くすんだり揺れたりしながら



 秋。赤や黄色に色づく街はこんなにうつくしいのに、決まって気分が落ち込むのはどうしてなのだろう。夕方は特にそうだ。空がオレンジや青に染まって、建物や木や人々の影がうんと濃くなる。夏と冬の間、ちょうど今の時期にしかしない匂いがする。懐かしくてけれどもう戻れない過去の残り香のような匂い。秋の夕方は、ときどきぞっとするほどのせつなさを運んでくる。

 今日は久しぶりに、虫太郎さんと図書館へ行った。昔みたいに読書コーナーで何時間も過ごしたりはしなかったけれど、各々好きな本を借りることができた。カフェで昼食を取って、それから買い物。休日に彼としたかったことはすべて叶ったように思えた。満たされないはずがない。

 難しい顔をして本を読む虫太郎さんの前に、お茶を置く。彼は顔を上げて礼を言い、また本に視線を戻した。横顔を見つめながらとなりに座る。長いまつ毛。閉じられたくちびる。黙っているときの彼は、神経質で人を寄せつけないひとに見える。わたしの知らない虫太郎さん。

 自分のカップを手に取って、口をつけた。湯気がふわふわとたゆたい、消える。ページを捲る音と、外を走る車の音。
 ふたりで居るのに寂しい。確かに一緒に居るのに、彼はここには居ないような気がする。話すことも、触れることもかなわない。

 どうしてそう思うのか、わたしには分からなかった。分かりたくなかった。けれどそれはひとりで居るときの寂しさよりずっと強くわたしを縛り、孤独にした。

「やっぱり、会いたくなる?」

 亡くなった月。季節の変わり目。似たトリックを使ったミステリを読んだとき。虫太郎さんが日常の中でヨコミゾさんを思う瞬間は、数え切れないほどある。今もそうだ。少し読んで、また止まって、また戻る。止める。全然集中していない。となりに居るだけでくるしくなるほど、彼の感情がおおきなものであることがわかる。

 虫太郎さんのなかの過去を見る度、自分の無力さが嫌になった。気の利いた言葉も出なければ、触れることも出来ない。余計なことをして、彼に嫌われるのが怖かった。彼の底にあるものに、人生の数年間しか共にしていないわたしでは、とうてい寄り添えないから。

「……会いたくない、といえば、嘘になるな」

 誰のことかなんて言わなくても、虫太郎さんにはきちんと伝わっていた。当然のことだった。

「そうだよね」ふう、とゆるやかなため息をつく。「虫太郎さんはずっと、ヨコミゾさんを想ってる」

 虫太郎さんのすべてを理解したいなんてことは、思わない。常に彼のいちばんでありたいとも、悲しみをわかちあいたいとも。

 彼がヨコミゾさんと出会っていなければ、性格も好きなものも、もしかすると考え方まで違って、わたしとは出会わなかったかもしれない。出会っていても、わたしは虫太郎さんを好きにならなかったかもしれない。だからこんな風に、親友を想う彼のことを遠く感じたり、踏み込めないと卑屈になったりすることは、間違っているのだ。それこそ、いつか彼に同じ思いをさせてしまう。なにかを抱えているのに、言わない。夫婦の間で、それは罪だ。

「い、一応言っておくが、ヨコミゾへの恋愛感情など」
「ふふ、わかってるよ」

 まだ恋愛感情のほうが良かった。こんなことを彼に言っても伝わらないから、口には出さないでおく。

「何かあったのか?」
「……ううん、何にも。こういったら変だけど、でも、ずっと想えるひとが居るのは、きっと素敵なことね」

 足の上に置いたままにしていた本をテーブルへ滑らせて、カップのお茶を飲み干す。

「ちょっとコンビニ行ってくる」

 立ち上がって、かばんの中から財布を出した。薄手のコートを羽織って、ストールを巻く。

「一人で行くのか」
「うん。散歩がてらね」

 少し迷って、財布を戻した。携帯だけをポケットに入れ、ドアを開ける。




 こんな時間にひとりで外に出るのは久しぶりだ。用事があっても午前中に終わらせることがほとんどで、夕方は大抵夜ご飯の準備をしているか、そうでなければ本を読んでいるから。

 商店街のお店は皆朝に来るのとは全然違う顔をしていて、おどろいた。夕陽に照らされているだけで、どこかあたたかく、自分に近しいもののように思える。それは人も同じだった。いまの瞬間、虫太郎さんよりわたしに近しい人たち。部活帰りの学生たちも、食材の詰まった手提げ袋を両手に持つ主婦も、スーツ姿のおじさんも。

 虫太郎さんにすごく不満があるとか、ヨコミゾさんとの間柄に嫉妬している、とか。考えてみたけれどどれも違った。わたしは虫太郎さんの友達になどなれないし、なりたいとも思わない。あんなに苦しませてしまうなら、仮にわたしが死んだとしても、すこしも思い出してほしくない。他の誰かとしあわせになってほしい、とまで願えるかどうかはそのときになってみないとわからないけれど、少なくともわたしが居なくなったあと、彼を支えてくれるひとが居たらいいな、とは思う。だからこれは、やっぱり、嫉妬なんかではない。彼の最も深いところに寄り添えない、純粋なさびしさ。侘しさ。

 いちばん辛いのは虫太郎さんなのに、わたしは横にいるだけで勝手に辛くなって、こうしてひとりで外に出て、なにをやっているのだろう。すぐに帰ってご飯の支度をしたいと思うのに、彼のもとへ戻りたいと思うのに、足が動かない。目もとが熱くなって、息が詰まる。それでも、涙は出ない。


  ▽

 こちらへ近づいてくる足音がして、振り向く。わたしの座るベンチの後ろから、彼が歩いてきていた。歩幅はいつもよりおおきくて、わたしたちの距離はすぐに縮まる。声をかける前に深呼吸をした。ゆっくりと立ち上がる。

「虫太郎さん」

 彼の姿は、わたしが家を出たときとどこも変わっていなかった。朝一番に整えていた髪もアイロンのかかったシャツも、わたしを見つめるまなざしも。

「ナマエ」ひそめられた眉と下がった口角。怒っているのは一目瞭然だった。「どういうつもりだ」
「そう言われても。ちょっと散歩したくなっただけよ」
「私がどれだけ探したと思っている。コンビニに行くと言った妻が一時間も帰らなかったら、心配するに決まっているだろう」

 わたしの腕に触れた彼の指さきは、服越しでもわかるくらいに冷えきっていた。手を重ねて、そのままそっと握る。お互い外にいたのだからあまり変わらないのだけれど、それでも、わたしのために冷たくなった彼の手をそのままにするわけにはいかなかった。

「……メールしたよ、ちゃんと。それに、電話くれたらきっと出たと思う」

 彼はめったに電話しないけれど、こういうときくらいは掛けてきてくれるのではないか、と少しだけ期待した。もし連絡が来たらすぐ帰るつもりだった。彼がなにかしたわけではないし、これは家出でもないから。

「……家に置いてきた」
「こんなときに。虫太郎さん慌ててたのね」

 彼は無言のまま、わたしを腕のなかへ閉じ込める。まるで壊れ物に触るかのように。頭の後ろに手を添えられて、さらにすきまが無くなる。なにか確認するみたいに何度も撫でられて、わたしはおどろいた。こんな風にわたしに触れる虫太郎さんは、はじめてだ。

「本当は、何かあったんじゃないのか」

 話している最中も、彼はわたしのことを強く抱き締めたままだ。外でこんなことをするのは彼らしくない。よほど不安にさせてしまったのだろう。それもそうだ。付き合ってから今まで、虫太郎さんと居るときにひとりで出ていったことなどないのだから。

「ううん。わたしの勝手な悩みなの。どうにもならない」

 虫太郎さんとの間にある見えない溝は、きっと一生埋まらない。怖くなるほどのしあわせのなかで、わたしはまた淋しさにとらわれる。これからもずっと、何度でも。自分が彼に大切に思われていることも、実際大切にされていることもちゃんとわかっているのに。もう会えない人には絶対に勝てない。

「だからこうして、ひとりになろうとしたのに。虫太郎さん迎えに来てくれるから」泣く暇もなかった。わざと明るくした声は、かえって痛々しく響いた。みじめだった。なにもかもがわたしから離れていく心地がする。枯れた秋の匂いも夕暮れの青さも、虫太郎さんも、すべて。

 虫太郎さんが片手ずつゆっくりと下ろす。数センチの空白ができて、どちらからともなく視線を合わせた。そのまま、わたしが座っていたベンチへ移動する。その数十秒のなかで、虫太郎さんはわたしの右手をしずかにとって、指先を絡めた。

「私はたまに、君を遠く感じることがある。……遠いというのは、少し言い過ぎのような気がするが」

 彼のひとみには、夕陽のオレンジがうつっていた。輪郭はひかりに飲まれることなくかえってはっきりとしていて、わたしにはやっぱり、虫太郎さんだけがきらきらして見えた。

「虫太郎さんこそ」靴の先でコンクリートに線を引く。じゃり、とも、ざり、ともつかない音がする。「ときどきすごく遠い」
「それは、」繋がった指さきに力が入る。
「違うのよ。過去のことを全て知りたいわけではないの。ただ、……ただ、さびしいってだけで」

 言ってしまった。わがままな女だと、すべて知りたがる面倒な女だと思われただろうか。伏せた視線を戻す勇気はなかった。
 しばらくの間があって、虫太郎さんがゆっくりと話し始める。

「すべてが解決したおかげで、私は拐われ利用されることもなくなったが、……ヨコミゾの居ない世界にもう希望など、興味の持てるものなどなかった。密室に行けばヨコミゾに会える、とも考えたが、そんな状況自体、そうそう無い」

 昔を懐かしむような、そんな声色だった。

「君に会ったのは、そのときだ」

 図書室でひとり、静かに本に向かっていた彼を思いだす。姿勢の良い後ろ姿。棚から本を選ぶときの真剣で、けれど楽しそうな眼差し。窓から洩れるひかりに照らされた横顔。

「どうりで虫太郎さん、話しかけづらかったわけだ」
 彼がちいさく笑う。きっと同じ場面を思い出している。
「君のことばかり考え、図書館に通った」

 え、と声が洩れる。会っているときは、そんな素振り一切なかったのに。実際付き合う直前まで、わたしに彼の気持ちはわからなかった。片想いだとばかり思っていた。

「まさか結婚をするなど、考えてもいなかった。なにせ学生時代から友達と呼べる人物もひとりだけ、恋愛など以ての外だ。……ヨコミゾが生きていたら、さぞかし驚いたことだろう」

 彼がはじめて好きになったのがわたしだった、というのは、付き合ってからすぐに言われていた。びっくりしたし、信じられなかった。確かに女慣れしているようには見えなかったけれど、わたしからみた彼はこの上なく素敵なひとだったから。わたしと出会う前の虫太郎さんがどんな風に生きてきたかなんて、深く考えもしなかった。
 本の中でしか会ったことのない彼の友人は、どんな風に虫太郎さんと話をしたのだろう。どんな時間を過ごしたのだろう。

「……このまま君まで居なくなったら、と考えた。気がつけば家を出ていた」

 普段の姿からは想像もできないくらい、か細くて自信の無い声だった。はっとして虫太郎さんを見つめる。目が合う。困ったような笑み。ちぐはぐで、かなしくて、いまにも泣き出しそうな。胸のしたあたりが、じんわりと痛くなる。身体中にせつなさが伝染して、わたしはなにか取り返しのつかないことをしたような気持ちになる。このひとを置いて、出ていったなんて。

「ごめんなさい」彼の手の上に、繋がっていない方の手も重ねる。涙がひと粒、落ちる。「勝手にさびしくなって、落ち込んで」
「いや、……君に何も話してこなかった私も悪い」
「そんなことない。聞きたいって言えば良かった。虫太郎さんの大事なひとのこと、過去のこと、ちゃんと知りたいって」

 下を向くと、次から次へと雫がこぼれおちた。視界がゆらめいて、鼻も目も熱くなる。
 虫太郎さんが、不意にわたしの名前を呼ぶ。触れていた手が離れて、そのまま頬へ添えられる。瞼をとじると、裏側に夕陽が残っていた。

 触れるだけの、けれど長いキス。くちびるから、指さきから、彼の気持ちが伝わってくる。少しのあいだ何も言わずに、わたしたちはただお互いを見ていた。そして、しずかに笑いあった。

「虫太郎さん、前はキスだけですごく動揺してたのに」

 大人になったのね、とからかうように言ってみる。ひと気のない道とはいえ、こんなところでわたしを抱きしめたりキスをしたりするのは、まったくもって彼らしくなかった。

「失礼だな。私は君の夫なんだ、これくらい出来」

 得意げに話す虫太郎さんに、今度はわたしからキスをする。泣き出しそうなくらい、彼のことが好きでたまらなかった。

「な、なな何を急に、……」

 数秒前とは打って変わって慌てる虫太郎さんに、わたしはまた声を立てる。こんなに素敵で可愛らしいひとは、きっと世界中で虫太郎さんだけだ。

「びっくりした?」
「べ、別にそんな、これくらい慣れている」
「そう?」

 勢いよく立ち上がった虫太郎さんにつられて、わたしも横へ並ぶ。それから腕を絡めて、肩のした辺りに頭を寄せた。いつもはこんなことしないけれど、今日くらいは許される、と思いたい。「迎えに来てくれてありがとう」

「……ああ」
 透ける青に紺が迫る。帰る頃にはすっかり暗くなりそうだ。
「大好きよ」
「唐突だな」数秒の静寂。そのあとで、虫太郎さんが呟くように言う。「……私もだ」

 虫太郎さんのもとへ帰ることができて良かった。心からそう思う。わたしは今確かに、彼のとなりに立っているのだ。もう、遠くに感じることはない。

 澄んだ秋風にストールが揺れた。ふたりぶんの影が繋がって、伸びていく。夕飯の献立を考えながら、わたしは彼の横顔を見ていた。わたしのなかで、秋はもうさびしさの象徴ではなくなっている。
 


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くすんだり揺れたりしながら
宝石箱のなかで

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