共犯の夏
ずっと、帰ろうと思っていた。親も友達も、故郷の景色さえ、なんにも思い出せないけれど、確かに、わたしはこの世界の人間では無い。帰るべき世界がある。なるべく気にしないように、と一年半間ものあいだ過ごしてきたけれど、オンボロ寮の監督生がこの世界に迷い込んで生活することになってから、その想いは日に日に強くなっていったし、彼も、わたしのことをいつか帰るべき存在だと思っているとばかり、思っていた。けれど、違ったのだ。
いまは蒸し暑い夏の夜で(海の中にあるという性質上他の寮よりは涼しいはずだけれど)、わたしはすっかり通い慣れてしまった彼の部屋のベッドで横になっていた。
書類を片付ける彼を見ながら、向こうの世界にもこんな高校生らしくない高校生はいたのかなあ、だとか、仕事をしている彼の後ろ姿がとてもすきだからこの光景は忘れたくないなあ、だとか、そういう元の世界に関係するようなしないような、どうでもいいことをただただ考えていた。本当は何も覚えていない場所に帰るなんて嫌だけれど、かといってここに残ったあと、どうすれば良いのか分からない。
彼はわたしの事を好きだと言う。でも、それが一生を誓えるものだとは、正直年齢のこともあって信じられなかった。
高校生なんて、子どもだ。それに、わたしには彼が手放したく無くなるような財産も特技もないし、第一、高校生の愛なんてのは所詮、青春の切れはしみたいなものだと思う。彼もそういう、限られた学生生活の中に発生する一瞬のきらめきに惑わされてしまっているだけだ。そんなものに、わたしまで騙されるわけにはいかない。
もちろん、高校生で結婚して幸せに暮らした人がいるのだって、わかっている。わたしが信じられないだけで、純粋で一途な愛、無償の愛、……そういったものはいくつも存在しているのだ。殆ど元の世界のことを覚えていないとは言えど、そういった世間にまつわる記憶、一般常識、……それらだけがハッキリしているからこそ、わたしはこの世界に染まりきることが出来ていないのだった。
彼が書類の束を机で整えて、それから眼鏡を外した。わたしのほうへ静かに向かってきて、短いキスをされる。いつものことだった。いつもの部屋、いつもの時間、いつものキス。間近で見る端正な顔立ちは出会った頃より少しだけ大人びていて、一緒に過ごしてきた一年半を実感させられる。高校生の成長は早い。自分ではわからないけれど、きっとわたしだってこの世界に来た時とは違う側面を沢山持っているはずだった。
「帰りたい、ですか」
彼がそう言いながら電気を消して、わたしの横に寝転がった。
もう寝ますか。明日は何時に起きますか。そんな毎日の会話をするように軽く発せられた言葉はわたしの体に突き刺さって、それから水に波紋が広がるようにしてじんわりと侵食していく。
「どうして、そう思ったの」質問を質問で返してしまったな、と思いながらも返答を待つ。
数秒の静寂を挟んで、天井のほうを見ていた彼がわたしのほうへ向き直した。窓の外から溢れるわずかなひかりに照らされる室内は昔映画か何かで見た海底そのもので、絵画の中にいるようだな、と思う。二人の間に夏特有の生ぬるい風が吹き抜けた。
「一年半も一緒に居たら、わかります」彼がわたしの首と枕のあいだに腕を通す。距離が近付いた。「授業を受ける時も寝る時も、それ以外も隣で見てますから」
ゆっくりと彼の方へ向き直して、目を見る。最初は薄暗くて何も見えなかったけれど、だんだん輪郭が浮かんできて、視線がかち合った。もう一度触れるだけのキスをして、彼の肩のあたりに顔を埋める。コロンと彼自身の香りが混ざったなんとも言えないわたしの1番好きな匂いで満たされて、言葉がなにも出てこなくなってしまった。
「帰りたいですか」
同じ文言で繰り返された質問もやはり、気軽さと日常が滲んでいて、それなのに胸のあたりがきゅっと締め付けられる。
「帰りたくないに、決まってる」
何も覚えていないんだから、と付け加えようとしてやめた。すでに何回も彼に言っていた事だからだ。ズボンの裾が汗で張り付くのを感じて剥がそうと思った途端彼の足がわたしの足に絡んできて、手を止める。空中をさまよった右手も彼の左手に捕まってしまって、そんなことしなくても逃げませんよ、と言いたくなった。今は、居なくなりませんよ。
「暑いから、少し離れたい」
「もし、僕が帰らないでくれと言ったら」わたしの言葉に被せるようにして、彼が言う。「ずっと一緒にいてくれますか」
「ずっと一緒に、なんて言葉を貰っていいのは、同じ世界で生きてきた人だけ。……わたしにそんな権利、ないんだよ」
彼と繋がっている右手をゆっくりと解く。そのまま離れてしまおうとしたけれど、絡まった足は抜けなかった。それどころか、解かれた彼の手はわたしの背中に回されて、ぎゅ、と引き寄せられてしまう。さすがに暑くて、汗が滲んだ。熱で再びコロンの香りが立って、わたしは泣きたくなった。
「だから、暑いって」声が震える。
数秒待っても、彼からの返事はない。
「……帰るまでこうやって楽しく過ごして、学生時代あんな彼女もいたなあとか、そういう風にたまに思い出してくれたらさ、」
話していくうちにどんどん目頭に熱が集まるのが分かって、黙ってしまう。涙は頬を伝うことなく、彼のシャツに染みていった。
「僕が学生時代の思い出作りであなたと付き合っていると、…そういうことですか」
「そうじゃない、けど」鼻を啜る音が室内に響いて、少し恥ずかしくなる。「もしかして怒ってる?」
彼の声色が少しの怒りを含んでいたことに後から気が付いて、慌てて付け足す。本当に怒っているならわたしのことを抱きしめたままで居るはずないのだから、返答はわかりきっているのだけれど。すこしずるい真似をしてしまったかしら、と思う。
「怒ってます」
え、と声が出る。背中に回されていた手がわたしの肩をぐいと押して、彼の服から顔が離れた。驚いている間に彼の顔が近づいて、唇が触れる。
そのまま何度が優しく口づけられているうちに、涙はすっかり止まってしまった。彼が何を考えているのかが分からない。怒っていると言ってみたり(表情からして絶対に怒っていないし、彼はわたしが泣いている時は絶対に怒らない)、突然キスしてみたり。
「アズール、」
薄暗い中でも彼の目元ははっきりとしていて、見慣れているはずなのに顔に熱が集まりそうになる。こんな素敵なひとがわたしと付き合っているのなんて、何かの間違いだ。青春の思い違い。
「帰しませんよ、僕は」
帰らないでくれ、ではなく帰さない。懇願ではなく意思表示。この上なく彼らしいな、と思った。けれど、彼にすべて責任を押し付けるなんてことは、できない。彼がわたしのことを好きでいてくれるように、わたしだって、彼のことが好きなのだから。
「わたしは自分の意志で、帰らない。今決めたけれどこれは、アズールに言われたからじゃない。わたしが、決めたの」
「そうですか。僕のせいにしてくれても良かったんですよ」
「可愛くない女だと思った?」
彼がわたしの髪を梳かす手を止めて、ふ、と微笑んだ。
「まさか」お互いの息がかかるくらいの距離で、目が合う。「そういうところが、好きです」
どちらからともなく、今日何度目かもわからないキスをする。視界がぐらりと揺れて、彼しか見えなくなった。彼が、好き。これが、この世界でのわたしのすべて。ここが生まれ育った場所でなくても、帰らないという選択肢が間違っていても、いつか、後悔する日が来ても。彼と一緒に騙されるのなら、それでいいと思った。