そこはやさしい奈落



 このひとはどんな風に笑うんだろう。または、このひとの難しい顔って、いくらでも眺めていられるような気がする。

 彼を好きになる直前に思ったことは、多分このどちらかだ。いまとなっては記憶も曖昧──出会ってから好きになるまでが短かったから、その前を思い出そうとしてもぼやけてしまう──で、とるにたらないことではあるのだけれど、彼の居ない家に取り残されたわたしがさびしさを埋めるには、やっぱり彼のことでも考えているしかない。観葉植物たちにやかんの水をあげながら、流れる雲を目で追う。遠く離れるひとに、空はどこまでも繋がっているから、などとよく言うけれど、そんなのって幻想だ。何を言われても、となりに居てくれない事実は変わらないのだから。莫迦みたいだ。

 虫太郎さんはいまごろ何をしているのだろう。危険な場所に行かされたり、やりたくないことをやらされたりしていないといいのだけれど。楽しそうに仕事の話をする彼は見たことがないから、そもそも仕事をすること自体あんまり乗り気じゃないのかもしれない。だったらずっと家にいてくれればいいのに、……。こんなのってめちゃくちゃな考えだ。それこそ、莫迦みたいだと苦笑する。

 つめたい紅茶の沢山入ったガラス瓶とコップ、それから読みかけの本をテーブルへ置く。夏に一日中読書をしたいときのセットだ。冬だと飲み物が温かくなったり、ひざ掛けが追加されたりする。いかにも固い内容の本です、といわんばかりの表紙をめくって、栞を抜きとる。虫太郎さんが出張に行った日に読みはじめた神秘学の専門書は、まだ四分の一もいかないくらいだ。わたしの普段の読書スピードからすると、ものすごく遅い。いちいちまどろっこしい言い回しと、難解な専門用語のせいだ。

 それでも、彼と繋がっていられるのはこれを読んでいるときだけだから────。彼が好きだというだけで愛しく思えてしまう文章たちに目を落として、わたしは思い出す。彼と出会ったときのことを。彼を好きになったときのことを。

▽▽▽

 空を覆い尽くすほど大きな雲が、図書館の窓いっぱいに広がっている。ガラス越しに湿った空気が伝染してくるような、鬱屈としたグレーだった。霧のような雨が降っている。

 本棚から気になっていたものを数冊選び、読書コーナーへ足を進める。中央に置かれた大きなテーブルは、制服を着た学生たちにほとんど占拠されていた。時期からして、テスト前なのだろう。どうりで普段より騒がしかったわけだ。理由がわかってすっきりしたものの、席がないのは困る。家で読んでもいいけれど、今日はやめようかと悩みに悩んで、それでも休みを無駄にするわけにはいかないと、気合を入れてやってきたのだ。このまま帰ればそれだけで疲れてしまって、借りてきた本を読む気になどならないだろう。雨の日の外出は体力が要る。

 どこかに空いている席はないかと歩くうち、窓際のスペースが目についた。学生たちのいる大きなテーブルからは少し離れていて、落ち着いて読めそうな場所だった。ひとつの机に、椅子が二つ横並びで置いてある。間隔は充分空いているから、知らない人と相席しても特に問題は無いように思えた。

 一応、先に座っているひとには一声掛けた方がいいのだろうか──すこし迷って、まずはどんなひとなのか確認することに決める。

 真剣に読書をする後ろ姿に近づいて、わたしはおどろいた。いつも見かけるひとだったから。
 彼とは何度も会っていた。服装も髪型も特徴的で覚えやすかったし、なにより会う頻度が高かった。毎日来ているのか、通うタイミングが見事に一致しているのか。とはいえ、わたしには彼の名前も本の好み(彼は本を寝かせた状態で読むので、表紙を見ることが出来ない)も、わからない。

「あの、すみません」
「……何だ」

 素っ気ない態度に怯みかけて、ぐっとつま先に力を入れる。初対面で敬語を使わないなんて、珍しいひとだ。歳が近いような感じがするから、そのせいなのかもしれない。

「となり、座りたくて」
「ああ、……別に構わない」
「ありがとう」会話が途切れそうな予感がしたので、間を置かずに次の言葉を投げてみる。「いつも来てます、よね。よく会う」

 向こうがわたしのことを認識しているかは分からなかった。不快に思われるかもしれないし、怪しまれるかもしれない。でも、彼と話せるチャンスはいまを逃したらきっともう巡ってこない。

「確かに、君とはよく会うな。話すのは初めてだが」

 彼が栞のひもをおろす。それでも、厚みのある本は開かれたままになっていた。彼がいつも読んでいる時のように。
 わたしも抱えていた本をテーブルへ置いて、彼の方へ身体を向けた。

「何か、不思議な感じ。こんなに会っているのに、声も聞いたことがなかったから」

 わたしが知っているのは、彼が毎回きっちり髪型をセットしてきていて、着ている物も上等だということ。時々何かを書いていること。図書館の常連だということ。本を読んでいるときの横顔がうつくしいこと。それだけだ。

「私は、君が話しているのを見かけたことがある」
「司書さんと話してたときかな」
「いや、ここに初めて来たとかいう若い男に、本の場所を」

 過去のわたしとその男の人が居た場所なのか、彼は遠くの本棚に視線をうつした。つられてわたしも見たけれど、ぼんやりとしか思い出せない。

「どんな人だったかまで、……あなたよく見てるのね」
「い、いや別に、見ていたわけではない」
 たまたまだ。彼は言い、ちいさく咳払いをする。
「そう。わたしもあなたのこと見てたから、おあいこだわ」

 知っているけれど知らない、という微妙な関係。同じ図書館の常連同士。この閉鎖的な空間では盗み見のひとつやふたつ、仕方がないことのように思える。

「君の、名前を聞いてもいいか」
 戸惑いながらも、しずかにこたえる。それから図書館の会員カードを見せて、漢字も説明した。「わたしも聞いていい?」
「ああ。……小栗虫太郎だ」
「小栗さん」

 頭のなかで、彼の名前を何度も反芻した。蝶ネクタイの少し上あたりをぼんやりとながめる。シャツにはしっかりアイロンがかかっていた。几帳面な人なのだろうか。

「虫太郎でいい」
「じゃあ、虫太郎さんはいつも、どんな本を読んでいるの? ずっと気になってた」

 名前の部分だけぎごちなくなってしまった。初めて話す異性のことを下の名前で呼ぶなんて、子どもの頃以来だった。緊張するのも無理はない。そう思って、あまり気にしないことにする。虫太郎さんは表紙をこちらへ傾けてくれた。分厚くて、表紙にも箔押しがされている。神秘学について書かれた本のようだ。

「君のほうこそ、何を」
「恋愛小説ばっかりよ。どれもあんまり共感はできないけれど」

 溶けるような恋、とか、燃えるような恋とか。わたしには分からない。けれど、分からないから楽しいっていうことも、ある。

「恋愛小説……。人生において一度も読んだことはないな。……ミステリなら、読まないこともないが」

 彼のひとみがほんの僅かにやわめられる。視線の先にはなにもないのに、彼はどこか遠いものを見ているような気がした。

「ミステリも読むのね。良かった」
「良かった、とはなんだ」

 バチバチと音を立てて、雨粒が窓に打ちつけられる。

「だって虫太郎さんがいま読んでるそれ、わたしには難しくて到底理解できそうにないんだもの」

 開いたまま置かれている神秘学の本はそもそも外国語で書かれていて、ひとつの単語として拾うことが出来なかった。
 いまだけ翻訳家だとか、通訳だとか、そういう人たちになれたらいいのに。そう思わないこともない。けれど、ミステリなら。

「あなたと同じものを読んでみたいの。ミステリなら、わたしも好きだから」

 彼がただのミステリ好きなんかじゃないことを、このときのわたしは知る由もなかった。彼の友人のことも、異能も、過去も。


  ▽

 よく晴れた夏の真昼。青々とした葉が風に揺られ、木洩れ日がかがやいている。
 今日は朝から図書館で読書をしていた。虫太郎さんから教えてもらった本を借り、そのまま机に向かっていたのだ。そうして三時間くらいが過ぎ、きりの良いところで栞を挟んで顔を上げた瞬間、虫太郎さんと目が合った。彼もちょうど本を閉じたところのようだった。一緒にご飯でも行きませんか、なんて誘えたら良かったのだけれど、わたしにそんな勇気はない。それに、好きな本を共有して、その帰り道を共にできているだけで充分だという気持ちもあった。

「木洩れ日って素敵なことば。これ以外ないって響きだわ」

 今日はすこし遠回りをして、街から一、二本はずれた緑の多い道を歩いていた。わたしがどんな道を選択しても、虫太郎さんは何も言わずに一緒に歩いてくれる。
 近道をして帰ってしまうなんてもったいない。彼もそう思っていたらいいのに、と心のなかでひとりごとを言う。

「確かに、……まあそうだな」

 虫太郎さんは地面に浮かぶひかりの模様を見ている。楽しそうには見えないけれど、かといって別につまらないとか、怒っているというわけではないのだということに、わたしは最近気がついた。

 虫太郎さんはそんなに笑わない。無表情なのではなくて(彼はむしろ表情豊かなほうだ)、おおきく笑うことが少ないのだ。だからこそ、ふとしたときにちいさく洩れる笑みははっとするほどうつくしいし、得意げに笑うとき──眉がきゅっと上がって、ひとみはするどく、なんだかちょっと悪い表情にも見える──も、わたしにはとっても魅力的に思える。つまり彼がどんな顔をしていても、わたしは彼を素敵だと思う、ということだ。

「あまり考えたことはなかったが」虫太郎さんは表情をふっと緩めて、わたしのほうへ視線を寄越す。「これからは木洩れ日を見る度、君のことを思い出しそうだな」

「……そんなこと」あっていいのだろうか。最後まで言いきれず、口を閉じる。彼の生活に入り込めるなんて、思い出してもらえるなんて。「毎日こんな晴れた、夏の日だったらいいのに」

 ぬるい風が通り抜ける。ざわざわと葉の動く音がする。

「……そうだな」

 わたしはこんなに動揺しているのに、彼はすました顔で答えてくる。不公平だ。恋愛経験は無く、異性と話すのも珍しいことなのだと言っていたのに、あれは嘘だったのではないか。

「虫太郎さんって、好きなひととかいるの」

 彼の目が訝しげに細められる。立ち止まりかけて、また歩いて、の繰り返しだ。景色の流れるスピードが急に低迷する。

「な、なな何故そのようなことを聞く」
「やっぱりなんでもない。忘れて」

 どうして聞いてしまったのだろう。
 虫太郎さんの好きなひと。最近ずっと考えていたことだけれど、まさかこんなふうにして、本人に聞くつもりなんてなかった。虫太郎さんと一緒にいると、わたしは自分を見失いそうになる。

「それでは答えになっていないだろう」
「忘れて」虫太郎さんの服の袖をやわく掴む。早まる鼓動にも、暑さのせいではない身体の熱にも、得体の知れないきらきらした感情にも、耐えられない。

「……さっきの話の続き、なんだけど」彼の腕から手を離す。まっすぐ前を向く。「木洩れ日みたいに完璧な日本語に比べて、……句読点ってことば、変だと思わない」

 話題転換が下手にも程がある、と自嘲の笑みが洩れる。いつもより早口になってしまったし、またぎこちなくもあった。

「……句読点? 特に何も、意識したことはないが」

 虫太郎さんが、ちいさく声を立てる。変な女だと思われているかもしれない。けれど、ここで黙るのはもっと変だ。背中に汗をかくのを感じながら、話を続ける。

「だってね、句点ってたいてい、というか絶対、読点のあとにくるでしょう? 文のなかで読点より先に句点が来るなんてことは、ない」
「ああ」

 突拍子もない話だったのに、適当に聞いている感じはなくて、わたしはまたひとり、立ち止まりそうになる。きちんと同じものを想像して、考えているひとの相槌。彼がこんな莫迦げた、解決策も何もないただの疑問を真剣に聞いてくれるなんて。
 このひととずっと一緒に、こうして話していられたら。ふと浮かんだ思いに、自分でおどろく。

「それなのにどうして句、が先に来るのよ」ただぼんやりと思っていたことでも、一度口に出してしまうと本当の疑問になってしまう。「でもわたしたちは句読点、ってことばに慣れてしまっているから、いまさら読句点ってわけにもいかない」

 見慣れた建物の立ち並ぶ、いつもの道に出た。別れる場所まではもう五分もない。

「君はいつもそんな変、……いや、可笑しなことを考えているのか」
「変も可笑しなも変わらないわ」言い直してくれなくても結構、とそっぽを向く。
「違うんだ、その、……君のことを悪く言いたかったわけじゃない。私はむしろ、」
「……むしろ?」
「君の、……そういうところが好きだ」

 時間が止まったかと思った。車の音も風の音も嘘みたいに遠のいて、虫太郎さんだけがはっきりと輪郭を持っている。全部が溶けそうなくらい、あつい。これは恋だ。きっと人生をかけた、恋。

「ありがとう」彼の顔を見る。不機嫌そうで、けれど頬はじんわり赤くなっている。「わたしも好きよ。虫太郎さんのこと」

 最初は手の甲。それから指さき。何回かぶつかって、目配せをした。お互い何も言わずに、微笑む。繋がった手の間で、影が揺れる。

   ▽

 わたしたちはひと夏で恋に落ちてしまった。虫太郎さんは未だに信じられない、と言うけれど、わたしには当然のことのように思えた。もしくは、運命だと。初めて話したあのときからきっとわたしは彼のことが好きだったし、もしかすると彼もそうだったのかもしれない、なんて考えてしまうほどに。
 わたしも虫太郎さんも、一緒に居るべくして一緒に居るのだ。


   ▽▽▽

 自然を考察するときの魂は、非感覚的な宇宙内容を考察するときよりもはるかに強く、その考察対象によって────。

「ぜんぜん集中できない」

 序盤の章で止まったままの本を閉じて、おおきく伸びをする。考えごとをしていると、無意識に同じ段落ばかりをなぞってしまって進まない。今日は虫太郎さんが帰ってくる日だから、余計に色んなことを思い出してしまうのだった。どこを見ても、何をしていても、虫太郎さんにまつわる出来事がよみがえる。

 椅子。食器。鏡。彼に関係するだけで、すべてがきらきらひかって見える。この家は、わたしにとって宝石箱みたいだ。彼が帰ってきたら蓋を閉めて、鍵をして、そうしてずっと暮らせればいいのに。……なんて、莫迦みたいな考えが浮かぶ。昔の彼を思い出したりなんかするからだ。

 窓の外では、雲がいつのまにか消えていた。虫太郎さんの居るところに向かったのかしら、と思う。彼を思えるのなら、幻想でもなんでも良かった。

 きらめく宝石箱のなか。わたしは今日も、虫太郎さんの帰りを待っている。
 


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そこはやさしい奈落
宝石箱のなかで

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