この夜は君にあげる



 おだやかな昼下がり。わたしと虫太郎さんは、いつものように図書館から帰っている。ふたりとも両手を外套のポケットに入れ、背中を丸めて歩いていた。枯葉が風に運ばれ、コンクリートをからからとなぞっていく。数分歩けば鼻が赤くなるような、まさに大寒波襲来、といった気温だ。マフラーに顔を埋める。

「来週、仕事が入った。しばらく帰れない」

 虫太郎さんの着ているコートを、わたしはなぜだかすごく見慣れたもののように感じた。これはつい最近一緒に出かけたときに買ったもので、この格好の彼に会ったのはまだ数回だというのに。

「しばらくってどれくらい?」

 虫太郎さんの異能が貴重ですごく強い──使い方によっては世界をひっくり返してしまうような──ものだということは、わたしにもわかっていた。詳細を話してくれることはなかった(知ることで君に危険が及んだら困る、と真剣な顔で言われたら、それ以上聞くことはかなわなかった)から憶測でしかないけれど、国や政府が絡むものなのかもしれない。

「大体、二ヶ月くらいだ」

 話の切り出し方(会話が途切れた途端、準備していたかのように言われた)や緊張した声色からして、気軽な任務ではなさそうだ。数日前から何か言いたいことがあるような雰囲気で、ずっと気がかりだった。彼がなにか危ない目にあうのではないかと、不安な気持ちが押し寄せる。

「……長いのね。寂しい」

 そこかしこに出来た浅い水たまりが、日差しをうけて細やかにひかる。昨晩はひさしぶりに雪が降った。その様子を眺めながら、彼のことを考えて過ごしたのをぼんやりと思い出す。

「君に、待っていてほしい」
「言われなくても、待ってるわ」

 空は高く、淡い青がどこまでも広がっている。空気を深く吸いこめば、透き通った冬のにおいがした。

「……違う」先に進むわたしの手を、虫太郎さんが掴む。「その、私の家で、」

 水たまりを踏み越えようとしたブーツが止まって、ゆっくりと戻る。靴音が妙におおきく聞こえた。揃ったつま先を見つめながら、わたしは考える。

 待っていてほしい。私の家で。
 虫太郎さんの家で、わたしが彼を待つ。

「一緒に住むってこと?」
「そうだ」

 少しだけ想像してみる。虫太郎さんと暮らす家で、生活する自分を。朝起きて、となりに彼がいる。朝ごはんを作って、一緒に食べて、出かける彼を見送る。お昼は掃除をしたり本を読んだりして、夕方は晩御飯を作る。虫太郎さんが帰ってくる。それから──。

 いままで同棲なんて考えてもいなかったのに、言われたそばからいくらでも想像することが出来て、驚く。

「もちろん良いけれど、でもすこし意外」

 いままで、ずっと彼のそばに居られたらと願うことはあっても、それを実際に口に出すことははばかられた。虫太郎さんはわたしの恋びとであると同時に、危険な経験も辛い過去も沢山持っている、この国にとって重要な異能力者でもあるのだ。どんな事情があるのか分からない。

「意外?……私が同棲を申し込むのがか?」
「だって虫太郎さん、他人と生活とか苦手そうだし」

 彼のこだわりが強いことは、これまでの付き合いでわかっていた。それも数年恋人をやっているからわかる、というものではなく、彼自身が最初から教えてくれたのだ。理想がすべて叶う環境はそう現実的なものではないから、彼自身もそれが絶対だとは考えていないようだったけれど。

「そうだな。確かに、君以外の他人と住むのは考えられない」
「わたしならいいの? 結構わがまま言うかもよ」

 現に、彼の家に泊まったときには髪を乾かして欲しいとねだったり、夜にどうしてもアイスが食べたいと駄々を捏ねたりしたことがある。我ながら面倒くさい彼女だと思う。でも虫太郎さんが付き合ってくれるうちは、面倒くさい女でいたい、とも思ってしまう。

「いいから言っている」

 なんとなくで同棲を決める、とか、なりゆきで転がり込む、とか。この歳になればそういう話もよく聞くのに、虫太郎さんはきちんとわたしに気持ちを伝えてくれる。仕事というきっかけがないと言い出せなかったであろうところも、可愛らしくてため息がでた。彼らしい、と思った。

 虫太郎さんはすごく真面目なひとだ。感情がわかりやすくて、友達想いで、誠実。それから知識があって、やさしくて、……素敵な箇所を挙げていけば、キリがない。もちろん話し方や雰囲気から、気難しく、ひねくれた人と勘違いされることもあるとは思うのだけれど、それらはほとんど誤解だ。皆が虫太郎さんの魅力に気がついてしまったらそれはそれで困るから、解いて回る気などわかないけれど。

「ナマエ」虫太郎さんのひとみには、わたしだけが映っている。「……帰ってきたら、私と結婚して欲しい」

 彼を存分に見つめたあと、視線を下にやる。左手で何かが光った。指輪だ。おかしい、と思った。わたしはまだ返事も────。

 これは夢だ、と気がついた瞬間、目が覚める。


▽▽▽

 どうやらソファで眠ってしまっていたらしい。首をゆっくりと回して、おおきく伸びをする。はずみで毛布が落ちた。

「あれ、」

 昼寝をするつもりなんてなかったから、眠る前は毛布など用意していなかったはずだ。横になりながら本を読んでいて、それから──。テーブルへ視線をうつせば、栞が挟まれたミステリ小説がある。ふと気がついて、耳をすました。シャワーの音がする。
 虫太郎さんが帰ってきている。わたしが寝ているあいだに。

 きっといつも通りドアをあけて、けれどわたしが出てこないから、不審に思っただろう。それからリビングへ向かって、ソファで眠るわたしを見つけた。読みかけの本は胸もとに伏せられ、足が放り出されている。起こすか悩んで、結局毛布をかける。本はそのまま紐を下ろして、テーブルへ置く。食卓に準備された食器やキッチンに置かれた鍋を見て、先にお風呂に入ることを決める。虫太郎さんの行動を予想するだけで、自然と頬が緩んだ。

 しずかに起き上がって、毛布をたたむ。なんとなく、ポールハンガーのほうを見た。夢のなかで彼が着ていたのと同じコートが掛けられている。また笑みが洩れる。シャワーが止んだので、わたしは大急ぎでキッチンにかけ込んだ。それからはっとして、電子レンジのドアにうつる自分をみる。寝癖を撫でつける。




「さっき夢のなかで、もう一回プロポーズしてもらっちゃった」

 普段ならいちいち夢の内容なんて話したりしないのだけれど、今日はどうしても彼に聞いて欲しかった。水の音に負けないようにほんの少しだけ声を張る。虫太郎さんはとなりで、わたしの洗ったお皿を拭いてくれている。最初は見ている(というか後片付けをしているわたしに話しかけに来てきた)だけだったのだけれど、それならば手伝ってくれてもいいじゃない、と提案してみたのがきっかけだった。

 もちろん全て自分で片付けてもいいし、彼が食後ひとりで寛いでいたとしても、それで良い。けれどこうして共同作業をするだけでしあわせな気持ちになれるのだから、たまに付き合ってもらうのも悪くないかな、と思っている。虫太郎さんにお皿を仕舞わせたり髪を乾かしてもらったり出来るのは、きっと世界でわたしだけだ。

「……私の夢だったのか」
「そうよ。虫太郎さんはあんまり夢に出てこないから、貴重だったわ」

 最後に小皿を渡して、水を止めた。手を拭いて、キッチン台に寄りかかる。腰にひんやりとした感覚が伝わってくる。

「私はよく、君の夢を見るが」
 虫太郎さんが食器棚を開けて、丁寧に皿をしまう。
「意外。出張のときとか?」
「そうだな。夢でもこんな風に話していることが多い」

 へえ、と相槌を打つ。こんな風に、と言うとき彼が不意にわたしを見つめたので、どきどきしてしまった。虫太郎さんの眼差しはいつもまっすぐだ。彼は棚の扉を閉め、布巾のシワを伸ばしてラックへかける。

「離れてるときの夜って、どうしても不安になるけど」水ですっかり冷えた両手を擦り合わせる。「そんなとき、虫太郎さんが夢でわたしと話してるって思うと、ちょっと耐えられるような気がする」
「……君は不思議だな」

 虫太郎さんがわたしの横へ並んで、捲りあげた袖を元に戻す。

「変って言いたいんでしょう」どうせ、と続ける。わたしをこんな風に面白がるのは虫太郎さんだけだ。

「いや」短く言って、彼は笑った。くちびるがうつくしく弧を描く。わたしもつられて微笑んだ。数秒、目が合う。虫太郎さんがわたしに合わせてすこし屈む。どちらからともなくキスをする。離れて、また見つめあう。今度はふたりして声を立てた。虫太郎さんにしてはめずらしい、少年みたいな笑みだった。


 寝室には冬の冷気が漂っている。カーテンを閉めて、布団にもぐり込む。先に入っていた虫太郎さんがわたしのほうへ腕を伸ばす。そうするのが決まっているみたいに、なだらかで自然な動作だった。常夜灯のあかりだけが、わたしたちを照らしている。

「虫太郎さん」
「……何だ」

 首のしたに通された彼の腕は、じんわりと温かい。枕に頭を置いて、彼を見た。顔の距離が自然と近くなる。虫太郎さんのひとみが鈍くつめたく、ひかる。

「わたしと結婚してくれてありがとう」
「君の話はいつも急だな」

 虫太郎さんが瞬きするたび、まつ毛の影がおりる。口調とは裏腹に、彼はどこか楽しげだ。慣れた手つきでわたしの顔にかかった髪を避け、そっと頬に触れられる。出会った当初の彼──というか、付き合ってしばらく──からは想像もつかない姿だ。あの頃のわたしがこんな光景を見たら、きっと嘘だというだろう。

「こういうのはいつ言っても良いでしょ」
「ああ」そうだな。彼は独りごとのように言う。「私のほうこそ、……感謝している」
「ふふ、なんか照れちゃう」

 身体を移動させて、虫太郎さんの肩に額をつける。すぐに背中に手を回されて、ぎゅっと抱きしめられた。虫太郎さんの匂いがして、何も見えなくて、ただただ彼の気持ちが伝わってくる。世界でいちばん安心できる場所。

 明日の夜も明後日の夜もずっと先の夜も、こうして彼と迎えられたらいい。この家のなかでふたり寄り添っていられたら、それ以上の幸せなんてどこにもないのだ。

「おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」

 虫太郎さんの声を聞きながら、わたしはゆっくりと目をとじる。


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この夜は君にあげる
宝石箱のなかで

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