきちんと、瞼を閉じる。談話室の明かりだけが目の奥にぼんやり、残っていた。






- ナノ -